第8話 婚約
滞在が長くなったので、紅が帰るという。
喜平二は落胆した。
ところが彼女は彼の元にやってきて、
「喜平二さまは勿論、兄上も御招待したいと祖父が申しております。」
と言う。
「転地療養も気分転換になってよろしいのではないかと。」
ただ、
「祖父から申すと、正式の御招待になってしまいます。長旅がお身体に触るといけないので、可能かどうか、喜平二さまから内々に、お父上の御意見を伺って頂きたいのです。」
父に伝えると、暫く考えていた。
ところが父が口に出したのは、全く別のことだった。
「駿河守殿の孫娘を、そなたの嫁にどうかと思っている。」
「本当ですか?」
思わず声が裏返ってしまった。
「嬉しいか?」
「はい!」
叫んでしまった。
昔のことだ。
武士階級の者は、十三歳にもなれば元服して、程なく結婚する。
彼ももう十歳だ。
彼の身分でこの年ならば、婚約者がいて何の不思議も無い。
「でも兄上が……。」
「兄は身体を直してからだ。」
父は即答した。
「宇佐美殿は我が家にとって大切なお方。結婚によって絆を深めるのは大事なことだ。」
(ずっと一緒に居られる)
父の前を退出しながら、笑いがこみ上げてくるのが抑えられない。
(家族になる。紅も、駿河殿も)
政景は側室を持たない。
兄と彼、姉、妹、皆、同じ母から生まれている。当時珍しいことだった。
仲睦まじい家族に、紅とその祖父も加わる。
紅と結婚する。
きっと可愛い子供たちが生まれることだろう。幸せな家庭は、ずっとずっと続いていくことだろう。
紅の元に飛んで帰った。
与六と共に、池の鯉に餌をやっているところだった。
紅は、与六をとても可愛がっている。
年が小さいこともあるが、いじめられてもくじけず頑張っているのが、いじらしいと言う。兄弟が居ないので、まるで弟のように思っているらしい。
「兄上もいらっしゃいますか?」
喜平二が戻ってくるのが早かったので、少し驚きながら言った。
「あ。」
返事を聞くのを忘れていた。
「それより聞いたか、俺たちのこと。」
「え?」
「だから、これから俺たちがどうなるかってことを。」
「?」
まだ聞いていないのだ、と思った。
正式な発表まで待つべきだった。
でも構うもんか。一刻も早く知らせたい。
彼女の手を取った。
「縁談がある。俺とそなたを娶わせようという話だ。」
「えっ?」
与六がしゃっくりをした。
紅は呆然としている。
性急に言った。
「構わぬな、この話、進めてよいな。」
まだ子供なのだ。目を白黒させている。
「俺はそなたが好きだ。うん、と言ってくれ。」
「は、はい。」
ようやく答えて顔を赤らめた。
「でも。」
えっ、まだ何かあるのか。
生来せっかちな喜平二は、ちょっとイラッとしかけた。
「お祖父さまがお一人になってしまうから、と言ったんです。」
紅は言った。
では、坂戸の屋敷の隣に、駿河殿の隠居所代わりに別行を建てるから、と喜平二が言ったという。
「だからどうしても嫁に来てくれ、と。」
笑みがこぼれた。
「そなた、喜平二殿が好きか?」
「はい!」
即答だった。
定行は白い髭をいじっている。
「どういうところが好きなのじゃ。」
「ええと、私のことを好きだとおっしゃいました、ずっと大事にする、と。」
「ふむ。」
「熊に襲われたときも、きっぱりしていて、男らしい態度でした。」
「ふむ。」
「あの、家族が増えます。」
必死に言った。
やっぱり、と定行は思った。
淋しかったのだ、この子は。
「私は父上も母上も知りません。でも結婚したら、父上、母上ばかりか、兄上に姉妹までできます。」
「そうだな。」
「皆さま、とても良い方だそうです。」
「……。」
「それから、それから」
ぱっと顔が明るくなった。
「とっても、お屋形さまを敬っていらっしゃいます。」
「ほう。」
髭をいじる手を止めた。
「勿論、お父上は別格だそうです。でもあの方のお望みは、お屋形さまの馬前にはせ参じることです。お屋形さまは毘沙門天の生まれ変わりだ、俺はその前に立つ眷族になるのだ、と、いつもおっしゃっています。」
「そうか。」
「あの方は、お屋形さまのお役に立つ方だと思います。」
「うむ。」
「それにしても」
ようやく気が付いたように、言った。
「そこまでお話が進んでいるなんて存じませんでした。」
わしも知らなんだ。
心の中で呟いた。
たった一人の孫まで巻き込みたくなかった。
でも向こうも、嫡男が病弱だから、十中八九、跡取りになるであろう次男を差し出している。
それだけ真剣だということだ。
(まずい)
非常にまずい。
紅の笑顔を見ながら、定行は覚悟を決めた。
「あっ、でも」
紅は定行の顔を見て、慌てて言った。
「お祖父さまのお気が進まなければ、このお話は無かったことにして下さっても構いませんが。」
「いや」
定行は言った。
「わしはよい。わしはよいのじゃ。」