3 起き始める異変
「…だから、そういうことを聞いてるんじゃないの!何が起きて、その後あなたがどう対処したのかを具体的に説明して、って言ってるの‼」
「ンなこと言ったってよォ……」
問い詰める女性の険悪な雰囲気に呑まれながら、おっさんは後頭部を掻く。
「だァから、さっきも言っただろ?ガキが一匹『裏側』に迷い込んできて、丁重にあるべきところへ速やかにお返ししたってさ」
「『裏側』ができていることはもう分かってるの。そこでもし迷い込んできてしまった人がいたら元の空間へ返してあげて、って依頼したのも私。でもね、何をどうやったらあなたが私の職場に迷い込んでくるのよ⁉こんな汚い恰好をして……ここは大人が常に子供の見本となっていなければいけない場所なの!そんな場所をあなたが堂々と歩いてたら悪印象なことこの上ないわ!しかも私の知り合いって他の同僚や子供たちにばれたりしたら……あぁ、もうっ‼」
ガーッ‼とひとしきり怒鳴った灰色のスーツを着こなした彼女は何故このおっさんがもう一つの仕事の同僚なのかと心底思う。
女性の中では身長は高い方。すらりとした長い手足に、風に揺れ、落ち着いた茶に染まった長髪。
前髪の端をスペードのヘアピンで留めている空峰高校の教師、百合菊愛海は額に寄ったしわが濃くならないよう、こめかみを押えていた。
「………まァ、お前に無断で入ってきたのは確かに悪かったよ。だがなァ……何時間も待たせてその上説教とは俺も少しばかりキツいそ、アミュール」
「こっちでは愛海って呼んで。前にも言わなかった?」
「覚えてねぇ。全く」
これだから、と彼女は頭を抱える。ここはあまり人目のつかない校舎裏の体育倉庫の近くではあるにしろ、あろうことかおっさんは胸ポケットから葉巻を取り出そうとしたので愛海は手刀で彼の手首を弾いた。
「痛ってェな!何すんだy」
「こ・こ・は・が・っ・こ・う・な・の!おわかりかしら……ねぇ?」
「ハイすんませんっしたもうしません今後からはこういうことのないよう善処いたします」
「ん、よろしい」
はぁ、と茶色に染まった長髪を軽くかきあげ、彼女は腕を組む。
「急いでるの。何であなたがここに来たのか三十文字以内で簡潔にお願い」
「寝てたらガキが来て迷って状況を説明してカ○リーメイトもらって結界使って学校まで送ってきて歩いて帰ろうと思ったらなんか呼び出されて待たされ続けて説教受けてる今ココ」
「ちょっと待って!突っ込みどころが多すぎるッ‼まず寝てたってどういうこと⁉あなた一応仕事中よね⁉あと何であなたがカ○リーメイトもらってるのよ‼あとばっちり三十文字超えてるし何その文章力の無さ!ガキか!迷ってきた子よりお前の方がガキだよ‼そして最後‼結界使ったってまさか一般人に『異跡』見せたのかこの野郎ォコラァ‼」
はー、はー、と肩で息をしながらおっさんの胸倉を掴み激しく揺さぶる愛海。その後ハッ、とあることに気づきバッとおっさんから手を放した。嫌な予想的中。おそるおそる手の臭いを嗅いだらやはりほんのり臭かった。
「……アンタその『してやったぜ』的なドヤ顔やめなさい。殺したくなるから」
「先生、口調口調」
地獄へ落ちろ、と愛海は吐き捨て一つ咳ばらいをする。
「この際もう『異跡』を使ったことはもういいわ。その子をどうにかすればいいから……で、どんな子だったか覚えてるの?名前は?」
「さっぱり忘れた。っつか名前聞いてねグホァッ⁉」
無言でおっさんの腹にストレートをお見舞いする。もう彼女の堪忍袋の緒は限界だったらしい。先程の咳払いでクールダウンしたつもりだったのらしいが無理だったようだ。
コイツと接触させてしまった生徒はさぞ迷惑をかけたなぁ、とその生徒の平常点を無条件で上げてしまおうかと割と真剣に考える愛海だったが、その思考はある出来事によって断たれた。
――肌に纏わりつくような、粘着質の嫌な空気。
――所々に感じる、この世ならざるモノたちの醜悪な気配。
ドクン、と心拍数が跳ね上がる。緊張が一気にピークに達した。二人の顔つきががらりと変わる。
「ッ‼……ねぇ、これってまさか……ッ」
「……その、まさかかもな………急ぐぞ、あまり時間がなさそうだ」
○○○
「何あれ……どういうこと?」
「わかんねぇ……ってかこういうのって実際に起きるモンなのかよ?」
