第155話 美しい男
気の毒なのは三郎であった。
同盟締結の際、交渉に当たった伯父の遠山康光共々、何の罪も無いのに敵中に取り残されることになってしまった。普通だったら殺されても仕方無いところだったが、謙信は、一端、引き取った者を酷く扱うような人ではなかった。三郎は上杉の者、北条とは何の関係も無い、とした。彼は正室として景勝の姉を迎えていたが、これまでどおり、城下に住まいした。遠山康光は、娘を三郎の側室に差し出して、共に命永らえた。
とは言うものの、それからも毎年のように越山する上杉家中において、三郎の立場は微妙であった。謙信もさすがに、三郎に兄を攻撃させることは遠慮したので、彼は手勢も持たず、居候というか、その存在は棚上げ状態であった。
しかし子供は道満丸を筆頭に三人居て、更にもう一人、生まれる予定であった。景勝の姉とも仲睦まじいという話は、紅も聞いていた。
立場上は影が薄かったが、その存在は人目を引いた。
三郎は美しかった。
代々将軍家の執事を務めた家の出らしく、細面で、貴族的な上品な顔をしていて、城下を歩くと、娘たちが目引き袖引きし、家々の窓や戸口は、彼を一目見ようとする女たちで溢れかえるということであった。
紅と初めて会ったときも、何の屈託もなく話しかけてきた。
(女に慣れてる)
しかし話の内容は、紅にとって少々、意外なものだった。
「呂宋屋では、ご商売が、なかなか繁盛しているとのお話を伺いましたが」
彼は美しい顔に笑みを浮かべて言った。
「お金を預けると、増やして戻していただけるようなことはございませんか?」
ああ、と納得した。
江戸時代になってから、札差と呼ばれるようになる金融業の走りを、堺の豪商たちは既に始めている。でもそれは、呂宋屋よりずっと大きい店が行っている商売だ。
「私どもはまだ、そこまではいっておりません。将来的には、そういう商売もするかもしれませんが。」
「そうですか。それは残念です。」
如何にも残念そうに言う表情が、道満丸に似ている。
「上方は商売が盛んで、随分な儲け話がある、とか聞きましたもので。」
誰から聞いたかは言わなかったが、見当は付いた。
(上杉の京都雑掌{奉行})
神余親綱。
彼が三郎に話したのだろう。
武衛陣が滅んだとき、当てにしていいか悩んだうちの一人だったが。
(身を寄せなくて良かった)
越後に帰って、実際彼に会ってみて、つくづく思った。
元々は安房の国の住人だったと聞くが、祖父の代から、何かの縁で越後・上杉家に仕え、後、謙信の下で、都との政治的経済的交渉役として辣腕を振るった。越後から運ばれた青苧を都で売る取引の中に立ち、上杉家の財政に多大な寄与をし、自分も又、巨万の富を築いたと聞いている。織田が都を完全に支配し、上杉との関係が悪化したので、京を引き払って、何十年ぶりかで越後に戻ってきた。
都で海千山千の権力者たち、武家、公家、僧侶と渡り合ってきただけあって、如才なく、如何にも機を見るに敏、といった風情の男で、それだけに、
(尾羽打ち枯らした状態で会ったって)
何にもならなかったであろうことは、容易に想像出来た。
三郎と話しているうちに、彼が神余とかなり深い仲になっていることがわかってきた。
財産の運用も、神余に任せているという。
「それはなかなか……。」
確かに、信長が都を掌中にしてからというもの、経済が活発になり、儲ける機会も増えたようだが、そこまで神余にどっぷりはまっていいものだろうか。
紅が言外に含めた意を感じ取った三郎は、
「なあに、光徹さまも御一緒ですから。」
と何気なく言った。
(うわあ、何、それ)
前・関東管領・上杉憲政は、隠居してからというもの、光徹と名乗っている。
(北条は不倶戴天の敵、と叫んでいたのは、何処のどなたでしたっけ)
いつの間に、その息子と、そこまで仲良しに?
いずれも、今、上杉で、閑職に追いやられているというか、立場上、宙ぶらりんな人々ばかり集まって、
(仲良しに)
確かに、よく一緒に居る。
道満丸と会っている時、三郎が神余らと笑いながら話しているのを見かけた。
「必ず宴会になるのだ。」
道満丸も目に留めて言った。
「俺はな」
眉を顰めた。
「あの連中が嫌いなのだ。いつも父上を取り巻いて、一緒に酒を飲んでいる。」
「お話が合うのでございましょう。」
「酒を飲んで気勢を上げることと、話が合うというのは違うと思う。」
道満丸は大人びたことを言う。
「父上は酒が入ると気が大きくなって、何ていうか、その」
「乗せられてしまう?」
「そうだ、それだ。いや、父上はいい人だぞ。」
「存じております。」
ただ、と紅は密かに思った。
三郎は、酒が過ぎる。
確か父の北条氏康からも、酒は三杯までにして、朝はちゃんと起きよ、勝手に城を抜け出して夜遊びするな、家臣の家や在番衆の陣所に勝手に出向いて、大酒を飲んだり喧嘩をするな、言う事を聞かなければ縁を切る、とまでいって、きつく叱られたこともあったと聞くが。
(小うるさい父親の目がなくなったので、あいも変わらず羽を伸ばしているらしい)
紅の考えに気づかない道満丸は、ほっとして、良かった、と言った。
「わかってくれて。」
「上杉と北条が仲良くなれば宜しゅうございますのにね。」
「うむ。そちと俺は仲良くしよう。まず、そこから始めるのだ。」
「はい。」
「お城下にな、魚の一杯居る池があるのだ。」
子供の顔に戻って言った。
「これは秘密だが、そちには特別に教えてやる。今度、一緒に釣りに行こう。」
「はい。」




