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火の如く 風の如く   火の章  作者: 羽曳野 水響
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第154話 関東風雲録

 三郎さぶろう出自しゅつじたる北条ほうじょう家との確執かくしゅうは、謙信が関東管領(かんれい)・上杉憲政(のりまさ)を引き取った永禄えいろく三年{一五六十年}から始まる。

 南北に長い日本を一つの政府で統治するのは困難、半分に分けて東と西、別々の政府で統治しよう、という当時の考え方から、足利幕府創建時(そうけんじ)、西は公方くぼう、東は公方が任命した鎌倉公方が統治していた。

 ところが、公方と鎌倉公方の間に確執がしょうじ、鎌倉公方の力ががれることとなった。その影響もあって執事しつじである関東管領のほうが、鎌倉公方よりも力を持つようになった。管領職は、上杉一族のうち、山内・上杉家が独占することとなった。

 山内・上杉家を継いだ謙信が『山内殿』と呼ばれているのは、この為である。

 越後・上杉家は山内・上杉家の実家じっかすじで、養子を出したりして、その支流である上条じょうじょう・上杉家と共に、山内・上杉家を支えていた。謙信の実家である長尾家は、この越後・上杉家の執事たる守護代しゅごだいであった。ところが下克上げこくじょうの世のならいで、父・為景の勢力は、あるじたる越後・上杉家、及び上条・上杉家の力を上回うわまわることとなる。結果、為景は関東管領、越後・上杉家のあるじ、更に上条・上杉家の当主とうしゅと対立し、そろって討ち果たしてしまったのは、前述ぜんじゅつのとおりである。

 その後、越後・上杉家は跡目あとめを決めぬまま、当主が亡くなってしまい、長尾家は守護の居ない守護代となった。

 いくら戦国の世の中のこととはいえ、しゅうごろしは世間の風当たりが強い。まして謙信は、信長とそう年は違わないが、守旧しゅきゅう派である。対策に苦慮くりょした。公方や朝廷に近づいたのも、父のやったことの事後処理の為でもあった。

 そんなおり、北条氏の勢力に押されて、関東管領・上杉憲政が助けを求めてきた。謙信を養子として、関東管領(しょく)ゆずるという。幕府の制度上、宙ぶらりんの立場だった長尾にとって、願っても無い話であった。

 ただし、条件があった。

 管領家の領土を侵食しんしょくする、新興しんこう勢力の北条家を追って、関東管領の復権ふっけんを果たす。

 ここから謙信の関東進出、いわゆる越山えつざんが始まるのである。



   挿絵(By みてみん)



 対する北条氏。

 かつてはその祖、伊勢いせ新九郎しんくろう素浪人すろうにんの身と言われていたが、近年の研究の結果、幕府の政所まんどころ執事を務めた備中びっちゅう・伊勢氏の出であるという考え方が主流となっている。

 その姉{妹とも}は駿河するがの今川氏に嫁いだが、当主が若死にしたため、家督かとく争いがしょうじた。姉を助けるため、新九郎は駿河に下向げこうし、その子を当主とした。その後も駿河に留まり、甥を補佐して、その治世を助けた。

 ここで、堀越ほりこし公方という家が登場する。

 先に出て来た公方と鎌倉公方の対立において、公方に敵対した鎌倉公方家は、古河こがに逃れて古河公方と呼ばれるようになる。八代将軍・足利義政は、京都に忠実な公方を立てようとして、異母兄の政知を下向げこうさせるが、古河公方の勢力が強く、鎌倉に入ることが出来ず、伊豆に留まり、堀越公方と呼ばれる。結局、政知は生涯、鎌倉に入ることは出来なかった。

 この政知の死後、内紛ないふんが起き、側室が生んだ茶々丸が、正室とその子を殺すという事件が起きる。近年の研究で、新九郎は、この正室が生んだもう一人の子を将軍候補者にたてる計画に関わっていたらしいことがわかってきた。出家して京都にいた為、からくも暗殺計画からのがれたその子は、還俗げんぞくして清晃と名乗り、室町殿むろまちどの{事実上の将軍}となった。清晃は、新九郎改め早雲(そううん)仇討あだうちを命ずる。早雲は今川氏と協力して茶々丸を追い出し、伊豆を手にすることに成功する。この後、相模さがみ、更に武蔵むさしの国と関東に勢力を広げていく。その過程かていで、上杉の勢力と衝突しょうとつすることになるのである。

