『The girl needs a mask to cover up the truth』Ⅵ
街を照らす光が、やたらと五月蠅く感じる。今は、とにかく何もかもに嫌気がさしていた。
道ゆく人たちの幸せな顔ぶれが目障り。何も考えてなさそうな話ごえや雑音が耳障り。もうお腹いっぱいなのに、やたらとそこら中から匂う食べ物の香りが鼻障り。……鼻障りって単語があったかは、わからないけど。
だけど、今薫が何より気に触ってのは、隣を歩いてるこの人だった。
『いやぁ、美味しかっねぇ〜。もっと時間が早かったらもっといいとこ連れて行けてたんだけど…ごめんね?』
『……いえ…』
夜も更けきってるこの時間に薫たちがあの後向かったのは居酒屋っぽいところだったけど、ちょっといい所らしかった。完全な個室で、話をするのはもってこいの場所。
その間におじさんからシゲの事に関して、薫が聞き出せた情報は三つ。
まず第一に、このおじさん、草井修はシゲ…松坂茂に近しい関係ではないということ。だから詳しくはわからないという話。
それはそうだ。もしシゲの方が知り合いって気づいたら、薫がシゲに初めてあった時の、いかにも初対面っていうあの反応にはならない。
第二に、シゲを知った過程。これは店に入る前にもちょこっと聞いたけど、おじさんが若い頃警察の学校で何回か顔を合わせた事があるらしい。というのも、シゲの方が有名人だったという話だ。
同時に、おじさんが若い頃って言うと、シゲも年齢を偽っていたと言うことになる。外見は確かに言われれば若く見えなくもなかったけど、髭もあったし二十代はちょっと無理がある。
そして第三に、シゲの居場所までは分からないということ。
おじさんが言うには、おそらくその警察絡みらしい。でも、流石にどこに向かったかは検討がつかないらしい。一応知り合いに聞くだけ聞いてみるから、連絡が来たらラッキー程度で考えて欲しいって事だった。
...まぁ、完全に途絶えたシゲの行き先がわかる確率が少しでもあるならとやかく言えないけど。
他には、薫の話をした。と言うか、薫の話をしたからおじさんはシゲの情報を交換してくれたんだけどね。
あの後シゲとどうしたかとか、なんで今日夜一人だったのとか。
家族の話もした。話したくなかったけど、それ無しには話せなかったから。
『…ところで薫ちゃん、この後はどうするの?』
『……』
お腹が膨れたのは良いけれど、薫が期待してた本当に欲しい情報ってのは手に入らなかった。
それなら、もう薫がこのおじさんと一緒にいる理由はない。
『……帰ります』
『…うん。それは良いんだけど…どこに?』
『それは……』
そもそも、一人でどこかに泊まるなんて、思えば今まで一回もやったことがなかった。
おばさんの所にだけは…もう、帰りたくないし。どうすればいいかとか、正直ちょっと分からない。
取り敢えず、スマホのマップを出して近場で泊まれる所を検索してみる。
『…………』
近場にあるネットカフェが、ここから三駅離れたとこしかなかった。
ホテルならこの辺りにに幾つかあるけど、限られてるお金はなるべく使いたくないし、それにただでさえ幼く見える薫が高校生や大人のフリをして誤魔化せるとは思えない。
『あー、ここの近くネカフェないもんねぇ。駅ももう閉まってるし』
おじさんが薫のスマホを覗き込んでくる。ちょっと距離が近かったのが不快だった。
『あ、そうだ。おじさん、この近くで安く済むとこ知ってるよ』
『……結構です』
謹んでお断りする。こういうのは、なるべく早く離れた方がいいと直感が叫んでいた。
『……んー、まぁいいんだけどさ。でも薫ちゃん、あの人の居場所早く知りたいんでしょ?なるべくおじさんと一緒にいた方が良くない?』
『連絡先交換したじゃないですか。メールで教えてください』
『それでもいいけど…それ、電源まずいんじゃない?ネカフェも宿も行かないんじゃどこで充電するの?』
…確かに。さっきのお店で充電しておけば良かった。
『それにさぁ、早くシャワー浴びたいでしょ?それともその服のまま寝る?』
薫の服は昼間から走ってたせいか汗で濡れて、くたくたになってた。我慢出来なくはないけど、服を着替えて汗と汚れを落としたいのはある。
『…どこですか』
『それは着いてからのお楽しみだよ』
『……』
かなり怪しいけど、他に選択肢がないのも事実だった。
『まぁ見るだけ見てってよ。どうするか決めるのはそれからでもいいでしょ?』
