7 温かいゆりかご
「…うん、これで全員かな」
部屋によく通るその声の主は、生徒会長の花蓮のものだった。
燎平達が呼び出された場所は二週間前とは異なり、地下ではなく生徒会室であった。
待っていたのは生徒会長の花蓮を始め、翔璃、芯一、薫の生徒会メンバー。加えて愛海に祓間、幸、校長の先生たち。
燎平はそこでふと気づく。一人、誰かが足りない気がすると。
「あの、すいません。あのおっさ……『G,1』、って人はどこにいるんですか?」
特に気になったわけではないが、燎平以外の新入生は彼との面識はほぼない。そして同じく同情したわけでもないが、自分が指摘しないとそのまま流されるかもしれないと思ったのだ。
「ああ、アイツ?『G,1』なら今はいないわ。ちょっと野暮用で出張中なんだって」
燎平の問いには愛海が答えてくれた。野暮用、というのが少しだけ引っかかる彼であったがどうせ聞いてもよくわからないのだろうとこれ以上首を突っ込まないよう自重する。
そして、いったん間が空き、校長が前に出た。
「…さて、諸君。今日は再び集まってくれてありがとう。そして、別の意味でも私は君たちに礼を言いたい」
校長は目を細め、柔らかい声を燎平達にかける。
「……よく、耐えてくれた。あんな事があったのだ。正直一人か二人かは普段通りの生活を送れなくなってしまったのでは…と懸念していたが、余計な心配だったようだな。いや、普段通りではないのは重々承知している。ただ、君たちの心根が私が思っていたより逞しく、こちらとしても心強いと思ったのだ」
…いや。
校長はそう称え、微笑んでくれたが少なくとも燎平は違う。
…覚悟なんてなかった。ただ、思考を放棄して、逃げていただけだ。
学校に普通に行くのだって、『普通』を感じたくて、逆に『普通ではない事』に向き合えなくて、自己防衛の手段として『普通の事』をしたまでの事。
ただ、目を逸らし続けていた燎平にとっては、その賛辞は素直には受け取れなかった。
「…それと、重ねて、改めて君たちにここで謝罪させてほしい。こちらの不手際で、君たちにたくさん辛い思いをさせてしまった。…申し訳ない」
そう言い、彼は再び頭を下げる。燎平としてはもう謝罪はあの時で十分であった。いくらか彼の責ではあるのかもしれないが、全てがそうではない事は燎平も分かっている。
自分のこの状況の不条理を全て彼のせいにし、文句の一つでも言うのは簡単だ。
その気持ちが全くないと言えば嘘になるが、責任を感じてこんなに謝罪している人に向けて非難の声を浴びせる程性根は腐ってないし、校長のその気持ちは不思議と彼の声を通して二週間前の時にもう理解していた。
校長の謝罪で再び重い空気に包まれる空気を取り払ったのは、暁の声だった。
「…どうか、顔を上げてください。勿論、私たちが今直面しているこの状況はまさに不条理と呼ばれるものですが、私たちも全てが貴方の責任だとは思っていません。…聞けば、私たちは元より『裏側』に来てしまう病を持っていたのですよね?でしたらあの場所に私たちがいたのは必然の事。それに、皆さんは我々を必死で守ってくれたではありませんか。私は、それだけでも十分に有り難かった事なのです」
聖人かと見間違えるような暁は言葉を続ける。
「私も、……僕たちも、お礼を言うのが遅れてしまい、すみません。あの時、皆さんがいなければ僕たちはどうなっていたかわかりませんでした。この場を借りて、僕からも改めてお礼を言わせてください。僕たちを守ってくださり、本当にありがとうございました!」
ありがとうございました!と彼に続けて燎平達も頭を下げる。
やはり暁はすごい。いるだけでも辛いこのネガティブな雰囲気を正しただけでなく、プラスの方向へと持って行ってくれた。
やだ、この子イケメンすぎ…と口に手を当てる女性陣。暁のイケメンの権化っぷりはこの場にいる誰よりも燎平が保障する。
こと校長に至っては、目の端にうっすらと光が見える程だった。
「いけないな…私も歳のようだ。非難こそ浴びせられるかと覚悟の上だったが、まさか真逆の言葉を頂いてしまうとは。…ありがとう、皆。おかげでより一層、君たちによりよい教育ができるよう決意が深まったよ」
先程の顔とは見違えた、にこやかな表情を浮かべる校長。それにつられ、自然と燎平達の頬も緩んだ。
「……さて、その為には、君たちの意見が必要になるな」
そして、とうとうこの時が来てしまった。
即ち、『修復者』を選択するか、『施設出身者』を選択するか。
皆の答えは、各々の胸の中にもう既にある。
最初に沈黙を破ったのは、来飛の一声だった。
「…俺は、『修復者』になるぜ」
