『The girl needs a mask to cover up the truth』Ⅷ
『ただいま〜』
傘についた水気を落として、玄関の鍵を開ける。
この家に入る事も、最初は場違い感が凄くて少し緊張していたけど、今ではこれもすっかり日常の一部になってしまった。
『…おかえり。今日は早いんだね』
『うん。お見舞い行ってた』
おじさんはいつも通り、リビングのテーブルでパソコンに向かっている。
特段興味もないので具体的に何をしているかは聞かないけど、薫が帰ると大体そこでパソコンを見ているかテレビを見ている事が多い。
『…さっきも電話出なかったけど』
『病院の中だったんだよ、ごめんね』
『あぁ、そっか』
コーヒーを口に含みながら、おじさんは聞いてくる。その声はいつもより少し低かった。
『何か急な用だった?』
『いやね。最近帰り遅いから、心配で』
『なんだ、そんな大丈夫だって。薫のシフト、最近夜遅くまでなの知ってるっしょ?』
『……』
相変わらずおじさんは薫が帰ってきたのに此方を見向きもせず、食い入るようにずっとパソコンを見ている。
心配とか言うならちっとはそれっぽい顔とか声にしなよ、とか思うのは薫だけかな。まぁいいけど。
そんな事より、今日はいい日だからちょっと奮発して前買った取って置きのケーキを食べよう。
おじさんは料理をしないから、食事はいつも出前か外食になる。だから元々中はあまり物が入ってないらしいんだけど、今ではすっかり薫の買ってきたスイーツが四割くらい占領してしまっている。
軽い鼻歌を口ずさみながらお皿とフォークを取り出していると、ようやくおじさんはパソコンから目を離した。
『薫ちゃん、今日は随分嬉しそうだね?何かいいことでもあったの?』
『…えー?そう?』
しまった、少し顔と態度に出ちゃってたか。
まぁ、確かに普段おじさんの前で鼻歌とかは歌ってなかった気がしなくもないかも。
『…んー、別にそんなんじゃないけど』
『ふうん。そっか...』
『多分、もうすぐ五百万貯まるからかな。にひ、次は学費だね』
『なるほどね…そいつは確かにおめでたい』
ケーキを皿に盛り付けて、最近のお気に入りの紅茶ももうすぐ淹れ終わる。仕事が終わった後、これを自分の部屋で食べる事が最近のささやかな楽しみにもなってた。
自分の部屋というのは、元々空いていた和室が薫の部屋として使わせてもらう事になっている。上の方の階だから虫も出ないし、エアコンもあるし何より部屋が広い。部屋が広ければ広いほど心にも余裕がある気がするのは薫だけかな。なんにせよ、おばさんといる時とは比べ物にならない環境だった。
大方準備を終えて、それを食べながら貰った手紙と写真をもう一回見ようといざ部屋に持って行こうすると、おじさんに呼び止められる。
『あ、そうそう。薫ちゃん、おじさんちょっと前から言おうと思ってたことあってさ』
唐突に肩を掴まれて、振り返った。
おじさんは予め用意していたかのように、薫にスマホの画面を見せてくる。
『…これ、どういう事?』
そこには、薫と贔屓にしてるお客さんとのチャット履歴のスクリーンショットがあった。
『な…!』
思わず絶句する。何でこんなもの持ってるのっていう不快感と、やべっていう焦燥感が同時に湧き上がる。
『散々言ってたよね?こういうの駄目だって』
『…人のスマホ勝手に見たの?そういうの、ダメだと思うんだけど』
『うん。でも、今ダメな事してるのは薫ちゃんの方だよね?』
『.........』
うわー、めんどくせー。
前々から、言われていた事だった。他の男には近寄るな、と。相手から寄ってきたり、何かあればすぐに言ってくれとも言われていた。
それがおじさんの独占欲から来ている事は明らかだ。お店で働くのも、テクを磨いてもっとおじさんを喜ばせるようにってお酒入ってる時にちらっと聞いた気がするし。
だから、一番稼げても本番アリのソープは行かせてくれなかったんだと思う。単にコネがなかったってのもあるかもしれないけど。
取り敢えず、機嫌を直す為に仕方なく近寄って体を触る。
『あぁ…はいはい。相手してあげるからそう怒んないでよ、修ちゃん』
『そういう問題じゃないんだよ!!これは!!』
おじさんはすごい剣幕で、薫の手を振り解いた。いつもならこの流れで薫のペースに持ってけるのに、今日は随分と余裕がないように見える。
というか割とガチのやつじゃんこれ。どうしよ。
前々からそういう節はあったのだけど、今日のは一際でかそうだった。
『何で何も言ってくれないんだ、お金なら僕が出すって言っているだろう!?ちゃんと優しく接してもいるじゃないか!一体何が不満なんだ!僕が薫ちゃんに何かしたのか!?』
