第13話 上洛
紅が上洛したのは永禄七年旧暦八月の初め、越後では高い山から紅葉の便りも聞かれるというのに、畿内ではまだ、夏の名残の蝉の声が姦しかった。
都についたら夜になってしまった。
『花の都』というくらいなのだから、どんなに華やかで素晴らしい町かと思って期待していたのに、そこは、
(畑……)
のド真ん中だった。
満天の星空の下、青々とした野菜畑や麦畑が広がっている。
薄っすらと灯りが灯る二つの小さな町が、一本の道{後ほど、これが室町通という都の中心の通りだとわかったが}で結ばれていた。
越後は貫高制といって、年貢も米でなく銭で納めていたくらい商業が盛んな土地である。
紅は、越後有数の港である柏崎を有する由緒正しい家の出で、地元でも裕福なほうだったから
(ひょっとして越後より寂れている?)
都の有様に愕然とした。
何で御先祖さまが、わざわざ遠い地方にお下りになったか、わかったような気がした。
街中に入って又、驚いた。
ちょっと大きな屋敷は、屋敷というより城郭のようで、深い大きな堀や構に物々しく守られている。
ちなみに構というのは自衛のために構築された要害のことで、土塀{『壁』と称されている}や土居・堀などに囲まれ、出入り口には櫓が築かれていた。夜になると構の入り口にある釘貫{木戸門}には見張りが立てられた。
鴨川に通ずる小さな川がたくさん流れており、それを利用して館の守りがなされていた。これも後々聞いた話だが、其々の堀は幅二丈{約六メートル}、深さも一丈{約三メートル}にも及ぶとのことだった。洛中三分の二あまりに、そうした堀が廻らされている。
かと思うと、焼け爛れ、毀れた築地も直していない、廃墟のような建物の中に、あれはひょっとして狐火か妖魔の類か、青白い小さな明かりがぼうっと灯っているといった、ぞっとするような光景に突然出くわしたりする。
後に、その建物が帝の住まいする内裏だと知って、益々驚いた。築地の中まで、ぼろぼろの貧しい家が建っていたからだ。皆、空いている場所に勝手に家を建てて住んでいるのだが、それがたまたま内裏だったというわけである。
築地が破れているので、内侍所の灯は夜になると、遠く三条大橋からでも眺められるとのことだった。
紫宸殿の前にある右近の橘の木の下には茶店が出ており、子供たちが縁側に上って遊んでいるといった具合であった。
何せ先の帝{後奈良天皇}は暮らしに困って、宸筆を売って鳥目を得て、やっと生活しておられたという。
訪ねて行くように言われた屋敷を探したが、暗さも暗し、道も不慣れで、一体、何処をどう行ったらいいのかさえわからない。大きな道を進んだが、治安が悪いせいか、道を尋ねようにも、まだそんな遅い時間でもないのに、人っ子一人歩いていない。
途方にくれながら供を連れて歩いていると、ぎしり、ぎしり、という重い地響きがしてきた。
最初はゆっくりだったが、段々早くなっていく。そればかりか音がどんどん、こっちへやってくる。
音はもう走っている。
何だろう?
暗い道に目を凝らした。
現れた、それ、に目を疑った。
牛車だった。
たくましい黒牛が、華やかな長柄の車を軽々と引いている。
(話には聞いたこと、あるけど)
あれはもっと昔。
御先祖さまがまだ伊豆にいた頃、使われていたって聞いたけど。
都では今でも使われているの?
牛は走っている、こっちめがけて。
感心している暇はない。
牛の周りを、黒い覆面をした十数人の騎馬武者たちが取り囲もうとしている。
馬を煽って、牛をけしかけているように見えた。
牛は涎を垂らして目を血走らせている。
か細い悲鳴が聞こえた。
誰か乗っている、牛車に。
とっさに決心した。
「避けてて!」
供の者に言うと、道に落ちている手ごろな石をいくつか拾った。傍らの木に素早くよじ登った。
何も知らず木に近づいてきた騎馬武者らの、先頭を走る者めがけて投げた。
狙いたがわず、眉間に当たった。
もんどりうって馬から落ちる。
木から飛び降りて、空になった馬の背に着地した。着ていた上衣を脱ぐと、手綱を取って馬を、暴走する牛に寄せる。衣を牛の顔に被せようとした。
他の騎馬武者たちが馬を寄せて、紅を取り囲もうとする。
と、何処からか飛礫が幾つも飛んできて、武者たちに当たった。
ひるむ隙に、紅は、上衣を牛の頭にふわっと被せ、頭絡を掴んだ。
牛は途端に大人しくなった。
騎馬武者の一人が高らかに笑った。
彼が合図すると、他の武者たちはさっと囲みを解いて、落ちた武者を拾って、元来たほうへ去っていった。
(何なの、一体)
武者たちのことも、何者だかわからなかったが。
(あの飛礫は?)
誰が投げたんだろう。
牛はがっくり膝を折って座り込んでいる。
牛車に近づいて覗き込んだ。
中で誰か気を失って倒れている。
揺り起こした。
「申し。申し。」
悲鳴を上げて飛び起きた。
紅とあまり年の変わらない少女だった。焦点の定まらない目をしている。
「曲者は追い払いました。お気を確かに。お屋敷にお送りしましょう。」
「わ、私は松永霜台{弾正久秀}の娘です。」
娘は言った。