第135話 未練
それでも助左は、段々身体が回復して起き上がれるようになると、そわそわし始めた。
「ちょいとお待ちよ、病人に戻ってこられたって、あっちだって迷惑だよ。この店の中で歩く稽古をしてから、お帰りよ。」
朱夏が、助左に邪険に扱われても恨み言ひとつ言わず、献身的に世話してくれたという負い目もあってか、彼は大人しく、彼女の言に従った、だが。
階段の下に下りていった彼は、立ち止まって、一点を穴の開くほど見つめている。
その視線の先を何気なく見た朱夏は、はっとした。
そこにはあの、大花瓶があった。
何も考えずポンポン投げ入れて、水は時々、差したものの、目立たぬ場所とて何の世話もしてやらなかったので、枯れた花と萎れた花と新しい花が混在して、花瓶から溢れている。
(しまった)
香りだ、とわかった。
辺りには、むせ返るような花の香りが溢れている。いつも通る彼女の鼻は慣れてしまっていたけど、久しぶりに通った彼は、気が付いたのだ。
「俺、帰るわ。」
助左が、やっと思いついたように言った。
「帰んなきゃ。」
自分の気持ちを確かめるように、呟いた。
「聞いてくれ。」
朱夏に向き直った。
「俺は、あいつが好きだ。」
「くどいてんなら」
朱夏は鼻で嗤った。
「相手を間違えてんじゃないのかい。」
「いいや。」
真っ直ぐ彼女を見た。
「お前の許しが欲しいんだ。」
「許しって、何かい?あたしが、やだって言ったら、やめてくれんのかい?」
「俺は……あいつと添いてえ。あいつと、ほんとの夫婦になりてえんだ。」
「よしとくれよ、あんたらしくもない。」
朱夏が混ぜっ返しても、構わず続けた。
「あいつが帳場に居て、俺の顔を見て、にこっと笑って、おかえりって言ってくれると、心の中に灯が点ったようになる。ここは俺んちだって、あいつが待っててくれるんだって、心から思えるんだ。あの家は俺んちで、そこには、あいつが居なきゃなんねえんだ。」
「あんた、勘違いしてるよ。」
朱夏は唇を歪めた。
「あの娘は、あんたのことなんて何とも思っちゃいないよ。あの娘の心の中は、他の男のことで一杯で、あんたの入る隙間なんて無い。あの娘の笑顔は、使用人が、御主人さまがお帰りになったのを見て浮かべる、笑みだよ。あたしが、お客が登楼ってくれたのを見て笑うのと、同じだよ。」
「わかってる。」
その顔があまりにも淋しそうなので、朱夏は胸を突かれた。
「でも、いい。もう、自分の心は誤魔化せねえ。俺が心配していたのは、俺があいつを好きなために、あいつが店に居づらくなるんじゃねえかってことだった。だけど今度のことで、思った。やっぱりあいつを女房にして、世間に知らしめてえ。俺が楯になって、あいつを害する侍たちから守ってやりてえんだ。あいつは命が惜しくねえんだ。生まれが侍の家だからか、本人が板額になりたがってるせいかわからねえが。」
ふっと微笑した。
「俺は、あいつに死んで欲しくねえ。あいつ自身にとってはどうでもいいんだろうが、あいつの命は、俺にとってはIl mio tesoroだからよ。」
「あたしに向かって」
朱夏は叫んだ。
「よくもまあ抜け抜けと、そんなことが言えたもんだね、え?」
「すまねえ。」
頭を垂れた。
「お前には一言もねえ。」
「あたしは、あんたを」
彼の胸にすがった。
「離しやしないよ、ねえ、ずっと、一緒だったじゃないか!」
「前、身請け話があったとき」
助左は静かに言った。
「俺は口出しするつもりは無かった。お前みてえな高い女を、ぽんと耳を揃えて払ってくれる奴なら、男でも妓楼でも、行ったらいいと思っていた。それだけの覚悟を持って、お前を引き取ろうってんだったら、本気だと思った。お前には幸せになってもらいたかったんだ。俺はもう、何もしてやれねえから。」
「ひどい……。」
身を離した。
彼が本気だということが、わかったからだ。
「他人事みたいに……。」
「ひでえ奴さ。紅が奔走しているのを、横目で見ていただけだったよ、俺は。」
「何なんだい、あたしは!」
激昂して、拳で男の胸を叩いた。
男の身体が、フラフラと揺れた。
叩かれるまま、助左は言った。
「お前は、俺の一番苦しいときにいつも、一番側に居てくれた。俺にとって、かけがえのねえ仲間だ。だからこそ、ほんとのことを言うんだ。優しい言葉を掛けると、お前を惑わして未練になるから。俺の、掛け値無しの本音を言うんだ。お前とはもう、男と女の関係を望んじゃいねえ。わかってくれ。」
「いいよっ!帰れっ!」
キレて、懐にあった扇を投げつけた。
「いや、又、来る。でも、友だちとして、だ。」
避けなかった。
扇は彼の胸に当たって、音を立てて床に落ちた。
「二度と来んなっ!」
彼が杖にすがって、よろよろと店を出て行く。
裸足で追いかけた。
「ねえ、あたしには、あんたしか無いんだよっ!」
肩にすがった。
「それは違う。」
振り返って言った。
「他にもある。あいつが呉れたもんが。」
そのまま去っていった。
背中を見送った。
男がもう、戻ってこないことを知った。
肩を落として踵を返した。
店に戻った。
「女将さん、おかえりなさいませ。」
一斉に店の者が頭を下げた。
「ああ。」
気が無く応えて、ふと気づいた。
「あんたたち……あたしに頭、下げんの?」
「え?」
「皆、あたしに頭、下げんのね。」
「そりゃ……女将さん、ですから。」
何を言ってるんだろう。
皆、曖昧に笑った。
改めて、玄関を見回した。
蓬莱屋は堺でも老舗だから、建物ももう百年近くになる。
天井の梁は年代物の松。
柱は太い欅。
待合にある囲炉裏の煙に燻されて黒くなり、毎朝、小女に丹念に磨かせているので光っている。
何処から見ても、立派な店。
そうだ。
この店は、彼女の物だ。
昔は、彼女を皆が足蹴にすると言って、助左に泣きついたものだった。
それが今では。
皆が、あたしに頭を下げる。
あたしにはもう、彼以外に、持っている物がある。




