第143話 鴎が飛んだ日
翌朝、目を覚ましたとき、傍らに助左の姿は無かった。
寝過ごしてしまった。
又、頬に涙の筋があった。
彼に抱かれながら、泣いていたんだろうか。
自分でもよく覚えていなかった。
彼は、どう思っただろう。
気になった。
台所に居た小女に、旦那さまは、と聞いた。
「朝早くお出かけです。」
小女は答えた。
「起こすな、と言われました。」
「そう……。」
港だろう。
後で行ってみることにした。
一人で朝食を採った。
ぼそぼそとして、喉を通らなかった。
侘介は通いだし、小太郎と鞠は、近所に所帯を持っている。
朝の店には使用人たちばかりだ。
年を取り、店が大きくなるにつれ、段々、独りぼっちになっていくような気がする。
前から思っていたことではあるけれど。
でも、こんなに孤独を感じたのは初めてだった。
際限なく気がめいった。
喜平二さまがすぐ近くまでいらしているというのに。
鳥が飛び立つように、空を飛んで、お側に行きたいのに。
(駄目だ)
行けない。
会えない。
(今、行かなければ、二度と一生、お会い出来ないかもしれない)
心は千々に乱れた。
港に行く前に、片付けなければならない仕事が山積みになっていた。昨日、一日中眠っていて、仕事にならなかったからだ。頭を空っぽにして、目の前の仕事に集中した。
その為、港に行けたのは、もういい加減、日も傾きかけた頃だった。
もう暫く待てば助左も帰ってくるだろう、とは思ったが、今朝のことが気になった。
彼の顔を見たかった。
波止場に着いて、はっとした。
ラ・ロンディネ号の姿が無い。
(沖に持っていったのだろうか)
目を凝らしたが、それらしい姿も見えない。
胸騒ぎがした。
艀で働いている男たちに尋ねる頃には、不安は最早、確信に変わっていた。
「ラ・ロンディネ号?朝早く出てったよ。今頃はもう、紀州{今の和歌山県}の沖も過ぎてるんじゃないか。」
置いてけぼりにされた。
あたしが、フラフラしているから。
とうとう彼に、愛想尽かされた。
一人で港を彷徨った。
頭の上を鴎が飛び交っている。真っ赤な夕日の中、ねぐらに帰ろうと群れを作っている。
互いに鳴き交わす声を聞きながら、知らず知らず、涙を流していた。
あたしは一体、どうしたらいいんだろう。
行け、と、助左に背中を押された気がした。
(やっぱり行って、会ってくるしかない)
例え、どんな結果が待っているにしても。
「頭が乗るんじゃなかったのか?」
「いや。」
助左は、肩を落として、手摺りにもたれかかった。
「あいつは、喜平二に会いに行かせる。」
「やけに出港を急がせると思ったら……置いてけぼり、食わせたのか。」
レヴロンは首を振った。
「俺は、あいつに決めさせてえんだ!」
「若のそういうところは潔いと思うけど。最後に戻ってくるのは自分の元だっていう自負もあるんだろう。だから頭も、若のことが好きなんだろうよ。でも、こういうことは、縁、というものだ。若は、掴んだ縁を、自分から手離してしまった。それが後々、響かなきゃいいけどな。」
助左は、波間に浮かぶ海鳥を眺めている。
「あいつは鳥だ。俺が縛り付けておこうったって、出来やしねえよ。」