パッと生徒会メンバーの表情が一瞬晴れやかになる。一方、美紋と暁もやはりと言った風に口端を引き締めていた。
「俺はバカだから難しい事はよくわっかんねぇけどよ…逃げるか戦うかって二択だったら俺は戦う。少なくとも、自分の身ぐらいは自分で守れるようになりてぇんだ。この前みたいに、ただ指加えて見てるのは……なんつーか、嫌…だったからな」
ぽりぽりと頬を掻きながら、彼にしては歯切れの悪い言葉が並ぶ。だが、ここでも来飛の目はまっすぐ校長を見ていた。彼の意思を受け取ったのか、校長も来飛の目を見ながら何回も頷いている。
来飛の次に続いたのは、暁だった。
「…僕もあの時、自分の不甲斐なさ、非力さに苦汁を飲みました。もっと僕に力があれば、手段があれば美紋さんの心的負担を、才蜂先輩のリスクを減らせたかもしれない。戦う事に積極的になれるかは分かりませんが、誰かを護る…これからも、あの時と同じような状況に直面することが逃れられない運命なら、僕は大切な人を守れるようになりたい」
来飛は自衛と罪悪感の払拭、暁は仲間の防護と選択肢の増加。
それぞれ理由は異なってはいたが、最初はそれで十分すぎる程であった。
だが。
その二人の決断が、予想以上に彼の精神的支柱を崩す役割を担ってしまっていた。
「……な、な…んで……?」
まるで信じられないモノを見たかのような目をした燎平は、二人の決意を聞いた瞬間、自然とそんな漠然とした疑問が口から漏れていた。
彼の中では、ありえなかった。
いくら自分を通す来飛でも、いくら的確に状況が読める暁でも、満場一致で全員施設に行くであろうと決めつけていたのだ。
誰が進んで命をドブに捨てようか。誰が進んで自分の身を犠牲にしてまで誰かを助けるというのか。
面倒なことは距離を置くのがベスト。いざ関われば犠牲になるのは自分なのだから。
来飛も暁も分かっている筈だ。自分たちには何も出来ないと。『あの事』のように、成す術無く突っ立っていて、誰かのお荷物になるしかなかったと。
あの死の体現が自分に迫ってくる恐怖を、
あの何もできなかった虚無感を、
あの誰かに責を押し付けるしかなかった罪悪感を、
あのどうすることも出来ない不条理を、
……もう一回以上、味わえと?
しかも積極的にその中に身を置くと?
「……おかしいだろ、そんなの…」
狂っているとしか、思えなかった。
自ら平穏を、普通の日常を捨てるとは正気の沙汰ではない。
「燎平……」
当惑する燎平を見て、目を細める。しかし、来飛も暁も、そんな彼の気持ちが分かるからこその選択だった。
「…さくちゃん。僕は…僕たちは、少なくとも自分の意思で選択したことです。これは、誰にでも出来る機会があるわけじゃない。誰かがやらなければいけない事なのですよ」
「だったら!その『誰か』に全部任せちまえばいいだろッ!?何も俺たちがまたあんな事…ッ!」
この場にいる誰もが、燎平を責める事は出来ない。彼の主張は一つの正解であり、また至極真っ当な考えでもあった。
だが、その正解は一つであるとは限らない。正解の中でも、世論が支持するような、万人がその答えを受け入れるような『純度の高い正解』はある。
「…ですが、その『誰か』は、選ぶことが出来ません。状況、事態によってその『誰か』は異なってしまいます。…以前直面した『あの事』では、その『誰か』はここにいらっしゃる生徒会の皆さん、そして先生方でした。…これだけはどうか、忘れないで。もしあの時、この方々がいらっしゃらなかったら僕たちはここにはいなかったかもしれないという事を」
「…ッッ!!」
それは、吐き気がするほど『正し』かった。
彼は、いつも正解を見せてくれる。
だが裏を返せば、それはいつも『自分が間違いである』という事実を突きつけられているようなモノ。
正論が正しければ正しい程、自分の中にある行き場のないわだかまりは大きくなってしまう。
「…もしあの時、誰か一人でもいなかったら」
「…………ろ」
脳裏に、イフの残像が走る。
「…もしあの時、少しでも何かのタイミングがずれていたら」
「………めろ、って」
聞こえる、良く知る声の悲鳴。震える両手にこびり付くのは、赤。
「……そして、次は」
「やめろォオオオオオオ!!!!」
耐えきれず、声に乗せて吐き出した。
生徒会メンバーでもなく、先生の誰かでもなく、他でもない同じ状況下にいた暁から発せられる言葉であったが故に、燎平への影響は甚大だった。
ふと、想像してしまう。
ふと、予感してしまう。
もし、この中の誰かが、この中の一人でも欠けてしまう事があったなら。
目の前で、全てを奪われるような事があってしまったら。
(俺は、俺は……ッ!)