〇〇〇
駅前から歩いて十数分。
言われて着いたのは、薫が見上げると首が痛くなるくらい大きなマンション。シゲのボロいアパートとは比べ物にならなかった。
『ここって…』
『そう、おじさんの家だよ』
『家って…それ、聞いてないんですけど』
『え?じゃあなんだと思って来たの?』
『そりゃあ…中学生でも泊まれる穴場の宿とか、旅館とか…』
『はは、薫ちゃんは案外ロマンチストなんだねぇ』
…何それ。あえてぼかしたのはそっちの癖に。
考えてみれば、こっちの方面に宿があるとか聞いた事がない。少しだけ期待してた自分が馬鹿だった。
『……帰ります』
『え?嫌なの?おじさんの家。広いのに。無料だし。もう目の前だよ?』
『……流石に家は、ちょっと』
いくら特別な事情があるとはいえ、ほぼ初対面の男の家に上がり込むのはまずい気がする。
それでは失礼します、と言って踵を返す。
『薫ちゃんの弟…風斗君の件、おじさんなら手伝ってあげられるかも知れない』
『...…』
もう多少なに言われようと足を止めないつもりでいたけど。
流石に、これは無視できなかった。
『…手伝うって、どういうことですか?』
『ん?そのまんまの意味だよ?薫ちゃん、お金が必要なんだろ?』
……答えになってない。
またいい感じにぼかしてくるのが何とも気に触るというか、もどかしい。
『これ以上は話長くなる。おじさん冷え性でね。家を目の前にしてこんなところでぐだぐだ喋ってられないんだよ。だからおじさんはもう家帰るけど…薫ちゃんはどうする?話、聞くかい?』
『...明日じゃ駄目なんですか』
『明日はおじさんまた終電まで仕事だからなぁ。朝と昼も用事あるし。薫ちゃんがいいならいいけど、また今日みたいになるよ』
『…………』
風斗の件。
病院にいる風斗の容体は今は安定してるけど、いつまた急変するか分からない状態にあるらしい。
もしまた手術が必要になったら、その分またお金もかかる。それに、入院する期間だって必然的に伸ばさなきゃいけない。
元々子供がいないおばさんにとって、風斗の医療費用と薫の学費と生活費はパパとママの遺産を使っても大ダメージだったらしく、支払うときも相当渋ってたって聞いた。
さらにこれ以上増えると分かったら、払ってくれるかどうかわからない。高校を卒業したら薫に働いて金を返せって言うくらいだからね。
シゲの事もある。おじさんが何を手伝ってくれるかは曖昧のままだけど、話を聞くのも手かも知れない。
それに、これを逃したら薫はこの寒い中公園のベンチが今日のベッドになりかねない。
『薫ゃんも疲れてるんだろ?外は寒いし、早く休んだほうがいいよ、ね?』
『……………』
〇〇〇
『……シャワーありがとうございました』
『あぁ、ごめんね。替えがそれしか無くて。サイズは合ってないけど、着心地は大丈夫そうかな?』
『……』
シャワーを使う前、着替えの代わりに渡されたのはぶかぶかのシャツ一枚。
特にズボンは全部サイズが合わないんだろう。確かに、そのお腹のサイズは薫には大き過ぎる。
結局着る物がそれしかないから、今日つけてた下着の上から仕方なくそれに袖を通していた。
薫用の替えがあったらそれはそれでキモいけど、これもこれで中々に厳しい。
『寒かったら言ってね。暖房の温度上げるからさ』
『…ありがとうございます』
おじさんは、広いリビングある高そうなソファーに座っていた。
部屋はその人の鏡とは言うけれど、おじさんの家にはみんな高そうなものしかない。
家具も一つ一つが安物ではない感じがあって、テレビも大きい。カーペットもふかふかで汚れひとつないし、照明や部屋の脇に置いてある水槽、家具の間取りだったりが余計に場の雰囲気を出してる気がする。
『薫ちゃん?どうしたの、ほら。おいでよ』
『.........』
少し間を開けて隣に座る。
今まで狭い所にいたせいか、こんな場所にいるのが慣れてないせいか、妙に落ち着かなかった。
『じゃ、もう夜も遅いし、さっさと本題に入ろうか』
時計を見ると、もう二時を回っていた。
身体も温まってお腹もいっぱいで疲れてるから眠気がすごいけど、皮膚をつねって何とか意識を保つ。
『あ、最初に言っておくけどやっぱり松坂茂の方は諦めたほうがいいね。うん』
『…!?』
突然、手のひらを返された。
風斗の事は勿論だとして、その事も連絡があれば教えてくれるって言ってたのに…!
