第11話 詮議
あれから兄は寝付いてしまった。
府中にある上田長尾家の屋敷で、昏々と眠り続けている。
(このまま死んでしまうんじゃないだろうか)
蒼白な兄の顔を見ながら思った。
坂戸城は大混乱で、母も倒れてしまったとの知らせを受けた。
だから今、春日山城の大広間の前庭に面する廊下に、喜平二が居心地悪く座っているのも、他に上田長尾家を代表して出る者が居ないからだ。
これからお取調べがあるというのである。
相変わらず、何が起こったか、詳しいことは一切知らされていない。
知っているのは唯、父と宇佐美殿が野尻湖{信州の野尻湖とも、坂戸城下の銭淵とも、今はもう無い同名の湖とも言われている}で舟遊びをしていて舟が転覆し、二人とも死んでしまった、ということだけだ。
「あれが、……長男……病弱……。」
「いや何でも、遺体が引き上げられたとき、越前守{政景}殿の脇の下に刺し傷があったのを見た者がいる、とか……。」
「しっ!」
皆が陰でこそこそ話していることは知っているが、彼に向かって話しかけてくれる者は誰も居ない。
好奇の視線に晒されながら、
(当事者、なのに)
誰よりも疎外されていた。
前庭に夏の日差しがじりじりと照りつけて、白く乱反射している。
木立から蝉の声が降り注いでいる。
広間には諸将が居並び、ものものしい雰囲気だ。
なのに、真相を追究するため、というより、追及しているという事実を周知のものにするための見世物のように思えるのは、何よりも自分自身が見世物になっているせいだろうか。
お屋形さまが、家臣を引き連れ、屋敷の奥から出てきた。
色白で髭の剃り跡が青い、小柄で僧形の彼はしかしながら、その体格以上の大きさを感じさせる。
いつものことながら彼が姿を現すと、その場の雰囲気がぴりっと締まる。作り物めいた感じはいっぺんに無くなり、何か厳かな空気が流れる。
一同、お屋形さまに礼をした。
お屋形さまが床机に腰を下ろすと、宿老の直江景綱が合図した。
罪人が引き出された。
彼女は白い小袖姿だった。
髪はもつれ着物も汚れ、よろよろと覚束無い足取りで、棒を持った役人に引き立てられてくる。
喜平二は思わず腰を浮かしかけたが、周りの厳しい視線に又、腰を落とした。
紅は崩れるように、埃っぽい地面に膝を付いた。
詮議が始まった。
陰謀に気づいていたか、と、役人の厳しい取調べに、紅は消え入るような声で、存じません、何も知りませんでした、と繰り返すばかりだった。すっかり痩せてやつれて、今、自分がどのような状況にあるのかさえよくわかっていないような空ろな目をしていた。手や足に酷い傷跡がたくさん付いていて、どうやら打ち据えられた跡のようだった。
ああ、ここにも
(当事者なのに)
誰よりも疎外されている者がいる、と思った。
何度目かの問いに、とうとう答えなくなった。
「何だ、どうした。何故、物言わぬ。」
頭を上げ、空を見やった。
喜平二も彼女の視線を追った。
天空の高いところで、一羽の鳶が輪を描いている。
飛ぶ鳥が目に入っているのかいないのか、呆然としている紅の唇が微かに動いて、
「もう」
小さな声で言った。
「死んでしまいたい。」
役人が棒を高く振り上げた瞬間、喜平二は弾かれたように立ち上がった。
脇差を抜きながら、裸足で庭へ飛び降りた。
白刃一閃、棒の先が斬られて宙に飛んだ。
刀を油断無く構えながら、後手に紅を庇って叫んだ。
「誰もこの女に手を出すなっ!俺が相手だっ!」
総立ちの周囲を睨みつけた。
紅が、がくりと頭を垂れた。
肩を抱いて言った。
「俺はそなたが好きだっ!たとえこの世の中の全ての者がそなたの敵でも、俺だけはそなたの味方だ!忘れるな、俺の気持ちは変わらない。何があっても!」
一人だけ悠然と座っていたお屋形さまが、さっと立ち上がった。
「それまで。」
言い捨てると、奥へさっさと入っていく。
慌てて後を追ってきた直江に言った。
「あいつを、俺の養子にする。」
「えっ?」
驚いた。
「お屋形さまの前で刃を抜いた者を。遺言はお取り上げにならないと、これからは遠ざけることに、協議で決まっていたのではありませんか?」
「俺の気が変わった、と皆には伝えておいてくれ。」
ちょっと笑った。
「血は争えんな。」
独りごちた。
「あいつは見所がある。側に置いて様子を見たい。危うい者ほど猛き者に育つ可能性があるのだ。任せる。」
ずんずん歩いて一人、仏間に入っていった。
取り残された直江は頭を振り振り、元来たほうへ戻って行った。