第120話 身請け話
二人で蓬莱屋を訪ねた。
紅が、湯屋に足を踏み入れるのは初めてだ。
訪いを入れ、待つ間、素肌にぞろりとだらしなく着物を引っ掛けた湯女たちが、紅たちの居る控えの間の脇を通った。
この店の看板妓の部屋にずっと居続けていた助左には、
「旦那さぁん。」
顔馴染みらしく、色っぽく声を掛けていく者も居たが、
「あら、やだ。」
「ずうずうしい。」
「なんで、地女がこの家に来んのよ?」
ぢおんな、つまり素人女である紅には、何処かから見ているたくさんの突き刺すような視線と、ひそひそ話と、くすくす笑いが集まった。
奥の座敷に通された。
流石、堺で一番の湯屋だけあって、やや過剰なほど贅を尽くした設えは、見ごたえがあった。
下座に、ここの女将と、ふくれっ面の朱夏が座った。
笑顔の仮面が顔の表面に張り付いたような、やや太目の女将が、如才なく頭を下げて言う。
「ほんとは、こちらから出向かなきゃなんないとこなんですけど、手前どものような者が、お店の前をうろうろするのも何でございましょうから。お呼び立てして、ほんとにすみません。」
「ツケは綺麗さっぱり、払ってった筈だけどな。」
助左が女将に言う。
「お船は戻っていらっしゃるかどうか、わからないでございましょ、とか何とか、失礼なこと言うから、耳を揃えて払ったじゃねえか。」
「いえいえ、お代は確かに。」
女将は、にこにこ顔を揺らしながら、手を振った。
「今日は、そんなお話じゃございません。実は、この妓に、身請け話が持ち上がっておりましてね。」
「えっ?」
助左は朱夏を見た。
「お前、そんなこと、一言も言ってなかったじゃねえか。」
爪を噛みながら押し黙っている朱夏に代わって、女将が答えた。
「いえね、お船が出てってからなんでございますよ、そのお客さまが見えたのは。何でも以前、白粉を売る催しがあったとき、踊っていたこの妓を見初められたんだそうで。」
「ああ。」
「それでね、その金額が」
女将が挙げた金額に、助左がひゅっと口笛を吹いた。
「そりゃア……よっぽどご執心なんだな。」
「平野のお大尽なんだそうでございますよ。」
「ふうん。そこまで想われるとは、お前も幸せもんだな。」
なんだい、他人事みたいに。
朱夏は唇を噛んだ。
助左はまるで、茶飲み話に来た婆さんのように、ここの女将の話に相槌を打つばかりだ。
しかも傍らには、自分とこの女将を侍らせて。
皆で、あたしを笑い者にしに来たのかい。
「この妓も、想ってくださる方の元に行くのが、幸せというものかと思いましてね。」
「そうか。そうだよな。」
そうだよなって、それで仕舞いかい?
他に何か、言うこと無いのかい?
「いえね、この妓も借金が嵩んでおりますし、身請けされりゃ、それも綺麗さっぱり無くなって、身軽になれますから。この妓のためにもなるんですよ。いえね、旦那さまには、いつも大変、ご贔屓に預かっておりますんでね。勝手に決めちまって、後から待ったを掛けられて揉めるのは、嫌でござんすからね。一応、お耳に入れとこうと、お帰りをお待ち申し上げていたんですよ。それじゃ、異論はございませんね?この話、進めちまって、宜しゅござんすね?」
「ちょいと、待っとくれよ!」
たまりかねて、朱夏は口を挟んだ。
「何かい、するってぇと、この話は全部、あたしの為かい?違うだろ!」
蓬莱屋の女将に向き直った。
「大体、あたしを急いで売っ払おうってのは、あんたの亭主が、賭場でたんと借金をこさえちまったからじゃないのかい?払えなけりゃ、この店を取り上げるって威されてるんだろ? それから、あたしの借金は」
助左のほうは見ないで言った。
「誰かさんが堺に帰るから、室津にはもう来れなくなるってんで、無理してここに移ったから出来ちまったんだ。誰のせいだい!」