…何かしてしかないとか、こっちこそそういう問題じゃないというか、言いたい事は沢山あるし突っ込みたいけど、またそれが話をややこしくしそうなので口をつぐんでおく。
だけど、それもおじさんにとっては逆効果らしかった。
『…それでも何も言ってくれないのか!!見ろ、僕に内緒でこんなやりとりして…!これはもう言い逃れ出来ないぞッ!!またそうやって僕を見捨てるのか!?お前もッ!!!』
…薫が何か言ったら言ったで何かとぐちぐち言ってくる癖に。
こう言うのは、もう取り敢えずおっぱいでも吸わせておきゃあ静まるとみた。まぁその手段が何であれ、落ち着くために口論以外の事をするクールタイムは必要だろう。
とにかくおじさんに借金がある手前、面倒事はなるべく避けたい。少しでもお金を節約しておきたいし、何よりここで関係がヤバくなったら今までの苦労が水の泡だ。
『まぁ…これは、違うじゃん。ごめんごめん、たまたまだって。ここじゃ何だからさ。ほら、ベッド行こ?そこで話そ?』
いつものように服を引っ張り、腕を絡ませて寝床へ誘導する。
だけど、おじさんは俯いてぶつぶつと呟いた後、鋭い目つきで薫を睨みつけてきた。
『クソビッチが…こう言っておけば僕が宥められると思っているのか…!?大体な、こっちはお前の弟の入院費医療費その他諸々払ってんの忘れてないだろうな!!』
『……』
…これには流石に、カチンときた。このおっさん、こっちが下手に出てりゃあ好き放題言いやがって。
元々、たまに考えてたんだ。自分で稼げる手段がある手前、もうこの人いらなくない?って。
もうすぐ五百万も稼ぎ終わる。稼ぎ切ったらこの話も切り出そうかと持ってたけど、もう薫も限界だった。
『…それとこれとは関係ないでしょ……?』
『なに…?』
堪忍袋の尾が切れたって言うのはこの事だろうと、熱が上がった頭の隅で考える。こっちの方も、日頃から溜まっていたストレスが爆発した。
『そもそも、それはおじさんに薫が五百万払えば済む話じゃん!そんな払ってるからって何でも束縛されたらこっちだって窮屈だっての!そうやって、お金で脅迫とかされたら嫌にもなるよ!!』
『そんなもの、後づけの理由だ!前々から僕は口が酸っぱくなるほど言ってただろ!!』
『後づけはそっちでしょ!最初におじさんが色々ぼかすのが悪いんじゃん!あの日ヤった後から男に近づくなだの、日が変わる前には帰ってこいだの、金を使う前には連絡入れろだの、色々条件付け足してさ!そんなの、薫言う事聞くしかなくなって全然自由じゃなかったから!だからこういう事になるんだよ!!』
『じゃあ何でそう言ってくれないんだよ!!何かあれば言えっていつも言ってるだろう!?』
『こんなの気軽に言えてたら苦労しないし、普通気づくでしょ!!薫も嫌っていうサインいっぱい出してたのにそれに気づいてないか無視してたからじゃん!!もっと薫を気にかけてれば薫もこういう事しなかったかもね!!』
薫の事を見ているようで、全く見てくれてない。薫の利益は考えてくれたけど、薫自身の事は頭からすっぽり抜け落ちてるのが目に見えるほど分かり易かった。
その懇意が紙ほど薄っぺらいものでなければ話は違ったかもしれない。そういう事だ。
『…ッ、うるさい!!黙れぇ!!!』
『あうっ!?』
自分にも責があると自覚したのか、何も言えなくなった代わりにおじさんは薫を勢い良くソファに突き飛ばし、押し倒す。
そして逃げ場のないようにその巨体で覆い被さられて、太い手で首を絞められた。
『っぐ...、うぁ...ッ』
『…じゃあ返せよ。金返せ!五百万以外に、僕がお前に使った金全部ッ!!』
『だから、薫は…アンタのモノじゃな……ッ、ぁ…!!』
薫の小さい身体じゃおじさんに力で敵うはずがない。対しておじさんの方は、薫がいくら抵抗しようと捻じ伏せるのは簡単だろう。
それを証明するかのように、おじさんが少し手に力を入れるだけで薫の細い首はいとも簡単に締まってしまう。
『うるさい…!!女はな、こうやって躾とかないといつも裏切るんだよ!!大体金をちらつかせないと寄ってこないクソ共なんざ、僕の愛を受けてるだけで光栄に思わなきゃ駄目なんだよ…ッ!!』
おじさんもおじさんでストレスが溜まっているのか、最近行為がやや乱暴になりつつある。
この前も似たような事を流れでされて、ちょっと意識が飛びかけた。
このままこれを続けてたら、いつかは楽になれるのかなぁ...なんて、しょうもない事を考えてた時期もあった。
(……………)
自分がどんどんダメになっていく感覚。きっと、いつの間にか心の大事な部分が錆びて、そのどこかが壊れてしまったのだろう。
最初は親切に見えたおじさんも、最近はどこかそっけない態度を隠すことをしなくなった。
薫の反応が薄くなったのが先か、おじさんの変化に気づいたのが先か、どっちが先かなんてのはもう今となっては些細な事。
