24 新入生合宿2日目 Ⅱ 『傷跡』
「何で…ここに『異怪』が……!?」
これが初めてではないとは言え、突如世界から色が失われるのには未だに慣れない。
一度『裏側』が展開されれば、『異元』を体内に宿す燎平達は彼らの意思とは関係なく『裏側』に精神体として存在してしまう。
そしてそれは同時に、そこに『異怪』がいる可能性が大きいという事も意味しているのだ。
だが、それは本来あり得ないシナリオだった。
「ちょっと待てよ、だっておかしいだろ!?昨日アミュールさん達が確認したはずじゃ…!?」
「わかんないわよ!でも、その…い、いるって事でしょう!?」
「え…って事は見つけられなかった奴がいたって事か…?」
調べ漏れ、という事があるのだろうか。
『異元感知』に関しては彼女の右に出る者は少ないという、あのアミュールが。
「......それか新しく発生したか…とかじゃない?と、とにかくこういう時は…」
予め、昨日の特訓の終わりに燎平達はアミュールから注意事項を伝えられている事を美紋達は思い出す。
彼女曰く、もし今の燎平達が万が一『異怪』と対峙してしまったら。
その1。とにかく逃げる。『自分の命』を何よりも優先するようにする。
その2。問題の『異怪』が討伐されるまで近くのシェルターで息を潜める。
ざっくり言うと、戦闘やそれに関する無理なことは避け、とにかく生き延びて『修復者』の到着を待つ事…が基本的にする事となる。
しかし現在、燎平達は少々普通とは異なる状況にあった。
まずシェルターの問題。シェルターは特殊な装甲で覆われた、例え『異怪』の攻撃でもちょっとやそっとじゃ傷つかない安全地帯ではあるが、決してその数は多くはなく、都市部や住宅街の近くのみ点在している。そのため、このような山奥にはまずシェルターは存在しない。
次に、来飛や暁は『修復者』として『異怪』と戦っていいのかという問題。
答えはノーである。『修復者』は『修復者』でも、きちんとそれを名乗るにはある一定のカリキュラムを受け、試験を合格しなければならない。
それ以前の『修復者候補生』は、『施設出身者』と扱いが同義となるらしい。
つまり、燎平達四人は『修復者』志望にしろそうでないにしろ『異怪』と会ったらすぐに逃げろ、ということだ。
できる限りそうならないようにアミュールやサーチス、薫がいるのであろうが、その万が一が実際に今起こっているのかもしれない。
パニックで頭が働かない中、燎平はどうにかアミュールが昨日言っていた事を反芻する。
「それに、こういうのが起こった時薫先輩がまず連絡してくれるって…」
「……………来ないけど?」
「………」
薫の『異元』を乗せた波は彼女の意思もそれを通して伝える事ができると聞く。このような緊急時には、まず彼女からアナウンスがある筈であった。
「と、取り敢えず誰かと合流しないとだよな...」
「そうね...アミュールさんがすぐ来てくれると...いい、け...ど............」
不意に、美紋が固まった。
その瞳は見開かれており、燎平の真後ろから彼女の視線が外れない。
「……どうした、美紋」
愚かしくも、反射的に聞いてしまう。
「あ……」
やっぱいい。やめろ。
「.........りょ、うへい...」
頼む、言わないでくれ。
彼女に、腕を掴まれた。
その声は、手は、これ以上なく震えていて。
「ゆっくり…ゆっくりこっちに来て……」
唾液を飲み込み、頷く。
(はぁ、はぁ…ッ)
美紋に手を引かれ、ゆっくりと前へ進む。
段々と呼吸が浅くなっていくのが分かった。
(はぁ、はぁ、はぁッ、ハッ………!!)
瞬きが出来ない。汗もかいてない気がする。
とにかく物音を立てないことに必死で、自分自身と美紋以外の全てが止まっているように見えた。
息をする間が普段より短い。
何も考えられない。
(ハッ、ハッ、ハッ、ッハ……………)
歩くことに集中していたせいか、ぼんやりとしか前を見れていなかった。
その霞んだ視界に、何かが見えた。
(は…?)
逃げ込む先にある、木々の間の暗がり。
(なん…だ…?)
丸く、宙に浮かんでいるように見えるそれは、何か、まるで。
こちらを見ている、眼球のようなーーー
(……ッ!!!!!???)