『なんで…!』
『まず連絡が来ないからだよ。あの人几帳面って言ってたろ?そんな徹底してる人がわざわざ情報を残していくかなぁ。正直、もう追いかけるのは相当厳しいだろうね』
『……ッ』
確かにシゲなら、そういうのはなるべく早く消すと思う。
思い返してみれば、今日の朝から薫を追い付かせないようにしてたのがわかる。
もしかしたらこれは、前々から計画されたものだったのかも知れない。最初から本名とかの個人情報を教えてくれなかったのも、部屋の物が必要最低限しかなかったのも、宿に車で来たのも薫に撮影用の靴を履かせたのも……全部。
おじさんは、目を覚ませと言わんばかりに黙ってる薫の肩に手を置いた。
『見失わないでよ薫ちゃん。薫ちゃんの本当にしたい事は何?』
薫の、本当にしたい事。
『風斗…』
風斗の安全を確保すること。
今まではおばさんに任せることしか出来なかったけど、もし容体が急変してまた手術をする事になっても大丈夫なように、医療費を稼いでおかなきゃとは思ってた。
『そう。そこは間違っちゃあいけない。風斗君の医療費用を自分で稼げれば、あのおばさんからも自由になれるし、薫ちゃんだって生きやすくなる』
言ってることは、合ってる。
『だったらちゃんと見るべきものに目を向けるんだ。薫ちゃんのすべき事は、まずお金を稼ぐ事。シゲって奴を追いかける事じゃあない』
……そうだ。
シゲは、またいつか、どこかで会えるかも知れない。
だけど、風斗は。
『………ッ』
そう。風斗を助けてあげられるのは私しかいない。
もう、大切な人を失いたくない。
置いていきたく、ない。
甘えてちゃダメだったんだ。おばさんにも、シゲにも。
頭の中にあるぐちゃぐちゃにこんがらがってた糸が、おじさんの言葉によって一つ一つ結び目が解けていくようだった。
『それに、薫ちゃんは五百万のお金が必要。しかもそれを自分一人で稼がなきゃいけないんだろう?』
『……そうです』
『前も言ってた通り、おじさんは稼ぐ方法を知ってる。稼げる奴ってのは知ってる奴なんだよ。稼げる方法を知っているから、おじさんはお金を沢山持ってる。薫ちゃんでも、その方法さえ知ればすぐに五百万なんて稼げるさ。嘘じゃないよ?』
おじさんの言ってることは、今までどれも全部的を得ていたものだった。
この高級感溢れる部屋も、お金を稼いだからだろう。お金を沢山持っているのは、それだけ成功した証という事だ。
その彼が、言うのだから聞くだけ聞いておいて間違いはない。
『それは…?』
『んー、知りたい?』
『…知りたいです』
『よしわかった。じゃあ教えてあげる。あ、でもちょっとその前に』
おじさんは手をかざして薫を制す。
だけど、その五本の指が別の意味を指している事に薫は気づかなかった。
『…ここで提案なんだけど、おじさんが薫ちゃんの五百万を払っちゃうってのはどうかな?』
『な…っ!?』
耳を疑った。
五百万を払う…?おじさんが代わりに…?
『おじさん、お金だけは人よりあるからね。五百万は、ぶっちゃけすぐに出せない金額でもないんだ』
『…!!』
どうやら、聞き間違いではないらしい。
薫が混乱している間にも、おじさんの話は進んでいく。
『それにおじさんが払えばおじさんに返すだけでいい。つまり、あのおばさんとはもう縁が切れる。そうすれば高校を出てすぐに働かなくてもいい、薫ちゃんの好きなことができるんだ』
…そう。
もしも、もしも仮におじさんが今この場で薫のために五百万を肩代わりしてくれるんだったら、そうなる。
本当の意味でおばさんの所にもういなくても風斗に影響はないし、高校出てから働くんだと思ってた薫だって大学に行ける。
『それで、こういうのはどうだろう。ちょっとずつ働いて返すってのは』
『……』
…確かにその方が薫としては生きやすいと思う。
ここにきた時は、こんな風に薫の生き方まで決まってくるって思ってなかった。
そんな規模の話になると、薫の方からも色々と聞きたいことが出てくる。
『あの…高校は』
『高校は、行きたいかもしれないけど我慢だ。おじさんが紹介する所はバイトじゃ雇ってくれなくてね。なに、大丈夫。高校なんか行かなくても大学は行けるし、今働けばその大学の学費だって自分で稼げるんだよ?』
…そうだった。どっちみち高校に行っても大学に入るためのお金の問題がある。