(…何で、こうなっちゃったんだっけ……)
たまに、未だにシゲの夢を見る。
シゲと一緒にいたあの時は、何もかもが輝いていた。
お金は手に入ってなかったけど、全部が充実してるとは言えなかったけど。
やるべきことがあって、それにまっすぐ進んで行ってるような気がした。
勿論、今もそれは変わらないけど。でも。
まだ十五歳なのに水商売をして、媚びを売るために剥がれにくくなるほど笑顔を作って。
お金は稼げているし生活も出来ているけど、あの時と比べて、それが本当に正しい道を進んでいるかどうかは、わからなかった。
…思えば、薫は無意識に罰を求めているのかも知れない。
乱暴にされる事で、生まれる罪悪感を少しでもかき消す為に。
法を外れた道で稼いだお金で、自らの身体と心を犠牲にしたお金で救われた風斗は果たして喜んでくれるのか、という懸念を振り払う為に。
(ほんっと…何してんだろうな……私)
死ぬほど自分が嫌になる瞬間は、もうこれで何度目だろう。
もう、全部諦めてしまおうか。もう頑張らなくていいその方がきっと、楽だろう。
そう、思った瞬間だった。
(…!)
ぼやけた視界に、薫の鞄が入る。
その手提げの鞄の中から、まるで何かを主張するように封筒が顔を出しているのが見えた。
(あ…)
シゲの手紙と写真を通して、今日久しぶりにあの時の記憶と向き合った。
あの過去は、今の薫じゃ思い出す事すらおこがましかったから、忘れようと、見ないようにしていたから。
...でも。
(風斗...!シゲ…!!)
思い出した。
いや、気付かされたんだ。
もう今の現状に慣れて、これしか道がなかったんだって言い訳してた昨日までの薫とは違う。
このまま、ただ思うがままにやられっぱなしでいいのか。
お金を貰う為に、言う事を聞いて何も言わずにただ身体を貸す事に慣れたままでいいのか。
これが、薫が本当にしたかった事なのか。
(…違う)
違うはずだ。
気づけばおじさんと駅で会ったあの時から、置いていかれた寂しさから仕方なかったんだって、やけになってダメになる事に目を背け続けてきた。
…いや、やけになってたのはパパとママがいなくなった後からかもしれない。
多分その時から、薫は諦めて、人に頼ることしか出来ない『弱い薫』になったんだんだと思う。
(薫は...!)
『ホラァ!男を受け入れるしか脳がないクソビッチがよ!!これがいいんだろ!?いつもみたいにもっとおねだりしてみろよ!!なぁッッ!!!』
(薫は…ッ!!)
『痛っ!??』
口の中に血の味が広がる。
それは、薫の口内に入ってくるおじさんの親指を思いっきり噛んだからだった。
『ぐ、な、何を…ッ!!』
痛みで退けそったおじさんから逃れて、何とか立ち上がる薫。
困惑している彼の目を真っ直ぐ見る事ができた。
『ッハァ、ハァ…ッ、ゲホッ、ケホ...ハァ。ッ、今度から、お金は自分で払う。ハァ…わかるよ、その、今までアンタを裏切ってきた女の気持ちが』
今までの薫なら言えなかった事だけど、今ならはっきりと口に出せる。
『逆に、アンタみたいなどうしようもないこのクソ粗チン包茎野郎はこっちから願い下げだってね!!』
『………………………………』
おじさんの、目の色が変わった。
『…薫ちゃん。薫ちゃんはまだ若いから、大丈夫。本格的に僕がちゃんと躾ければ、きちんと僕の言う事を聞くようになる。今は…そうだね。ちょっと、精神が不安定な時期だからだ。うん。思春期の女の子だからね、これは仕方ない、うん』
ゆっくりと、距離を縮めてくる。
このままここにいれば、薫は無事じゃ済まないかも知れない。
『わかるまで、何度でも優しいおじさんは言ってあげるよ。いいかい、薫ちゃんが今こうしていられるのはね、全部おじさんのおかげなんだ。そんな恩人に向かって、そんな事を言っていいのかな?ん?もう一回、よーく、自分の頭で考えてごらん?』
『………』
確かに、自分で金を稼げるようになった、それは間違いなくこのおじさんのおかげだ。
だから、今まで多少目を瞑ってきた。これも風斗の為だって自分に嘘をつき続けてきた。
『さ、賢い薫ちゃんなら分かる筈だ。今、おじさんに、まず最初に言わなきゃいけない事はなんだい…?』
だけど、今日シゲに教わった。あの時の薫はもっと違ったって。もっと幸せな自分があるんだって。
今まで親を亡くして、友達を無くして、この気弱で、いつも下を向いてる薫こそが本当の薫だと思ってた。
確かにそれも本当の薫。それは間違いない。
でも、薫はもっと別の薫がいるはずだ。『私』じゃなくて、何もかもが楽しくて、輝いてた『薫』が。悲劇に遭う前の薫が、シゲと一緒にいたあの時の薫が。
隠す自分を間違えるな。もう隠すのは、弱い自分だけでいい。
薫は本心を、やりたい事を覆い隠す為に仮面を被ったんじゃない…ッ!!
