第98話 数学の世界
修理や操舵の練習の合間、例えば天気が悪くて何もすることの無い日や退屈な夜には、異国の言葉の講習会が開かれた。
助左やその船の乗組員は、南蛮の言葉や中国の言葉を操る。紅を始め菜屋の者たちも、これから異国と取引するのに必要だろうというのである。
「なに、難しい言葉が話せなくたっていいんだ。」
助左が言った。
「商売で必要な範囲だけでも聞いて話せるようになればいい。」
でも思いがけず一番上手になったのは、秀吉だった。昔、生まれ在所を離れ、諸国を放浪して様々な物を売り歩いたという経歴の持ち主だ。他所へ行ったら、その土地の言葉を話せるようになるのは商売の基本じゃ、と、却って教えられた。
もっとも本人は、
「通辞がおるじゃろ。そんなに上手くならなくても良い。」
そう言いながらも異国の事情に興味があるようで、トーマスから熱心に話を聞いていた。
イスパニア人が、メキシコのマヤ帝国やペルーのインカ帝国を冷酷無残に滅ぼし、金銀を奪い、原住民を奴隷的境遇に陥れたこと。
ポルトガル人が、アフリカで奴隷貿易を行い、不正義な富を貪っていること。
これら西洋諸国が、アジアを植民地化しつつあること。
正義を唱えるカトリックのキリスト教会が、有効な批判を行わないこと。
貿易で得た利益の一部が税金として教会に入るシステムになっていて、布教活動が植民地獲得の先兵になっていること、など。
「シカモ、東・亜細亜ニオイテ、明国ノ力ハ衰エツツアルヨウデスネ。」
トーマスが言うと、秀吉は深くうなずいて、
「明に代わって、天下統一をする国が無くてはならぬようじゃな。」
と言った。
正月は、この島で祝った。
嵐で傷んだ船の修理も大方終わり、操舵もどうやら様になってきた。
出港の準備の際、トーマスは、荷積みの方法にも一家言持っていて、船乗りたちを驚かせた。
「私ハ、船倉ニ、球形ノ砲弾ヲ、出来ルダケ多ク積ム方法ヲ、探シテイルノデス。」
効率良い荷積みの仕方を、船乗りたちに手際よく指導した彼は言った。
実はこれは、その後四百年間、数学者たちを悩ませることになる数学上の難問『ケプラー予想』{球体の最も密度の高い詰め方に関する考察}への史上初の挑戦だったのである。
彼の持つ地図も、船乗りたちの目を驚かすに十分だった。トーマスは、当時最先端の地図である、メルカトル図法の数学的定式化にも携わっていた。
エリザベス一世の『魔術師』であったジョン・ディーは、
「数学こそは、神の栄光、国益増進、そして個人の栄達の鍵である」
と説いた。
まだ科学と錬金術の境目さえはっきりしていなかったこの時代、トーマス・ハリオットは、数学が科学技術の基礎であることを、皆に知らしめようとしていた。
何しろ当時、数式を書いているだけで、『悪魔と交信している』とされたほどなのである。実際、後日、彼は『占星術を使って王の運命に影響を及ぼそうとした』咎で、異端審問に掛けられている。
しかし、ただ堅いだけの男ではなく、遊びも上手だった。楽しいパズルをたくさん考案した。その代表作が魔方陣である。トランプも滅法強く、誰も敵わなかった。勿論、高度な確率論を自在に駆使しての数学的勝利である。
皆、彼にこてんぱんにやられたが、不思議と嫌な思いはしなかった。それは彼が、差別意識の全く無いひとだったからである。
人権、などという言葉の無い時代だ。
新大陸に進出した征服者も、日本に来た宣教師たちの中にも、他の人種に対する差別や偏見で凝り固まっている者が大勢いた。そのことが原因の揉め事は、枚挙に暇が無かった。
その中でトーマスは独り、透明な感性の持ち主だった。
彼は、他人には言えない秘密を持っていた。
親友のサー・ローリーと同じく、筋金入りの無神論者だったのである。
宗教裁判の嵐が吹き荒れていたこの時代、火あぶりにされても文句の言えない重大な罪だった。
彼が偏見から自由だったのは、この時代の暗く凝り固まった宗教とは別のところに、自分の立ち位置を見出していたからであろう。
あるいは彼は、知恵があらゆる束縛を解き放つことを証明する、輝くサンプルだったのかもしれない。
トーマスのほうも、日本人に驚かされることが多かった。
何より日本人が、数学や自然科学の知見に接して喜んでいるのに感銘を受けた。
天体の運行、日食、月の満ち欠けに興味を持ち、トーマスが疑問を解くと皆、素直に驚き、更に素朴に問うてくる。
宗教に凝り固まって新しい知識を受け入れられない西欧から来た彼には、信じ難いことであった。
当時の日本人の様子については、数々のイエズス会宣教師の証言がある。
後日、日本にやってきたイタリア人イエズス会士カルロ・スピノザは、日本人に尊敬されるための手段として、数学が極めて有効であるとの報告をしている。又、フランシスコ・ザビエルも、『日本人は好奇心が強くうるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限りがありません。』と記している。質問に答えられると、人々からの好意を得るのに大変役立つ、として、日本には、これら数限りない質問疑問に答えられるような人材を派遣するよう、本国に求めている。
ちなみにこの後、イエズス会では、布教における数学の重要性が認識され、教育カリキュラムに取り入られた結果、次の時代のデカルトら近代数学の発展に貢献する頭脳を育んでいく。