第117話 月下氷人
助左が紅に手を差し伸べ、降りるのを助けてやっているのを見た秀吉は、
「そなたら、結婚していないそうな。じゃったら夫婦になれ。夫婦は良いぞ。わしは結婚して、ほんとに良かった。」
大声で言った。
「これ。」
寧々が慌てて、秀吉に囁いた。
「何?」
初耳だったらしく、驚いた顔をしたが、言葉を重ねた。
「そうか、紅は、上杉の倅の許嫁か。じゃったら尚更じゃ。助左と結婚したほうが、ええ。」
「何故ですか?」
不安そうな面持ちの紅に代わって、助左が聞いた。
「そち、最近、殿に呼ばれないであろう。上杉とは決裂したからな。実際、織田は破竹の勢いで周囲の敵を平らげつつある。家中のわしさえ空恐ろしくなるほどの勢いじゃ。わしも、武勇で名高い上杉の倅とあらば、一目会ってみたい気持ちもあるが、残念ながらおそらく、彼の者に会えるのは、どちらかが首になってからであろうな。」
「そこまで関係が悪化しているんですか?」
助左が尋ねた。
「殿が」
秀吉は、眉根を寄せて顎をいじった。
「最近益々、苛烈極まりない要求をお出しになるからの。ついて行けない者も出ておる。」
「は、羽柴さまは」
紅が震える声で言った。
「喜平二さまの首をお望みなんですか?と、殿も?」
「ああ」
秀吉は困った顔をした。
「べそをかくな。女子に泣かれるのがわしゃ、一番弱いんじゃ。殿だって別に、喜平二を殺したいわけじゃない、たまたま、前に立ちふさがっておるからじゃ。わしとて……ああもう、わかった、わしは、上杉とは戦わん、誓う。」
「ほ、ほんとに?」
紅が涙声で言った。
「ああ。誓う。武士に二言は無い。そちには借りがあるでな。その代わり、そちも、上杉が、わしに味方するように図らねばならんぞ。」
こっくりうなずいた。
「やれやれ、それにしても大変な旅じゃった。誘拐犯に加担した日本側の者は、詮議して正体を突き止め、厳しく成敗してやる。わしがもっと偉くなったら、人買いは禁止するぞ。大体、なんで、そちの方が、わしより高い?」
「はいはい、偉くなったらね。」
寧々は相手にしない。
秀吉一行に別れを告げた。
猿若も、
「では手前も、これで失礼致します。」
頭を下げた。
上杉に報告に行くのだろう。
この半年、スペインの動向ばかりでなく、秀吉一行を観察したことも含めて。
「御苦労だった。」
紅が頭を下げた。
「勿体無い。」
猿若が慌てて止めるのを、
「礼を言わせておくれ。たまにはいいだろ?」
紅が言った。
その後、荷降ろしをした。
今回は、生きて帰るのに精一杯で、商いにはならなかった。おまけに、腕利きの船乗りを何人も亡くしてしまった。船だけは代わりを手に入れて何とか保てたもの、大損害である。品物を僅か、持ち帰ったが、焼け石に水なのは明らかだった。
今年一年、この損を穴埋めして、何とかやっていかなければならない。
「私はお先に失礼致します。」
紅が頭を下げた。
「坊ちゃまは蓬莱屋においでですよね。」
女は踵を返した。
遠ざかっていく背中を見て、躊躇していた心が決まった。
女の後を追いかけた。
追いついて、心急くまま、助左は言った。
「俺も菜屋に帰る。」
「え?」
「用があるんだ。」
共に家路をたどった。