だから、今は、
『これ以上、薫に近づくなぁあああああああッ!!!!』
身体の中に生まれた熱が、波となって身体を巡る。
想いと決意が乗った渾身のその叫びは、おじさんを部屋の奥へと吹き飛ばした。
『な、なん...おわあああああッ!?!?』
派手な音を立てて、部屋の中を転がっていく。
何が起こったのかわからないまま、薫は身体の力が抜けてへなへなと床へ座り込んだ。
『なッ...!?馬鹿な、『異跡』!?何でこのガキが……ッ!?』
荒れた呼吸を整えようと、肺が必死に酸素を必要としているのがわかる。
突き飛ばしたわけでもないのに、吹き飛んだおじさん。おじさんほどの大きい身体を吹き飛ばすエネルギーがどこから来ているのかとか、自分が今何かしたのか。
そういう事を考えるよりも先に、薫の意識は全く別の事に持っていかれていた。
『…縺ェ繧薙□……蠕悟ー代@縺ョ謇?縺ァ………』
おじさんの、その背後。
薫の不思議な力は、彼の後ろにいる化け物も一緒に吹き飛ばしていた。
『え...な、何…あれ……!?』
『あ!?なんじゃこりゃ!!何でこんな所に『異怪』がいるんだよ!?オイ、『修復者』の馬鹿共は何やってんだ!!!』
薫の視線でおじさんもその化け物に気づいたかと思えば、突然訳のわからない事を叫びだす。おじさんは、あの化け物の事を知っているのかな。
それは、一目見たらゴリラに近い印象だった。
でも、薫の知ってるゴリラとはとても違う。だってその肌は薄紫で、下半身がない代わりに上半身だけが宙に浮いているから。
それに肩についている不恰好で巨大な両腕の他に、もう一つ胸の真ん中に少し小さいサイズの腕があるし、三つあるのは腕だけじゃなくて目もで、口が縦と横に裂けているのも気持ち悪い。
起きてる事や、何でこんな化け物がいるのかとかは分からなかったけど、直感で、今この場にいるのはヤバいって事だけはわかった。
逃げなきゃ、と思っても何故か全く身体に力が入らない。
視界もなんだかぼやけてくる先で、吹き飛ばされた時に腰を強くぶつけたのか、動けないでいるおじさんにその化け物が襲いかかるのが見えた。
『畜生、畜生!こんな所で、オイッ!来るなッ!!う、うわあああああッッ!!!』
短い間に、あまりに多くの出来事が起こっている。
薫が何もわからず翻弄されていた、その時であった。
『止 ま れ !』
一喝。
瞬間、時が止まったかのように、目に見えるもの全てが静止した。
たった二人、この部屋に入ってくる人達を除いて。
『アミュール、その子は任せたぞ』
『はい!』
背が低くて太ってる、ダルマみたいなおじいさん…いや、まだおじさんか。それと、神社にいる人みたいな服を着ている綺麗なお姉さん。
この何もかもが異常な状況の中で、まるでそれが普通であるかのように、すべき事が全てわかっているかのように、その二人は迷いなく行動していた。
おじさんとその化け物はピクリとも動いてないけど、薫は問題なく動けるっぽい。身体は突っ伏したままだけど、その動かせる口で言った。
『あ、あなた達は…』
『ん?私たちは『修復者』。貴女の不条理を修復しに来た……って、そう言われてもわかんないよね。大丈夫、貴女の味方よ。私たちは、怪物から貴女を助けに来たの』
裸の薫に、どこからか飛んできた紙が張り付いていく。
驚きの連続で、正直もう何が何だか分からなかったけど、薫に張り付いたその紙は、女の人の言葉や表情と同じようにとても温かかった。
『怖い思いをさせてしまった。…済まない』
『今までよく頑張ったね。…もう、大丈夫だから』