またおじさんに払ってもらう…というのは、流石に避けたい。
それに、高校、大学と進んでそれから就職ってなると、時間がかかりすぎる。その間に風斗に何かある可能性も捨てきれない。
どっちみち、今働いた方がいいって事か。
薫が考え込んでいると、おじさんはどこからか封筒を取ってきて、渡してきた。
『薫ちゃん。ここに、十万入ってる。これをおじさんが五百万払えるって事の証明と、初期投資として薫ちゃんにあげよう。これは今から薫ちゃんのものだよ』
『え…そんな』
急に手渡される大金に、目が眩みそうになる。こんなに沢山、初めて見た。
『あ、好きなところに置いていいよ。鞄に入れたかったらおじさんが取ってきてあげる』
『……こんな、貰えません』
いきなりの事で戸惑ったけど、こういうのは…なんか。やっぱ遠慮しちゃうというか。
欲しいのは変わりないんだけど。薫何もしてないのにこんないいの、ってなる。
『貰えない?本当にいいの?欲しいんだろ?必要なんだろう?それでも要らないって言うなら返して貰うけど』
『…………』
『じゃあ貰っちゃいなよ。言っただろう、初期投資だって。薫ちゃんに期待してるんだからさ、おじさんは。これから頑張って稼いで、ゆっくり返してくれればいいから』
『…わかり、ました』
これだけ貰えれば、確かにちょっと心の余裕が出来る。きっと色々と、やれる事も増えてくるだろう。
持ってきて貰った鞄に薫がお金をしまっていると、おじさんはさっきより少し近くに座っていた。
『…にしても、おじさん嬉しいなぁ。薫ちゃんが来てくれてさ。今日は一人で寂しい想いしなくて済むね』
『一人…?』
そういえば、おじさんはここに一人で暮らしてるんだろうか。他の人が一緒に暮らしてる痕跡は今のところ見当たらないけど。
『おじさんこんなだから、昔の嫁さんもお金だけ取られて逃げられちゃった。それからずっとひとりぼっちだったからね…』
そうだったんだ。
おじさんも、ひとりぼっち…。
『それって、どれくらい…?』
『うーん、もう十数年かなぁ』
『…!』
って事は、薫が生きてきた年と同じくらいずっとこの人は一人ぼっちだったんだ。
それは、どれだけ。
『ほんと、良かったなぁ……』
『…ッ!?』
突然、左肩に違和感を感じる。
見るとおじさんはすぐ隣に移動してきていて、薫の肩に手を回していた。
『あ、あの…』
『ん?』
何も知らないといった顔で、薫の肩を触り続ける。
『……いえ』
嫌だったけど、口をつぐんだ。
今日はおじさんのおかげでご飯も食べれたし、シャワーも浴びれたし、無料で屋根がある所に泊まれる。
お金は少しでも節約しないとだし、それに、薫は一人ぼっちの辛さを知ってる。
おじさんもずっと寂しかったんだ。
だから、これくらいなら…我慢できる……。
『…それで、薫はどうすればいいんですか』
迫ってくる嫌な予感を頭の隅に追いやって、尋ねる。
すると、おじさんは笑みを横に広げて、薫を身体がくっつくかってくらい抱き寄せてきた。
『いやぁ、おじさんもね。ただで泊めてあげたり、お金をあげたり、稼ぎ方を教えてあげたり、借金を肩代わりしようとする訳にもいかなくてね』
おじさんは指を折って、見せつけるように丁寧に数えていく。
『お金はいいんだ。五百万も、返すのは後ででいい』
『……えっと』
よく要領が掴めない。
『薫ちゃんみたいに若い、特に女の子が働いて沢山のお金を稼ぐなんて無理な話だ。でもね、おじさんは知ってるんだ。知ってるからこそ、こうして薫ちゃんに教えてあげられる』
その予感が確信に変わる前に、事は起こる。
『薫ちゃん。こっちを向いてごらん』
気づけばおじさんの体がすぐそこにあって、これが自然の流れかのように薫は両腕の中に納められてた。
『い…嫌ぁっ!!』
あまりの出来事に思わず叫ぶ。
幸い力はそんなに強くなかったからか、抵抗したらすぐに抜け出せる事ができた。
『………?』
薫に対して、おじさんはただ純粋に驚いていた。
『な、何するんですか…っ!』
『…これ?これからおじさんが勧める仕事のデモンストレーションなんだけど……』
意味がわからないのはこっちの方なのに、おじさんは首を傾げてキョトンとしている。
『…それとも何?こういうの今更嫌なの?あの人とは散々やってただろうに』
『…ち、違う!シゲとはそういうんじゃないから…!』
……変な事、言わないでほしい…!