「ッ、え…!?」
思わず足が止まる。
美紋の口から声が漏れ、視線が此方にずれる。
…きっと、美紋は何かを見てしまっていたんだろう。
ゆっくり移動してたのは、その何かに此方の存在を気づかせたくなかったから。
……だけど。
その何かがもし、此方に最初から気づいていたとしたら…?
例えば…そう、美紋が見たのはその何かの一部という話で。
「み、美紋……」
実は本体は、その大きな口を開けて獲物が来るのを待っていた、という話は、あり得るのだろうか。
「あ...」
視界が、ズレた。
否、そのように感じたのだ。
景色そのものがズレたのだ。
つまり、周囲の木々全体が動いた。
それは化け物と形容するにふさわしい形をとっていく。
「う…そ……」
木々が震え、大地が震え、身体が震える。
ざわめきともとれるその音は、きっとそれの咆哮だろう。
彼らは、二人きりで再び恐怖の象徴である『異怪』と相見える事となった。
〇〇〇
時同じくして、最後尾付近。
そこも突如『裏側』に切り替わっており、薫が『異元展開』出来ない祓間を守りながら状況確認をしていた。
「祓間っち!大丈夫!?」
「ええ…」
「クソッ、さっきから何回もやってるけど!何これ…うまく通らない…!」
『異元』を乗せた波を四方に飛ばすが、アミュールからもサーチスからも返事がこない。
緊急事態なのは間違いないが、自分の念波が彼女らに届かないというのは本来あり得ない話である。
大気中に『異素』がある以上、それを通じて通る薫の波は何者にも阻害されず、パスを繋いだ相手と連絡が取れる筈だ。
(それが出来ないって事は…アミュっち達に何かあったか……それか…)
『異素』そのものに異常があるという事。
薫の念話はある意味、糸電話とも比喩に例えられる。その糸電話の糸が、ここでいう『異素』の役割。
開幕、アミュールたちに何かあったとは考えにくい。とすると、問題があるのはその糸の方が可能性が高い。
(確かに、ここの『異素』はちょっとおかしい…かも……)
今になって、合流して良かったと心底薫は思う。『異元展開』無しで『裏側』に滞在するのは考えられない。
連絡のつかないこの状況で全員がバラバラになっていたらそれこそ危なかった。
アミュールの判断は正しかったのだ。
「祓間っち、ちょっと走れる…?」
「はい…どこへ?」
「どこへって、皆のとこ!来飛君と暁君はアミュっちと最後一緒にいたっぽいからまだ大丈夫そうだけど、燎平と美紋ちゃんは確か孤立してたはず…!二人の距離はそんな離れてなかったから、せめて合流できてるといいけど……」
薫は定期的に燎平達の位置の把握や『異怪』の索敵なども兼ねて『異跡』を『元の世界』で使用している。
『異素』が存在しない『元の世界』では、『異跡』は一見使えないように思えるが、『修復者』には特別に、周囲に『異素』を散布できる措置が施されているのだ。
今でこそ何故か『異元感知』や『異跡』による正確な位置の特定は出来ないが、『元の世界』の時確認した座標から、何となくの方向は頭の中に入っている。
(これ以上あの子達を危険にさせたらまずい……アミュっち達に伝えられないのはかなり痛いけど、とにかく何となくでも位置がわかる薫が助けにいかないと……ッ!?)
突如、轟音が遠くで響くと共にその振動が伝わり、木々を揺らす。
「……急いだ方が、良さそうですね」
「……ッ、皆…お願い、無事でいて……!」
もう事は起こっている。そう認識した薫は、祓間を連れてその音の方へと急いだ。
〇〇〇
「ハァッ!!!」
気合の声と共に、いくつもの紅い線が宙に描かれていく。
その軌跡が黒い灰で汚れていくのを横目で確認しながら、逆方向にいる別の『異怪』に対処すべく『異元』を練り上げていくアミュール。
「す、すげ……」
迫り来る無数の影を炎を纏いながら瞬く間に葬り去る彼女を見て、ただただ圧倒される来飛と暁。
彼らは、アミュールの本格的な戦闘を見るのはこれが初めてだった。
何もしないでと言われた通りに、実際何かが出来る実力も胆力がなく、ただ立って見ていることしか出来ない彼らであったが意味がないわけではなかった。
『修復者』の中でも特に実力が秀でている彼女の戦闘を間近で見て、彼らも学ぶ機会を得るのだ。そういう点で言えば、『修復者』候補生の彼らが今アミュールの側にいる事は幸運だったろう。
だが、来飛と暁は気づかない。
そんな彼らの憧憬の視線を浴びる中、彼女の内心は焦燥と疑問でぐちゃぐちゃになっている事に。
(何で!?昨日あんなに確認したのに…!それに同じ場所にこの数の『異怪』が出るなんて……ッ!!)
