第138話 本当の名前
星海屋から戻っても、助左は、なかなか本調子にはならず、床は敷いたままで、寝たり起きたりしていた。
紅は、彼につききりで世話した。
外出できるようになっても、杖代わりに、いつも側についていた。
いつしか、彼の側に彼女がいるのが、当たり前の風景となっていった。
だから彼が回復し、月日が巡って再び渡航の季節となり、呂宋に向かって船がそろそろ出港するというある晩、彼に、
「今夜は一緒にやすみてえ。」
と言われたときも、来るべきものが来た、と思った。
据風呂をたてて、入浴した。
菜屋は大きな店なので、使用人たちは皆、外の風呂屋に行くが、家族用には小さいながら、湯殿がある。髪から身体の隅々まで、時間をかけて、丁寧に洗った。風呂桶に張った温かい湯に半身を沈めると、何故かしら、涙が溢れて止まらなかった。
彼の部屋に行った。
随分待たせてしまった。
湯で洗われて、すべすべと滑らかで柔らかな肌が、ほんのり桜色に上気している女に、暫く見とれていた彼は、ようやく言葉を見つけたように
「気は済んだか。」
聞いた。
彼女が庭の片隅で、翡翠を握って、ずっと謝っていたのを、何処かから見て知っていたような気がした。
「あ、あの、まだ、髪がよく乾いていなくて……。」
もう少し、外で乾かしてくる、と、出て行こうとする女の身体を、後ろから抱きしめた。
「紅。」
耳元で囁いた。
「俺、ずっと待ってた。もう待てねえ、待てねえよ。」
目が覚めると、彼の手が肩に掛かっていた。
昨日の夜は、何がなんだかわからないまま、過ぎていった。
彼は、緊張してガチガチになっている彼女の体を優しく扱ってくれたが、痛い思いをした挙句、怪我してしまった。
彼にそう言うと、
「何だ、そうか。そうだったのか。」
と何故だか、嬉しそうに笑うので、
「ひどい、坊ちゃま。」
と言うと、もっと笑って、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「坊ちゃまじゃねえ。俺はもう、お前のオトコだ。」
そう言って、体中に口づけした。
「それから、俺のほんとの名はFedericoてんだ。」
「ほんとの名?」
「親に付けられた名だ。皆、フェディって呼んでたが、母さまはリコって呼んでた。」
だからお前も、と、はにかんで言った。
リコって呼んでくれ。
彼が彼女を抱いて、歓んでいるのがわかったので、決して快い状態とはいえなかったけれど、懸命に応えようとした。
そんな彼女を、彼が益々、愛しく思っているのもわかった。
今は、彼女の傍らで、疲れ果てて眠っている。
腕をそっと外して、起き上がろうとした。
だが、しっかり抱きしめられていて、外せない。
尚も外そうとすると、目を開けた。
「もう起きなきゃ。」
囁いた。
「まだいい。」
更に強く抱きしめて、眠そうに目を閉じた。
暫くして彼女が身じろぎすると、彼も目を覚ました。
そのまま又、愛を交わした。
果ててもまだ、目を瞑ったまま、足を絡めている。
「ほんとに起きなきゃ。あなたも、よ。」
彼女が起き上がると、目を開いて、腕を掴んだ。
「今日は早めに上がれ。夕食は二人で採ろう。俺が舟を出すから、運河で月を見よう。それから……それから……。」
紅が、人差し指を、彼の唇に当てた。
「俺、変だろう。」
照れて言った。
「ううん。」
笑った。
「変じゃない。」
顔を近づけて、唇を重ねた。
「一緒に呂宋へ行かねえか?」
突然、言った。
「又、あの洞窟へ行こう。海賊もSpagnaの軍もいねえんだ。二人でのんびり、過ごそう。」
魅力的な提案だった。
彼と又、あの海に潜る。
海と魚と彼と彼女と、全てが溶け合うようなあの体験。
胸が躍った。
「でも、お店が……。」
「店なんか、小太郎と鞠に任しときゃいい。」
熱心に言った。
「……考えてみる。」
「きっとだぜ。」




