第12話 追放
まだ明けきらぬ府中の港には、この時期には珍しく朝靄が出ている。
人目を忍ぶ旅立ちにはふさわしかった。
旅人は小女と下人を一人ずつ連れただけ、見送るほうも供を一人連れた少年が一人きりだ。
紅は笠を目深に被り、手甲脚絆をしっかり結んでいる。まだ癒えていない赤や紫の痣を隠しきれないのが痛々しかった。
これから舟を乗り継いで都に上るという。
誰を頼って行くのか聞いても、本人もはっきりとは知らず、ただ獄から解放される時、行けと言われたところに行くのだということだった。
もう、国に居られないから。
吹く風に飛ばされるたんぽぽの綿毛のように見知らぬ土地へ、風に任せて飛ばされて行くしかない。
そして喜平二も、そんな彼女をどうしてやることも出来ないのだった。
彼自身が囚われの身同然だったから。
喜平二が輝虎{謙信}の養子になるという話を聞いて人々がまず思ったのは、
(これは罰だ)
あれから嫡男は昏睡状態で、誰が見ても跡取りの喜平二が養子に取られるということは即ち、将来的に上田長尾家の廃絶を意味する。
更に、戦のときいつも先頭切って斬り込んで行く輝虎の後塵を拝するわけにはいかないので、養子たる喜平二の危険は増すばかりだし、喜平二を守る麾下の上田衆の犠牲は益々増えるだろう。
態のいい吸収合併のようなものである。
喜平二を形に取られて、上田長尾家は身動きが取れなくなった。
(若君がお屋形さまの前で剣を抜かなければ)
(全てあの女のせい)
恨みは宇佐美の孫娘に集中した。
紅もよくわかっている。
今朝、喜平二が見送りに来るというのも必死で辞退した。
でも押し切って、彼はここに居る。
紅は泣きながら、
「あたしのせいで、喜平二さまは御養子のお話をお受けしなくちゃならなくなって。」
「馬鹿だな。」
喜平二は笑った。
「俺は嬉しい。お屋形さまを尊敬しているから。だから泣くな。何があっても、そなたのせいじゃない。」
彼女は懐から何かを取り出して、掌に載せた。
そっと口づけをすると、ぎゅっと握った。
喜平二の目の前に差し出すと、拳を開いた。
「ああ、これは。」
初めて会ったときに持っていた、あの小さな鈴が付いた二つの緑の珠だった。今日は、何も付いていないのと、鈴の付いているのに分けられている。
「翡翠、という宝玉だそうです。」
彼女が言った。
「叔母さまが大切にしていらしていたものです。一つだけお持ちだと思っていたら、亡くなったとき、どういうわけか二つに増えていて。本当はいけないことだったのでしょうけど、あまりにも不思議だったし、どうしても形見が欲しくて、お葬式のとき、お棺から出してとっておいたものです。生命の再生をもたらす幸運の石だそうです。お身の守りになると存じます。よろしければお受け取り下さい。」
「有難う。何よりだ。」
喜平二は、何もついていないほうを受け取った。
紅にようやく笑顔が戻った。
「私は毎日」
彼女は言った。
「もう片方の石に、あなたさまの御武運をお祈りいたします。」
「俺もこの石を」
彼も言った。
「肌身離さず持っていよう。」
紅は、喜平二の後ろに色代する与六の前にかがんだ。ぷっくりした頬を両手で挟んだ。
「もう庇ってあげられない。」
ぽろぽろと涙をこぼした。
「違わい。これからは俺が姫君をお守りするんだい。」
与六は言った。
大人っぽく男らしく言おうとしたのに、涙で喉が詰まった。あまつさえ鼻水まで垂れてきてしまった。
姫君が懐紙で鼻を拭いてくれた。
喜平二は、霧の中に紅の乗った舟が隠れていくのを見送った。
彼女の被った笠の、尖った先端の部分だけが霧の中に見えていたが、それも消えた。
与六は手放しで泣いていた。
港の端、岩場の突端まで、こけつまろびつ走って行って、舟が見えなくなっても、声を限りに彼女の名を呼んでいた。やがてあきらめて、座り込んですすり泣いた。主のことも、すっかり忘れてしまっているらしかった。喜平二が近づいていくと、涙声で言った。
「姫君はどうなるのでしょう。」
「さあ、な。」
喜平二は霧の中に目を凝らした。でも波の音しか聞こえない。
「都も戦が絶えぬ。生き延びるのも難しいだろう。これが今生の別れとなるだろうな。」
「いいえ。」
きっぱりと言った。
「私はあの方を嫁御寮にします。」
喜平二は、つくづくと与六の顔を見た。
「そちは……又、ケンカしたな。」
はっとして、顔を背けた。
「これは姫君の悪口を言う奴等と……。」
「そちが正しい。」
喜平二が遮った。
「わかっている。今までずっと、そちのことを見てきた。そちはいつも正しい。でも世の中、正しいことが通るとは限らん。あいつは、何の罪科も無いのに国を追われた。こんなことは間違っている。正しいことが通らぬ世の中なんて、世の中のほうが間違っているんだ。」
いつもの喜平二らしからぬ激しい語調に、与六は涙の跡の残る顔で、主を見上げた。
「そちは節を曲げずとも良い。正しいと思ったことをすればよい。俺はいつも見ている。責任は俺が取る。下の者が行い、上の者がその責任を取るのだと、お屋形さまが仰ったことがある。俺もそうする。だからそちは、俺に絶対の忠誠を誓え。俺の信頼を裏切らない、と。誓えるか。」
与六は居ずまいを正した。
色代し、頭を下げた。
「御意。」
喜平二は微笑んだ。
「俺もあいつが好きだ。戻ってきて欲しいと思っている。だから」
刀の下げ緒を見せた。紅が呉れた翡翠の玉が揺れている。
「こうやって下げておく。あいつが戻ってくるまで、あいつを忘れないように。あいつを追い出したこの国が、少しでも正しい道に進めるように。俺たちがやるしかないんだ。」
二人で海を眺めた。
少しずつ海霧が晴れていく。
波の彼方にうっすらと青い水平線が見えてきた。