第145話 翡翠
彼、上杉喜平二景勝もそう思ったらしい。
「歩きながら話そう。」
先に立って歩み始めた。
紅は今まであったことを話した。
公家の養女となり、武衛陣に上がったこと。
堺に逃れて、店の女将となるまで。
景勝は、所々質問を挟みながら、熱心に聞いていた。
でも信長の話は、贈り物を選んだことに止め、助左のことは、店の主としての彼についてしか、話さなかった。
自分でも肝心なところを抜かしている、とは思った。
(でも、話しづらい)
勿論、信長のことは最初から知らないだろうが、助左については、景勝も、核心を欠いていると思ったのだろう。
「結婚したんだな。」
「ご、ごめんなさい。」
立ち止まって俯いた。
(その話はしたくない)
景勝は約束を守ったのに。
(あたしは彼を裏切った)
面目が無い。
でも、助左は紅に、景勝の前で堂々と、結婚していると宣言して欲しかっただろう。
(あたしは、喜平二さまも坊ちゃまも、お二人とも傷つけている)
あたしは卑怯だ。
自分が情けなかった。
喉の奥に塊が出来て、せり上がって来た。
景勝は、
「何を謝る。」
とは言ったが、意味するところはわかっているようだった。
「御亭主は?どうなされた?与六がお会いしたと申しておったが、今日はおいででないのか?」
「亭主は……呂宋に参りました。あ、あたしは……置いて……」
ここで泣いてはいけない、と思ったときにはもう、堪えられなかった。
涙が溢れた。
笑って、済まそうとしたのに。
その場にくずおれた。
景勝は、女の肩を支えた。
「置き去りにされたのか。」
彼の声には怒りがある。
「い、いいえ、あたしが悪いのです。皆、あたしが……。」
ひどい亭主を庇っている。
兼続が言っていた。
「あの亭主は情婦がいて、あろうことか、その女に、堺で一番の湯屋を経営させているそうです。」
姫君ほどの方がおいでなのに、ないがしろにして、と、兼続はトサカに来ていた。
「姫君と結婚したのも、つい二、三日前だそうです。」
海千山千の湯女に食傷して、深窓の姫君に食指が動いたものの、二晩で飽きて放り出してしまったのでありましょう、という意味のことを遠まわしに言っていた。
「船乗りというのは、港々に女がいるそうですから。」
堺を牛耳る納屋の一族に生まれながら、生家を飛び出して放浪し、
「戻ってきたときには、如何にも怪しげな仲間を引き連れていたそうです。」
堺で唯一の洋船を所有しているが、
「先だって渡航したときに乗っていった船と、違う物に乗って帰ってきたので、どうやって手に入れたかと」
街中の噂になっているという。
外洋には、海賊、もしくは商売が上手くいかなければ海賊に早代わりする商人が大勢いる、とか。
「姫君は、殿が翡翠の珠をお持ちだと聞いて、大層喜んでおられました。」
意味深に言った。
(可愛そうに)
彼女が結婚していたことは衝撃的だった。
でも、当然だ仕方無い、と思った。
彼女は、自分より二つばかり下なだけである。当時としては随分、嫁き遅れている。男の自分だってそうなのに、女なら尚更である。
この美貌で、つい先日、結婚したという方が奇跡といっていい。
(むしろ、俺との約束を守ったばかりに、そんな男としか、結婚出来なかったのではないか)
哀れにこそ思え、怒ってはいなかった。
亭主のことを彼女に詳しく問いただすことは、さすがに遠慮した。
(彼女は不幸なのだ、ひどい男を夫に持って)
涙を見れば十分だった。
女が涙を拭こうとした。
懐紙を取り出そうとして懐に手をやったはずみに、鈴が落ちて地面に転がった。
懐かしい音が鳴った。
景勝は鈴を拾った。
緑の石が揺れている。
自分の刀を示した。
その片割れが、細い鎖で繋がれている。
顔を見合わせて微笑みあった。
「もう少しで無くすところだったのだ。」
以前は組紐で繋いでいたのだが、
「あるとき、戦に出たら、敵の刃が当たって紐が切れ、地面に転がり落ちて何処かに行ってしまった。あのときは肝を冷やした。」
その日の戦が終わった後、
「与六と二人でこっそり探しに行って、真っ暗な中、敵に見つからないか、どきどきしながら、地面に這い蹲って探した。ようやく見つけたときの嬉しさといったら、なかった。それ以来、紐でなく鎖で繋ぐようにしたのだ。」
笑った。
だが、紅は又、目頭を押さえている。
「あたしが差し上げた物などのために、そのような危険を冒されて。」
この方にとって、戦場で敵の刃が身に届いたことなど、どうということもないのだ。
一方、景勝も思った。
やっぱり、この女しかいない。
俺の身を案じて泣いてくれるのは。
「越後に帰ろう。」
言っていた。
「そなたが罪に問われたわけではないのだ。戻っても何の支障も無い。共に帰ろう。俺が、そなたの身の立つようにする。」
人妻を盗む、とは考えなかった。
ひどい亭主から、彼女を救い出す。
これは正義だ、何の悪いことがあるだろう。
「行けません、あたしは……。」
ためらう女を、熱心に説得した。
「そなたも商人であろう。上杉はこの夏、織田と対戦した。何か、戦に役立つ物は無いか。商売と思えば、遠くても行く理由が成り立つだろう。」
ダメ押しした。
「これで別れたら、俺たちはもう二度と、会えないかもしれない。そなたはそれで、いいのか?」
彼女が動揺しているのを見て、二人の心は同じだ、と思った。
この女を手放すことは出来ない。
「商売ならば……参ります。」
紅は言った。
口にした途端、自分でも、商売なんて嘘だ、と思った。
喜平二さまが好きだから、行くのだ。
坊ちゃまもわかっていらしたのだ、あたしがこうなることが。
あたしは、悪い女だ。




