第156話 兄上
景勝は、春日山城の庭石に腰を掛けて、ぼんやり池を眺めている。
出るのは、ため息ばかりだ。
紅とはあれから、手を握るどころか、話す機会さえ無い。
越後に彼女を連れ帰ったことで却って、二人が結ばれることは金輪際無いことが、はっきりしてしまった。
紅は、お屋形さまに受け入れられたが、彼の麾下の上田衆には、あの女を決して近づけないよう、念を押されてしまった。幼い頃から彼を守って戦ってきてくれた家臣たち、父であり兄でもある彼らの意見を無視することは出来なかった。
彼が、彼女を遠巻きにして悶々としているのに、紅のほうはけろりとして、祖父と親交のあった老将たちと嬉々として歓談し、最近は道満丸にくっついて、何処ぞに出かけてばかりいる。
認めたくはないが。
子供相手に、真剣に嫉妬している。
(なんて情けない)
助宗で一刀両断、というわけにいかないところが実に悩ましい。
彼だって、『経験』が無いわけではない。
大名の仕事のうち、重要な位置を占めるのは、先祖の祀りを絶やさぬことだから、元服するとき、年上の渋皮剥けた女官など、係の者が付いて、閨のことを教わる。
その後一度、小姓とそういう関係になったこともあったが、これはこの時代、誰にでもあることで、格別珍しいことではない。実際、著名な武将で、男色関係が確実に無かったのは豊臣秀吉ただ一人のみと言われているほどである。
いずれも過去の話で、とっくに関係は切れている。今では相手の者たちも結婚して、子供までいる。彼にとっても好奇心を満たす以外の何物でもない付き合いで、さばさばしたものである。
だが、紅だけは。
(違う)
失くしていた大切なものが、ようやく戻ってきた。
彼女には、
(俺の正式な妻として)
きちんとした地位を与えたい。
なのに、指を銜えて見ているしかない。
(大砲を教え終わったら)
遅くとも春には、きっと。
(彼女は、堺の亭主のもとに帰ってしまう)
一体どうしたらいいんだ。
「納屋の女将のことでしょう。」
背後から声がした。
振り返ると三郎だった。
ため息が聞こえたらしい。
景勝は赤面した。
「私は、ここに来る前、結婚していたんです。」
三郎は、のんびりと話し始めた。
彼は、氏康の六男{七男とも}として生まれた。母は側室だったし、当時のこととて、寺に入れられ、僧として一生終える筈であったが、大叔父で一族の長老の宗哲{幻庵}の家に養子に入った。その際、宗哲の娘と結婚した。しかしこの結婚は三ヶ月しかもたなかった。三郎は質として越後に赴くことになり、新妻と離縁させられた。
勿論、再婚した妻に不満があるわけではない、と三郎は言った。
道満丸を始めとする、可愛い子供たちにも恵まれた。
でも時々、
「山の向こうを眺めて、思うんです。別れた妻や子はどうしているかなって。たったの三ヶ月しか生活は共にしなかったけど、彼女は幼馴染で、子供の頃からよく知っていたから。私と別れた後、女の子を産んだそうです。その後、再婚した、と聞きました。例え行く道が分かれても、遠くに居ても、幸せに過ごしていてくれるといいのですが……。」
寄り添って共に、池を眺めた。
慰めようとしてくれているのだ、と感じた。
素直に嬉しかった。
上田衆は、越山のときには必ず先陣を切る。山内・上杉家の被官だったからだ。
北条は父祖代々の敵だが、このひとだけは不思議と憎めなかった。
初めて会ったときも、向こうから屈託なく話しかけてきた。
代々、将軍家の執事を務めてきた家柄の血がなせる業なのかもしれない。
洗練されて都会的な雰囲気を持っている、それでいて、嫌味が無い。
北条と手切れになって、いくら謙信が身の安全を保障してくれたとしても、独り、敵中に残されて、さぞ心細いだろうに、いつも変わらず妻を愛し、子供を可愛がって、心穏やかに過ごしている。
優しい人柄を慕う者も多い。
その姿が、今は亡き兄を思い起こさせるのである。
(兄上も、いつも死の影を感じながらも、心静かに穏やかに、他人への思いやりを忘れずに過ごしていらした)
結局あの後、そう長い命ではなかったが。
次男のせいか、どうも我ながら『兄上』に弱いのだ。三郎に対して好意を持たずにはいられない。
(俺は刀を振るって、先頭に立つ宿命だが)
義兄上がその人柄で、皆を纏めて後方を固めてくださったら。
今後も上杉は安泰であろう。
景勝の表情が和らいだのを見て、三郎も微笑んだ。




