第14話 四辻家
娘を馬に乗せて屋敷まで送り、礼をすると引き止めるのを固辞して、本来の目的地に到着したのはもう、朝だった。
公家の屋敷である。
内裏より潤っているように見えるのは、当主の『営業』が上手くいっているからではなかろうか。
武士が力と力で勝負している昨今、とっくの昔に武力を手放して、宮廷で優雅な権謀術策に明け暮れていた公家たちにとっては、受難の時代だった。
戦乱に追われて地方に下る者も数多く、都に残った者も生きる為に、娘を田舎者にやったり、武士たちに先祖代々の教養を教えたりして、活路を求めた。
この家の主は、駿河の今川義元や甲斐の武田信玄とも親密だという。
「四辻さまのお屋敷でしょうか。越後から参りました、とお伝えください。」
門番は用心しながら扉を開けた。
そこに、少女が供を二人連れただけで立っているので、驚いたようだった。
「夜通し外を歩いていたのかい?なんて物騒な。」
所司代がやっきとなって追い求めている盗賊団が出るというのに、と通してくれながら言う。
「へえ。じゃあ、あの連中かしら。」
「えっ、会ったのかい。」
「はい。多分、おそらく。」
覆面の騎馬武者たちのことを話した。
「いや、どういう連中だか、顔を見た者は居ないというから。へえ、本当に会ったとはね。」
ともかくこれからは夜、出歩かないほうがいい。命が幾つあっても足りないよ、と忠告された。
奥に通された。
待っていると、
「遅うなってしもうた、間に合うかの?」
「急げばどもないでっしゃろ。」
「早よ、済まそ。」
痩せて上品な老人と若者が、せかせかと入ってきた。正面に座ると、いきなり言った。
「麿はこの家の主や。こちらが息子や。早速やけど、そちを息子の養女にして遣わす。」
「はっ?」
驚いて顔を上げた。
老人は四辻季遠、権大納言で、息子は公遠、これも参議を務める。
四辻家といえば、遠くは藤原不比等に始まる藤原四家のうち、藤原道長の叔父に始まる藤原北家の支流、閑院流の西園寺流四家の一門で、羽林家の資格を有する名門中の名門で、宮廷の重鎮である。
……ということが、ぱっと頭に浮かんだわけではない。ここが大層位の高い貴族のお屋敷だ、ということくらいしか知らなかった。
面食らっている紅に、老人は言葉を継いだ。
「ああ、養女、や。ほんまの娘やない。そちが今から奉公に上がる家には、そちのような、何処の馬の骨だかわからん娘は上がれんさかい。ハク付け、や、要するにな。」
「馬の骨って……。我が家はそもそも、藤原四家のうち、藤原南家乙麻呂流工藤氏の支流で、鎌倉の御家人工藤祐経が弟……。」
老人は、手にした扇を、蝿でも追っ払うような手つきで振り回しながら、
「もうええ、忙しいさかい。後は侍女に聞くがええ。少ぅし内の仕事を教わっとき。あそこは何でも、宮中の遣り方を真似とるさかい、役に立つやろ。もう二度と会うことも無いやろけど、息災にな。」
息子を連れて、そそくさと席を立ってしまった。
(そもそも、あたしの名前、御存知なんだろうか)
それから半月ほど、紅は、この家の侍女から、女中働きの初歩を教わることになった。
その後、親子と対面することはなかった。後に、雇われた先で大きな宴が開かれたとき、遠くから、ちらりと姿を見たきりである。盆暮れの付け届けだけは、ちゃんとするように、侍女から遠まわしに言われたが、関係はそれだけだった。
ある日、荷物を纏め、侍女に連れられて出かけた。
「あの、こちらのお屋敷は?」
桧皮葺で、公家の屋敷というより城のような、立派な石垣のある堀を廻らした、でも工事中の、とある邸宅に入ろうとするので、尋ねた。
「こちらは室町中御門第や。武衛陣、二条御所ともいう。」
「御所?内裏、ですか?」
「ここは」
侍女は言った。
「公方の住まいである。」
時の将軍は、第十三代、足利義輝である。
『武衛』とは、左衛門佐{武官の官職}の中国読みで、室町幕府の三管領筆頭、斯波氏の敬称である。足利将軍家に次ぐ家柄とされた。
室町幕府といえば『花の御所』という印象が強いが、この時代にはもう、戦乱で焼失している。
将軍の権威は、長らく地に落ちていた。
武力を持たない足利将軍家は、応仁の乱以来、都を支配するその時々の諸勢力の神輿として、都合よく利用され続けていた。
義輝自身も子供のときから、その時々、有力な勢力の神輿として、担いでいる勢力が力あるときは都に居られるが、負けた時は共に都を追われ、担ぎ手が変われば又、都に戻る、といった具合に、近畿各地を放浪する毎日を送っていた。そんな生活に嫌気がさした義輝は、自分の力で、幕府権力と将軍権威の回復を目指すことを決心した。七年前には都に戻ってくることが出来た。今、室町勘解由小路{現下立売通り}にある斯波氏の屋敷跡{現平安女学院敷地}に、自分の邸を建てている最中なのである。
四辻の侍女は、紅を公方の侍女に引き渡すと、これで用が済んだとばかり、後ろも見ずに、とっとと帰って行った。
紅が、四辻の侍女の後姿を心細く見送っていると、公方の侍女が、
「何をぼうっとしているの。さっさと来なさい。」
足早に歩き出した。
紅は慌てて、後を追った。
その様子を御簾の陰から見ていた人物が、言った。
「あれが、例のか。」
「そうや。」
別の人物が言った。
全部で三人。
二人は主筋、あと一人はお付きの者である。
「よく見よ。」
最初の人物がお付きの者に言って、場所を代わってやった。
「あーっ!」
怒りで声が裏返った。
「あ、あいつだっ!」
「使い物になりそうかな。」
最初の人物が言った。
「いえっ、なりませんっ!」
お付きの者が断言した。
「それにしても、聞きしに勝る美しさやな。まだ子供でああや、大人になれば大変なことになりそうや。」
二番目の人物が言った。
「麿が下ったときも、あれほどの上玉には会わへんかった。」
「ふっふ、何しに行っていたのやら。あの堅物が怒るのも無理はない。」
最初の人物が笑った。
「ああもう、その話はせえへんといて。」
二番目の人物が、心底参ったように言った。
「小侍従に付けることにしよう。」
最初の人物が言った。
「それは又、気の毒。」
二番目の人物が言った。
「俺も面倒を見てやるとしよう。」
と、最初の人物。
「それは益々、気の毒。」
「ふん。」
鼻で笑った。
「何とでも言え。今夜は出かけるぞ。」
お付きの者に言った。
「皆に言っとけ。」
お付きの者はすぐ、主の伝言を『小侍従』に伝えた。
彼女は、
「わかったって言っといて。」
お付きの者を追っ払うと、自分の侍女に言った。
「又、美人だからって、目が眩んでいるのよ。」
「でも子供でございましょう?」
「どうかしら。女ってすぐ大人になるから。二、三年もしたら側室に上げるつもりよ、きっと。」
言いながらも、目の前に山と積まれた書付けを片付ける手は休めない。
「いくら山内{上杉謙信}殿からの預かり物って言ったって、使い物になんなくちゃ仕様が無いわ。とりあえず笹舟、あなたが監督して。」
「かしこまりました。」
「毎日やらせることは、その日その日に私が指示する。」
小侍従は言った。
「それで様子を見ましょ。」