『異怪』の発生経緯の詳しい事は未だ解明されていないが、通常は不規則に、特に場所に制限されず気まぐれのように彼らは発生するものである。
故に特定の場所に何度も『異怪』が出現するのは稀である。一つの例外を除き、同じ場所に同じタイプの『異怪』はまず現れないのだ。
「ここが『産地』だったなんて…!聞いてないわよサーチス…ッ!!」
その今直面している例外が『産地』と呼ばれるもの。
『産地』は『異怪』工場とも呼ばれ、何らかの原因により同じ、或いは似たような種類の『異怪』が大量に発生するという場所である。
(っていうかここが『産地』ってのも勿論問題だけど、それよりも…!)
そう、起こっている異常はこれだけではない。
アミュールの最大の武器である『異元感知』が満足に働いていないのだ。
それが研ぎ澄まされている彼女にならわかる。
(コイツらの『異元』が共鳴…連結し合って、この山全体の『異素』を侵食してるんだ…)
倒しても倒しても無尽蔵が如く湧き出ているその『異怪』を解析した結果である。
今日と昨日のデータから、この木型の『異怪』は個々で動くような習性はなく、群で動いて行動を起こすタイプ。実際、今も無数のその『異怪』がこの山全体に分布しており、彼ら自身のネットワークを形成して『異元』の流れをジャミングしている。それが今までの解析で分かった事であった。
その『異元』のジャミング、というのが『異元感知』頼りのアミュールには超絶煩わしかった。
何もない部屋の端と端に人がいれば普通に声が届くしお互いを見る事で存在を認識できるが、もしその部屋にスモークがあり、同じ人の模型がいくつもその二人の間に点在している場合、互いの認識度は一気に低くなる。彼女達が陥っている状態は、感覚的にそのような感じである。
薫の念話が届かないのもきっとそれが原因だろう、と推測するアミュール。加えて“お守り“の場所特定も案の定邪魔されているときた。
(まだ彼らの『異元』小さいし、それに混ざってるから余計にわかりにくい…一刻も早く他の皆の安否を確認したいところだけど…くっ)
アミュールは奥歯を噛み締める。
そう考えている間にも、木型の『異怪』が数で押し寄せ、彼女達を取り囲んでくる。
「クソ…ッ、どけッ!!」
最小限の範囲で最大限の威力を。アミュールの周囲に落ちる燃えカスの量もだいぶ増えてきたが、それでも彼らの勢いは緩まない。
『異元感知』を封じられていなければ、即座に相手の急所に致命傷を与える事が出来、それこそ燎平達の居場所を突き止め全員回収した後に山ごと焼き払う事も可能ではあるが、出来ない。
後ろに来飛達がいて、燎平たちがどこにいるか不明な以上、広範囲攻撃が使えないのだ。つまり、地道に倒しながら索敵を進めていくしかない。
まるで森全体が敵のような今、来飛と暁を迫り来る『異怪』の手から守りながら燎平達や薫を探す。
この山にある森全体にこの『異怪』の影響が出ている以上、一刻も早く彼らの安全を確保しなければならない。難易度は高く、時間も限られている。
あの事件で生徒達を勝手に巻き込んでしまった責任の重さが、彼女の中の余裕を焦りへと変換させていく。
「…だから、何だってんのよ……ッ!!」
「キィイイィイイイッッ!?!!?」
瞬間、彼女の周りの『異怪』から炎が噴き出した。
「私は、こんなところで立ち止まってる場合じゃないの…!」
常に周囲を索敵をし、後ろの二人に火の粉が降りかからないよう気を配りながら彼女は前に進む。
「……私はもう、あの子達を危険な目に絶対に合わせないって決めたんだからッ!!」
〇〇〇
圧倒されるのは、その存在感。
今抱いてる感情を形容する言葉は数あれど、一番しっくりくるのはやはり恐怖だ。
身体を縛りつけて、震えを止まらなくしているそれ。
首を絞められているかのように感じるそれ。
「ぁ、あ……」
掠れた声が喉から漏れる。
一目見た瞬間、動けなかった。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこの事を言うのだろう。
あの時、あの事件で感じたものと似たようなものがフラッシュバックする。
この世にいない大きさ。この世にいない声。この世にいない形。この世にいない存在。
全てが異形な怪物、化け物。
それが、今目の前にいる『異怪』。
燎平と美紋は、今まさにその『異怪』に囲まれていた。
いや。目に見える周りの木々全てがそれの一部というなら、最早これは体内にいる事と同義かもしれない。
(どうしよう、どうしよう…!!)