確かに大事に想ってる人だけど、こういう事をしたいとかはまた別だから…!
『またまた。薫ちゃんもお金とそれ目的であの人の所にいたんでしょ。残念だったねぇ』
『違う!!!』
今度こそ、はっきり言う。それだけは違うと、声を大きくして叫ぶ。
何も知らないくせに、人の思い出に土足で上がってくるな。自分の勝手な思い込みで私を語るな。
『本当に……ないから。そういうの…』
『ふぅん…』
聞いてるのか聞いていないのか、懲りもせず薫の身体を撫でるように触ってくる。
さっきまで薫と同じなのかな、って少しだけ同情してたのに、怒りと不快感がそれを跡形もなく吹き飛ばしてしまった。
『やめて…やめてください、それ』
『じゃあ、こう言うのも初めてなの?』
『……ッ!やめてって言ってるでしょ!!』
胸に伸びてくる手を反射的に払う。
おじさんは少しだけ弾かれた自分の手を眺めて、目を細めた。
『ひどいなぁ。酷いよ。痛い。今のでぶつけてしまった』
『………』
両腕で身体を抱きしめるようにしておじさんから距離をとる。
『薫ちゃん。こういう事が自然に出来ないとお仕事にならないんだよ』
そんな事言われたって、薫知らない。
今までそういうことをするだろう恋人とか出来た事ないし、なんなら家族や友達以外で抱きつかれたのも初めてだ。
さっきからぼんやりとだけしかおじさんの言いたいことがわからなかったけど、今ならなんとなくわかる。
『そ、その商売って……』
『?水商売だよ。風俗。エッチな事する所。知らない?』
『…………ッ』
......やっぱり。
噂くらいしか聞いたことなかったけど、ほんとにあるんだ。そういうの。
途中から、薄々そうなんじゃないかって勘づいてはいた。
でも本当に薫のことを案じて親切にしてくれてたならそれは失礼だし、もしかしたら違うかもって思ってたけど。
『………………』
…でも、薫が稼ぐには。
話を聞いて、薫のしたい事をするにはそれしかないのかも、って思えてきたのもある。
そんな考えが頭をよぎるのを拒むように、薫の口は動く。
『で、でも…薫まだ……十五歳だし……そういうのって…』
『だから、|知ってるって言ったろう《・・・・・・・・・・・》。《今の薫ちゃん》が《今すぐ》稼げる方法ってなると限られてくるからね。この商売は短期間で馬鹿みたいにお金が入ってくる。稼ぐ人は一ヶ月で何百万だ。一人で生きてくんだったら、薫ちゃんはあとどれくらい稼がなきゃいけない?』
薫が答えを出す前に、おじさんが被せるように言葉を吐く。
『家賃、食費、生活費に加えて五百万と学費。全部合わせたら一千万を優に超える。この普通の社会人が何年も汗水流して働いて稼ぐような大金を、早く見積もってたった一年、薫ちゃんが頑張ればもしかしたらそれより早く稼げるかも知れない』
薫の考えが纏まる前に、次々と言葉の弾丸が降り注ぐ。
『勿論、おじさんも手助けするよ。おじさんと一緒にいる間は、薫ちゃんが出す出費はゼロになる。稼いだ分、全部貯金出来るんだ。長い人生の中でたった一年で、自由になれるんだよ?たった一年で、薫ちゃんが背負ってる重い荷物を全部下ろせるんだよ?』
『………』
『...普通は出来ない事だからおじさんの話は特別だし、ここまで話を引っ張ってきたけど……まぁ、それでも薫ちゃんが嫌なら仕方ない。この話はお終い。今すぐ出て行って貰おうかな。おじさんのあげたお金でタクシーでも捕まえてそこら辺のネカフェにでも泊まるといいよ』
……今を、逃したら。
『五百万なんて大金、何もせずに二つ返事で肩代わりしてくれる人なんていないのになぁ。おじさんみたいなお金に余裕がある人が身近にいるだけで、弟君も安心だろうになぁ。残念。非常に残念だ』
『あ…』
今を逃して、後悔するのか。
『じゃあね薫ちゃん。短い間だったけど楽しかったーー』
『あのっ!』
何もせずに、後悔するのか。
『………待って。待って…ください』
薫が後悔しない為には、こう言うしかなかった。
『…本当にいいお姉ちゃんだね。薫ちゃんは』
その日、風斗の未来とお金の為に。
薫は純血を売った。