 伊勢氏はもともと備中の出で、関東とは何の関係も無い。最初は公方の命令という大義たいぎ名分めいぶんがあったものの、将軍家の権威の失墜しっついに伴い、中央との関係を絶って、独立して動くようになった。

 前述のように、『裏切りには寛容かんようだが、盗みには厳しい』お国柄くにがらである。まして『国盗人くにぬすびと』など、人非人にんぴにんというほか、無い、というのが世間の常識である。

 そこで、次代から伊勢という姓を捨て、関東に馴染なじみ深いということで、遠い親戚しんせきの姓である、鎌倉幕府の執事だった北条の姓を名乗るようになる。更に後年、古河公方と姻戚いんせき関係を結び、関東管領の立場を実質、有するようになるのである。更に、領民には税を軽くし、法や制度を整えて、良い治世を行うよう努力した。

 そうして懸命けんめいに気を配ったにも関わらず、伊勢氏改め北条氏の身上には、疑問が付きまとった。家祖かそは将軍家の執事の一族というきちんとした身分だったのにも関わらず、そのことがすっかり忘れ去られ、素性すじょうの知れぬ素浪人から成り上がったという話が、現在までずっと信じられてきたこと一つとっても、当時の人々が、如何いかに北条氏のことを怪しく思っていたかがうかがえる。

 当主はいずれも常識人で、巧みな統治で反乱を押さえ込み、この時代ありがちな内紛ないふんも無かったが、その分、指導者のカリスマ性や華やかさに欠けるところがあったからかもしれない。

 いずれにせよ、北条氏の伸張しんちょうに伴い圧迫されるようになった関東管領・上杉家にとって、北条氏は、不倶ふぐ戴天たいてんの敵となった。

 関東管領職をたくされた謙信は、以降、毎年のように越山したが、一向いっこう決着のつかない戦いに疲れてしまった。もっともそれは、攻め込まれる北条側にとっても同じことであった。

 そこで北条氏康(うじやす)との間に和平わへいが結ばれることになった。しかし、その和平は当主二人だけが合意したものだった。謙信は同盟相手の関東の諸候しょこうや、自分の麾下きかの諸将の合意を得ていなかったし、氏康も肝心かんじん跡継あとつぎである氏政うじまさが大反対していた。

 それでも北条には、どうしても上杉と結ばなければならない事情があった。

 長年ながねん、同盟を結んでいた武田が、今川の滅亡にじょうじて突如とつじょ、攻撃を仕掛しかけてきたからである。を見るにびんな信玄には、長年の三国間の親交も()()()()()も無かった。

 山側からは信玄、海側からは房総ぼうそう里見さとみ氏の攻撃を受けて、謙信よりもきゅうしていたのは、北条の方であった。

 だから百歩ひゃっぽゆずって、謙信が関東管領であることを認め、そればかりか人質ひとじちとして、氏政の子も差し出すことにした。しかしこれには、氏政が頑強がんきょうに抵抗した。()()()()()()親父殿おやじどのなんだから、尻拭しりぬぐいも親父殿がせよ、というわけで、氏康の子、三郎に白羽しらはが立てられた。

 時の文書には、三郎も随分ずいぶんしぶった、とある。交渉の経緯けいいを知っているので、行ったが最後、帰路きろたれるのではないかと危惧きぐしたのであろう。この予想は不幸にして的中てきちゅうした。

 北条はわりに、謙信に信玄と戦うことを望んだが、信玄を頼りとする足利義昭は、謙信に、信玄の足を引っ張ることを許さなかった。そのうち氏康が病を得て亡くなり、気が変わった信玄が、北条と再度、和議わぎを結ぶと、氏政は、さっさと越相同盟を反故ほごにした。

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