逃げなきゃ、という本能が訴えてくるがすぐさま気づく。
どこに?という疑問。
越えられない壁、逃げられない袋小路。
鼠取りのトラップが作動した時のように、ハエトリグサの葉が閉じた時のように、運命が決まっている状態。そう思った。
腕に似た『異怪』の野太い木が、燎平達に向かって伸びてくる。
絶望が、ゆっくりゆっくり伸びてくる。
「い、いや…ッ!」
思わず燎平にしがみつく美紋。
(やばいやばいやばい...っ!)
その彼も、迫る脅威にどうする事も出来ず、ただ震えている事しか出来ない。
どうにかしなきゃとは、思うのだ。
しかし身体が動かない。
何が正解かわからない。もし何か行動を起こしても、失敗したら死ぬという大きすぎるリスクを抱えなければいけない。
こんなの、どうすればいいかなんて知らない。
こんなの、教えてもらってない。
恐怖という足枷が、彼らの行動を更に縛る。
「ッ...!!」
その鋭利なものが正に顔に届こうとし、目を瞑ったその時。
「え...!?」
ポケットが突如熱くなったかと思うと、入れてあったその折り込んである四角い紙がいきなり飛び出したのだ。
それは輝きながら広がり、折り紙の如く空中で組み上がっていく。
「これは…!?」
「あ…アミュールさんの……!」
伸びてきた『異怪』の腕とも呼べる木を切断…否、噛みちぎったのは、朝出発前にアミュールから受け取った“お守り”であった。
あらかじめ『異元』をこめておけば有事の際、自立して戦闘するアミュールの『異跡』、『式紙』。
燎平のお守りは虎、美紋のお守りは大蛇にそれぞれ形を変え、彼らを守護するように前に立ちはだかってくれている。
「す、すごい…!」
『異元展開』しているからこそわかる、アミュールの温かい光のような『異元』が『式紙』達から伝わってくる。
そして、その『式紙』達を敵と認識したのか、『異怪』の雰囲気が変わった。
枝の動きが活発になり、軟体動物の触手のように蠢きだす。
『式紙』達も、『異怪』という脅威を排除すべく戦闘態勢に入る。
「ひ……うわっ!」
そこからは、怒涛の一言であった。
目にも見えないような速さで繰り出される『異怪』の枝の攻撃に『式紙』達がそれを弾き、壊していく。
『異怪』の攻撃を防ぐ度に、ガイン!という紙と木が衝突して出来たとはとても思えない鈍い音が周囲に響いた。
それらと、その反動から来る風圧で感覚的に自分に出来ることは何もないんだと燎平は悟る。
「…!」
背後にいる燎平と美紋を守りながら、全方位から来る攻撃全てに対応するのは流石に『式紙』達でも骨が折れるのだろう。弾かれた『異怪』の攻撃が燎平達の足元に当たる。
「うわ!っぶねぇ…!」
「……ッ」
弾かれたとは言え、自分たちにかすっただけでも相当な事になると、攻撃の勢いで抉れた地面を見て美紋は思う。
それと、先程から『式紙』達の動きが少々鈍くなっているのも気のせいではないのだろう。このままここにいては危ないかもしれない。
唇を少し噛み、意を決した彼女は隣で縮こまっている燎平に声をかけた。
「…い、今のうちに逃げよう!」
「え…っつってもどこに…?」
「わかんないわよ!でもここにいて邪魔するよりマシでしょ!!」
ホラ、あそこ、と『式紙』が攻撃した跡を指差しながら燎平の手を引く美紋。
『異怪』が動かせる部分は常に『異元』が通っており、ウネウネと枝を動かせる。
しかし、ある程度破壊された箇所までは修復出来ないようであった。『式紙』達の攻撃のおかげか、破壊された木々…『異怪』の身体に当たる一部に、先程から動いてない箇所があるのを彼女は見つけていた。
「多分、あそこならもう動かせない筈…いい、燎平。私が合図したらいっせーの、で走るよ」
「え…でも、そんな勝手に」
「いいから!ホラ、いくよ……!」
胸を抑えてふっ、ふっ…と自分の息を落ち着かせながら、『異怪』と『式紙』達の戦闘の隙を見る。
「…今!いっせー、のッ!!走ってッ!!」
