第107話 恨
夜襲は大成功だった。
秀吉の合図で引き揚げようとした、その時である。
銃声がしたと思うと、助左の髪が何本か、ぱらっと千切れ、風に巻かれて飛んでいった。
舟を漕いでいた海賊の男が、ぎゃっと言って、のけぞって海に落ちた。
助左は咄嗟に、紅を庇って、舟の底に身を伏せた。
「久しいな、この裏切り者め。」
暗い海の向こうから声がした。
「今度は、胸板を撃ち抜いてやる。」
助左が暗い海を透かし見ながら言った。
「聞いた声だな。誰だ?」
相手は忌々しげに舌打ちする。
「忘れたか、この俺を。お前さんの昔馴染みだよ。」
「原田喜右衛門か。」
助左は低く呟いた。
声を頼りにもう一発。
今度は船縁を掠って、木片が砕け散った。
「よく見えないのよ。」
紅が囁いた。
「あたしも撃ちます。あっちの位置を知りたい。」
舟底に置いた銃を手元に引き寄せると、弾を込めた。
助左は、燃えているナオを見た。
漕ぎ手がいたところに、櫂が転がっている。
床を這って船尾に行くと、櫂を手にした。
海面に櫂を下して、そろそろと舟の向きを変える。
向こうはいらだって、闇雲に撃ってきた。
水面に、弾痕が幾つもの輪を描く。
「形見分けに明神丸や乗組員をくださったのも、親父さんが、お前より俺のことを買ってくださっていたからだ。俺を恨むのは筋違いだ。それに、俺は元々、堺の出だ。船を博多から出さないからって、裏切り者は無いだろう。」
言いながら舟を動かしていく。
弾の狙いが段々、正確になってきたが、構わない。
燃えるナオを背景に、相手の姿が黒々と浮かび上がってきた。
小舟に乗って銃を構えている。
「店はどうした?」
「とっくにつぶれたよ。」
喜右衛門は恨めしそうに言った。
「てめエが店の財産、半分持ってっちまったせいだ。」
「女将さんは?」
「あの後すぐ、死んじまったよ。」
「なんでこんなとこにいる。」
助左が尋ねた。
「俺はキリシタンだ。南蛮の連中とも友だちだ。Spagnaに味方する者も大勢いるんだ。」
「人買いの仲間になってるのか、お前。」
助左は気がついて言った。
「親父さんが生きておいでだったら、さぞお嘆きのことだろう。」
「うるせエ!」
吠えた。
助左の頬を銃弾が掠めた。
次の瞬間、紅が銃を構えて撃った。
あっと叫んで、肩を押さえながら海に落ちた。
助左も続いて飛び込んだ。
沈んでいく男を掴んで、水面に引き上げようとする。相手も負けじと、助左に掴みかかる。
喜右衛門の手下が、櫂を振り上げて、助左を叩こうとした。
紅が、弾を素早く詰め替えて、すかさず撃つ。
相手は櫂を取り落して、舟の中にうずくまった。
秀吉が、自分の乗った舟を近づけてきた。
助左は、秀吉の舟に、喜右衛門を引き上げた。
秀吉は、舟底に突っ伏してぜいぜい言っている喜右衛門を覗き込んで言った。
「そち、何者じゃ。」
喜右衛門は答えない。
「俺が世話になっていた、博多の廻船問屋の旦那の甥です。旦那が俺に、船や乗組員を形見として分けてくださったのを恨んでたんです。」
助左は大きく息をついた。
「畜生ーっ、殺せーっ!」
喜右衛門が呻いた。
「お望みどおりにしてやろうか。」
折角助けてやったのによ、と助左は、むっとして言った。
「ふん、この者には後々、詮議したいこともある。」
秀吉は鷹揚に言った。
「引き上げるぞ。」
村に帰って、喜右衛門と手下は小屋に閉じ込めておいた。
しかし次の日の朝、小屋の前には見張りが倒れていて、中はもぬけの殻になっていた。
どうやら夜の間に、喜右衛門の仲間が来て、連れ去ったらしかった。
「キリシタンの中には、日本人より南蛮人の味方をする者もいるようじゃの。覚えておこう。」
秀吉は言った。