第100話 錨を上げて
好天を待って、錨を上げた。
向かい風が吹いている。
まだ十分な速度になっていないので、舵で方向を取ることは出来ない。
船が風向きに対して斜めになるとすぐ、乗組員たちは三角帆を張り始めた。
帆が風をはらんで、船は水面を滑るように進み始める。
舵が利くようになると、帆を風に合わせて、進路を南に取った。
囚われていた人々を、故郷へ送っていく。
まず半日進んだところにある村で、その近辺で捕われた人々を船から降ろし、海賊たちも捕吏に引き渡すよう、託した。
順々に港々を回って、人々を降ろしていき、最終目的地は、呂宋島の北部にあるAgooという村である。原住民の多くが、この村からさらわれてきたのだ。ここで暫く停泊して、水や食糧を積み込み、日本へ帰還する道を探る計画である。
風の向きはまだ思わしくないが、秀吉がそわそわして帰りたがっているから、助左は、多少無理をしてでも、日本に渡るつもりだった。
「大陸の調査をするつもりであったが、今回は、思いがけぬ国を知ることが出来た。」
秀吉は言った。
「殿にご報告申し上げたら、さぞ、お喜びであろう。とはいえ、寧々も無事に戻ったことでもあるし、我らもそろそろ戻らぬとな。」
船に乗るに当たって、助左は、上甲板の艦尾にある船長室を、秀吉にあてがったが、
「わしゃ、皆と一緒でええ。女どもが使うがよい。」
と言って、寧々と紅と鞠に譲ってくれた。自分は、下甲板に並べて吊るしてある物のうち一番ゆったりした、『大開き』という角材を使ったハンモックに陣取った。
ハンモックは、一つが二人用だった。和船と違い、夜も航海する洋船は、眠らない。一人が当直を務めているとき、もう一人が使用していたのである。秀吉は独り占めしていたから、こんな寝床でも特別待遇といえた。
船は海岸伝いに進んでいく。
和船の先端は平らになっているが、洋船の舳先は尖っていて、白く泡立つ海面を切り分けるように進んでいく。
不思議なことに、アゴーに近づくに従って、珠に現れる小さな漁村は、ことごとく焼き払われていて、人っ子一人見当たらない。
「何かあったのかしら。」
紅は、寧々や鞠と話していた。
助左が、船に乗せている原住民に尋ねてみたが、わからないと言う。奴隷商人に囚われて半年近くたつので、情報が届かなかったのである。
そうでなくても昔のことだ。情報の伝わりは極端に遅い。伝わるのが遅いのは情報のみではない、物も又、しかり。
「逆に言えば、情報や物の伝達の遅さを利用して、俺たちは儲けているんだけどな。」
ある物を欲しがっている人が居て、しかもまだそれが伝わっていない場所へ、いち早くそれを届ければ、巨万の富を得ることが出来る。助左の商売は、それで成り立っている。
紅の目を見つめながら、助左が説明してくれたことである。
あれから、二人きりになることは無いけれど。
特別な時を分かち合ってからというもの、二人の間は、しっくりいくようになった。自然に会話し、笑みを交わし、彼が、ぶっきら棒ながら、さりげなく気配りしてくれることを、素直に感謝して、受け取ることが出来るようになった。彼女は肩の力が抜け、彼は目に見えて穏やかになった。
鞠も寧々も、二人の間に何かあったことを察しているようだったが、何も言わなかった。