『異怪』の意識が進もうとしてる方向の逆に向いたのを、美紋は見逃さなかった。
緊張と不安からか、足元がまだおぼつかない燎平を引っ張り美紋は全力で走る。
その先が見えない暗黒でも、今はそれが最善なのだと信じて必死で彼女らは暗闇を駆けた。
〇〇〇
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「はっ、はぁ、はぁっ、はっ……」
どれくらい走っただろうか。
なりふり構わず、とにかく息が切れるまで全速力で走った気がする。
「はぁ、はぁ...ッは……ここは…」
美紋に手を引っ張られ、足を動かし続けて数分。
気づいたら少し開けた場所に着いていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……ッ、ちょっと、ここで休憩しましょ…」
息を整えながら、近くにある大きい切り株に腰を下ろす美紋。
「さっきの場所と随分離れた気がするけど……ここって、その…大丈夫なのか...?」
心にわだかまっている余裕の無さから、思わず言葉にしてしまう。
「だから、わかんないって言ってるでしょ...でも、何となくここら辺はまだいないかなって思う……燎平はわかんないの?」
「……いや、わからん......」
美紋が普段なら言わないであろう支離滅裂な事を口にするのも、まだ気が抜けていない証拠なのだろうか。
その気が抜けない原因は、美紋は新たに得た感覚に神経を使っているからであった。
『異元展開』をしたおかげか、美紋はどこが『異怪』がいなさそうか、逆にどこが危なそうかという場所が何となくではあるが感覚的にわかってきたのだ。
それが、所謂『異元感知』というもの。
最初の『異怪』の戦闘から離脱する時も、今も、美紋は無意識に『異元感知』によって周囲の情報を獲得していた。
「...美紋……」
忙しなく周囲に気を配り、きょろきょろとあらゆる方向に目線を動かす美紋。
燎平は感覚が分からない分、何かをしている美紋をただじっと見守ることしか出来なかった。
「……とりあえず、先生たちとまず合流しないと...」
「…今、先生達はどこにいるんだろうな……」
「わかんない…けど、ここの近くには誰もいなさそう……」
美紋は使い始めの状態から慣れるべく、『異元感知』の感覚を研ぎ澄ます。
感覚で言えば、ある方向に意識を向けるとボヤーっと何かがいるのがわかるような感じだろう。
美紋が『異元感知』を通じて感じているのは、見えている先の景色全体が白い霧のようなモヤモヤしたものに包まれているようなイメージだった。
その中に少し周りと反応が違ったり動いたりするモヤモヤがあれば、それは危険であるという信号…つまり『異怪』の可能性が高い。
幸いにもこの辺りにそのような気配はないようだが、走ってる時にはチラチラと幾つか反応があった気がする。直感的にそっちには行くな、と本能が告げているようにその反応から逃げながらこの場所に辿り着いたというわけだ。
アミュールのように熟練度が上がればそのモヤモヤもより鮮明になり、範囲も精度も鍛えれば鍛えるほど上がっていくのではあるが。
「…うん。ここら辺は安全そうかな……燎平は大丈夫?どこか怪我とか、疲れたりとか」
「え?あ、ああ…うん、まぁ……平気だけど」
『異元展開』のおかげか、燎平も美紋もそれなりの距離を走っても疲れにくくなってるらしい。
これが『裏側』における精神体の効果…というか、一種の恩赦とも言えるのだろうか。山登りで感じていた疲れもあまりないように思える。
「…ちょっと休憩したらまた行こう。ここで待っててもいいけど、山頂に行けばアミュールさんにも会えるだろうし、他の皆もそこに向かってるかも」
「分かった…」
とにかく今ある不安を取り除きたい、安心したい一心で燎平は首を縦に振った。
(また動くのはちょっと怖いけど…なるべく早く他の人達と合流するに越したことはないよな……)
そう考えながら立ってるより座った方がいいか、とその場に腰を下ろす燎平。