「…でも今起こってんだろ」
うーん、何が起こっているのだろう、とその『現象』に対して首を傾げるのもそうだが、どちらかと言えば、ただただその『現象』のありあまる不可解さ、現実味のなさに眉根を寄せる生徒の方が燎平達も含め多かった。
嫌悪感にも等しい、自分たちと何かが違うという異物感。身近な例を挙げるなら服の中に虫が入ったような感覚か。明らかにこの世のものではない、そんな気がした。
彼らが凝視しているのは位置的には校庭の真上の空間。
そこに、ノートに鉛筆でスッと描かれたような『線』が刻まれていた。
その『線』の全長は十メートル前半。謎の巨大な『線』の周りは空間が歪んでいるのか、光の屈折が曖昧になり、水面を見ているように風景が揺らいでいる。
「……あの、歪み…だんだん広がってきていませんか?」
あぁ確かに、と暁の発見に皆頷く。
だんだんとその歪みは、周りの空間をかなり早いペースでどんどん侵食していく。
「なぁ……これ、何かヤバいんじゃねぇか?」
「って言ってもねぇ……誰か先生呼んで来たら?」
生徒のざわめきが次第に大きくなっていく。それにつれて、心の中の不安も増していく。
未知の『現象』が起こった時、果たして人はどのような反応をするのだろうか?
「まぁ落ち着けよお前ら……みっともねぇ。そんなのほっといても大丈夫だろ」
冷静を装い、心のどこかにある恐怖から逃げて考えること自体を放棄する。楽観的な逃避型。
「でッ、でもさ、もし何かあったらどうするんだよ……俺、不安で仕方ないんだけど…」
基本マイナス思考で妄想が激しい。だが怖いので自分からは行動には出ない。自分大好き型。
「ですが、ここでじっとしているのはどうかと思います。『あれ』が何かは分かりかねますが、とにかく大人の対応は必要でしょう。自分たちの勝手な行動はできるだけしないのが最善だと思います」
「そんじゃまぁ、取りあえず俺とこいつが先生呼んでくるわ」
「何で俺なんだよッ⁉」
来飛に肩を組まれた燎平は友の理不尽さに叫ぶ。それに大勢の視線を浴びることは実はあまり燎平は好きではない。
暁のように、状況を客観的に見ることができ、最善な対処法を考えようとする分析型がいるともし『現象』が危険なモノであったら生存率は上がるであろう。
また、実行型の来飛の判断力と度胸もこのような状況では必要不可欠だ。分析型と実行型、後は皆をまとめ、集団心理を考慮し、的確に次の判断を自信と根拠を持って下せるリーダー型がいれば『現象』の対処には十分である。
ちなみに燎平はというと、言いたいことはあるが周りの目や自分の意見が正しいかどうか等色々と考えてしまい、結局は自分に言い訳をして周りの判断に任せる投げやり型だ。要はただのチキン。
「…皆さんも、それでいいですか?何も意見がなかったらこの二人にお願いしてもらいますが……」
暁の一声にクラスメートは顔を見合わせ、頷く。今のように流れがある程度決まっているならば日本人であればその流れを崩さないように、と合理性と周りとの調和を求める。
下手に意見を言って面倒なことになるよりかは、取りあえず頷いて周りの流れに合わせることが最も楽な判断である。不測の事態が起こっている場合などは特にだ。
「決まりだな。行くぞ燎平」
「俺に拒否権なし!?」
五月蠅い、さっさと行くぞ、と首根っこを掴まれる燎平。まじかー、と半眼になりながらも彼の後を追う。
この先の道に茨があることも知らずに。
○○○
「……………、ん?」
何が起きたのか、数秒の間理解できなかった。だが、何かが起こったという事実は、理解できた。
「なんか…変わったな……なんだコレ、気持ち悪ィ」
「ああ……なんか、うん。何だろ、空気?雰囲気?…うーん……」
その、奇妙な『何か』を言葉で表すだけの語彙力は二人にはなかった。ただ、空気そのものが変質し、その空気を吸うと何かもやもやする感じが身体の中に広がるのである。
粘り気のある空気。ガムを謝って飲み込んでしまったようなあの不快感に似たようなモノを感じる。
「…ん?おかしいな、ここって他のクラスだよな?何で人がいねぇんだ…?…遠足?」
通りすがりに見える教室が無人になっていることに来飛は目を向けた。確かに、ここは二年生の教室だ。普通なら、入学式の終わりにホームルームをやっている時である。
………普通なら?