「……ん?」
ふと視線を落とすと、視界に何か違和感がある事に気づく。
「美紋、その足…」
「え…?」
美紋の足が見えない。
見えないというのも、いつの間にか切り株の木が変形し、美紋の足がその幹に埋まっていたのだ。
「なッ…何これ、動けない……ッ!?」
美紋が抵抗し始めた直後、地面から無数の枝が伸び、彼女の身体を絡め取っていく。
よほど『異元感知』に集中していたのか、彼女に近い場所よりも遠くの方を警戒していたようであった。
美紋達の反応が変わったのを節目に、切り株が徐々に形を変え、身体に纏わりつく枝の量も多くなる。
「あ…ッ!?嫌、何これ…ッ!やだ、離してぇ…ッ!!」
「美紋ッ!!?」
静寂の舞台から、一気に音が暴れ回る。
地盤が盛り上がり、割れる轟音と共にそれは姿を現した。
大きな眼球、大きな口。全長は十メートルは悠に越えている。
つい先程見たような『異怪』の、おそらく同系統のものだろう。だが、サイズで言えば一回り大きい。
体躯から十徳ナイフの如く生えている鋭利な枝がついてるのは見たことが無かったし、それが危険度のレベルをより引き上げているのは違いない。
「な、何で…!?ずっと隠れてたってのかよ……ッ!?」
確かに、普通の『異怪』は辺りにいない。
だが、ここの『異怪』は『擬態型』という特殊な種の類だった。
その真価は、擬態することにより自身の姿だけではなく『異元』までもを周りに溶け込ませることが出来るということ。
つまり、『異元感知』による感知が効きにくい。擬態型の高ランクだと、洗練された『異元感知』でも発見に時間がかかるのだ。
「あ…ぐ、いた…っ!」
その『異怪』に宙に持ち上げられ、拘束される美紋。
彼女の様子からして、ただ拘束されてるだけではないと気づく。身体中に絡められているその枝で締め付けられているようであった。
「ぁ……なに、やってんだ…おい……」
(やばい…)
手が震える。
「は、離せよ……お前…美紋を……!」
(まずい、まずいまずいまずい...ッ!!)
違う、震えてる場合じゃない。足を動かせ。
(助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ…...俺が...ッ!!!)
その気持ちとは裏腹に、脳裏に別の言葉が浮かんでくる。
…どうやって?
こうしている間にも、ギリギリと締め付ける力は万力の如く増していくというのに。
「う、嘘…やめて!いた…ぐ、ぁ…!いや…いやあぁ…ッ!!」
彼女の華奢な身体を締め付ける音が、悲痛な叫びに塗り替えられる。
その声が、彼の目を覚まさせる。
(どうやって!?そんなの、関係ない!!)
そう、関係ない。
目の前で、美紋が苦しんでいるのだ。
彼女が痛い、って泣いているのだ。
(動け!動けよッ!!怖がってる場合じゃないんだよッ!!!動け動け動け動け動け動けえええええぇぇええええッッッ!!!!)
「う、ぉ、あぁああああああッ!!」
そう、一歩踏み出そうとした時であった。
「……ッ!!?」
目が合った。
『異怪』と。
「ぁ」
瞬間、自分の中の何かが全部消し飛んだ。
それはつぎはぎだらけの克己心とかだったり、必死に積み上げた蛮勇とかだったり。
大切なものを守りたい、という心でさえも目の前の混沌で少し霞んでしまったのだ。
そして、その動けなかった数秒の間に、ふと。
なにかのおれるおとがした。
「あぁあああああああああああああッッッ!!!!!!いやぁああああああああああああああッッッッ!!!!!!!!」
「あ…」
みると。
「いやぁ…痛いぃ……痛いよ………もう…やめて………」
りょうのうでがだらんとたれて。
「あ……ぁ………」
ふりかえったそのかおは、なみだでぐしゃぐしゃで。
「りょ…へ……」
『ー、ーー』
その時、震える唇で彼女が何て言ったのか、考える前に。
「Ga」
一言、『異怪』が唸った。
「ーーあ」
一回、瞬きをすると。
美紋の左肩から腹部までが切り裂かれていた。