そこで、ハッと燎平は気づく。この状況は、初めてではない。丁度今朝にも、似たようなことがあった。
突然人が消え、自分だけがいる世界。仮に下校したとしても、外や廊下には下校途中の生徒が、先生がいるはずだ。そのはずだが、今は人の気配がまるでない。窓を見ても見事に無人である。
そして、この空間といえば例外的に謎のおっさんも同じ世界に存在していた。
(ってことは、あのおっさんを探せばまたこの変な世界から抜け出せるってわけか…?)
朝、教室まで送ってくれた時から随分時間が経ってしまっているが、それでもなんとか見つけ出すしかない。
とにかく、嫌な予感がする。迅速に行動した方がいいだろう。そう告げるべく隣の来飛に声をかける。
「おい、来飛。ちょっと一回外に出ないか?」
「……え、何で?先生は?」
「いいから!その先生を外に探しに行くんだよ!」
「……お前なぁ、先生ってのは職員室にいるもんだぜ?あの地獄の場所に」
「あぁもう……どうしようこの馬鹿……あっ」
「お前いきなりバカとはなんだ!バカって言ったやつがバカなんだぞバーカ!」
もう馬鹿を片仮名にしている時点で来飛の馬鹿さは目立っているが、そんな彼を外に行かせる案を非常に安直だなと自嘲しながら燎平は口を開く。
「来飛!ほら、あそこに先生が!」
「えっ、どこ⁉」
「もう行っちまったよ!おら追いかけるぞ!」
「ちょっとその前に」
「なんだ!」
「うんこもれる」
「はぁ⁉」
○○○
空気が、変わった。
この感じは、知っている。あの人達にさんざん経験させられた。
だが、今回はいつもと違う。この『異跡』があの人のものではないと、二人は瞬時に気づいた。
「……ねぇ、どう思う?」
「明らかに練習用ではないな。空気中の『異素』が比べ物にならない。『裏側』を張るとは聞いてない。と、いうことは第三者の介入が妥当か」
「つまり?」
「襲撃」
「ということは?」
「……実戦か」
「そのようね……ふぅ。お仕事は書類整理だけにしてほしいんだけど…」
二人は、椅子から立ち上がる。そして、身体の中に空気中の成分を取り込む。
「あの二人にも一応連絡を」
「了解、生徒会長」
「……頼んだわね、副会長」
○○○
「ったく…あの馬鹿……もしかしてあいつ便所行きたかったから自分から申し出たんじゃ…いや、流石にそんなことは…………あるな」
この急いでる時に、と彼は思う。奴は昔からそういう節がある。
自分勝手な行動で周りを巻き込む、と言えば聞こえは悪いが、昔から来飛はルールや制限に束縛されたがらない性格だった。
その代わり自分の中ではきちんとルールを持っているらしく、実は自分勝手な行動と思わせる行動は大体は誰かのためだ。彼と付き合いが浅い人たちには理解が難しいかもしれないが、ずっと身近にいる燎平達はそのことが分かっている。
おちゃらけているようで内心は結構アツい男なのだ。今回だって、困っているクラスメートを助けるために自ら危険(?)かもしれないこの役を買って出たのだ。決して生理的排出を行うためではなく。
……………そう思いたいよ、来飛。
燎平が信頼を乗せた視線を持って顔を上げた瞬間、丁度出てきた彼と目が合った。
「いやー、マジ漏れそうだったわ…辛かったわーほんとギリギリだったわー良かった上手く教室から出てこれて」
「テメェちょっと表出ろ」
早速裏切られた。やはりコイツはクズだ、と燎平は肩を落とす。
「お前も少しはその性格直したらどうだ?そうすればもっと周りから良い目で見られるのに」
「バァカ、周りの目なんざ気にしてたら俺が俺でなくなっちまうだろうが。変に取り繕って自分飾るよりかは俺自身の中身をぶちまけた方がよっぽど楽なんだよ。それに全員が全員に認められたくもねぇ。俺の事が分かってる奴が一人でもいりゃいいんだよ、燎平」
「ケッ、そうかよ。そりゃ結構。かっこいいもんで…でも時には世間体も気にしなきゃこの先生きにくくなるぞ」
「うわ、男のツンデレとかマジで需要ないわ…勘弁してくれ……」
「ちょっとッ!何を勘違いしてなさる……ん、で………」
燎平の目が見開かれる。冷水を浴びせられたような感覚。呼吸が止まる。金縛りにあったかのように、身体が動かなくなる。
つまり、来飛の背後。
奇妙な蛇が、蠢いていた。
~一方その頃美紋と暁は~
美紋「………」
暁「………」
生徒たち「…………」
全員(気まずい……!!)