その時、ドクンとひと際大きく脈が打ったのを感じた。
全身が緊張するような、そんな異常なほど大きな衝動。
「グッ……あ、ぁ…!?」
「ッ!?燎平!?」
強烈なその圧迫感に、耐えきれず胸を押え、うずくまってしまう。
だが、いきなり燎平に襲い掛かってきたのはその症状だけではなかった。
「痛ッ!?」
今度は頭の方がガンガンと鳴り響く。軽い目眩までするような突発的な片頭痛。
「な、なんだ…これ……ッ」
視界がちらつき、もやがかかる。虹彩の機能が低下し、段々と世界が白一色になってくる。
凄まじい痛みと共にノイズがかかる中で、ぼんやりとした何かの輪郭を垣間見た。
(なんだ、これ………何かが、燃えてる……?)
見えるのは、何か大きな建物が燃えている幻覚。その造りや雰囲気はどことなく現代の建物のそれではないように思えた。
「燎平君!?大丈夫!?……ッ!?」
アミュールが何かを『異元感知』で感じる。
「ねぇサーちゃん、今の…」
「…あぁ、視た。一瞬少年の『異元』が揺らいだな」
通常、『異元』は、個人によってそれぞれ決まった型があると言われる。
勿論、普通は見えないが特出した『異元感知』を持つものやそれに準ずる『異眼』を持つ者といったごく一部の者のみが感じる事が出来る、『異元』の型。
それが歪む所を彼女たちはこの時、初めて感じていた。
「燎平!大丈夫!?」
傍にいた美紋、暁が慌てて彼に駆け寄る。
彼女らが声をかけてくれた時には、もうだいぶ痛みは治まっていた。
「あ、あぁ…ちょっと、クラッとしただけだ。大丈夫」
心配そうに見つめてくれる彼女らにぎこちなくなりつつも、何とか返事を返す燎平。
ほんの数瞬、網膜に浮かんだあの残像。
それが何なのかは燎平には見当もつかなかったが、少なくともそれがいいモノではないという事だけは何となくわかった。
先程の痛みが治まった分、代わりにひどく気分が悪い。これからどうこうゆっくり話す姿勢には到底なれそうになかった。
「大丈夫…だから、ちょっと、一人にさせてくれ…」
そう言い残し、生徒会室の扉を開ける燎平。幸が保健室で休むかい、と去り際に提案してきてくれたが、彼は首を横に振った。
今は、兎に角一人になりたい。
こんな空気にさせてしまい若干の責任を感じる燎平。そこから逃げるようにしてふらふらと立ち去る彼は、自分自身への自己嫌悪に押しつぶされそうだった。
燎平が去った後に流れる、またもや重々しい空気。その中で、アミュールは一人眉根を寄せる。
(あの時…『裏側』で燎平君を見つけた時も、彼の『異元』を全く感じない時があった。グラネードの事といい、今の事といい、一体彼は……)
○○○
「オイ、流石にやりすぎたんじゃねぇのか、暁」
「…かも、ですかね。すいません、何分不器用なもので」
いくら燎平を怯えさせ戦場から遠ざけるためとはいえ、あそこまでの拒否反応が出るとは思わなかったのだ。
元より、燎平の性格から『修復者』側に付く線は薄かった。そしてそれは昨日の彼の様子を見てほぼ確信に変わっていた。
「おそらく、彼の性格からしてにはもう少し整理の時間が必要かと」
整理するのは、『自分が修復者になるか否か』ではなく『周りが異常になった時の環境への適応の仕方』である。
選べる道を選ぶ事と、その道を選んだ後の状況に慣れる事に関しては、両者にひどく差があるのだ。
「戦いにおいて最も生存確率が高いのは、危険に対して敏感な『臆病者』…ですからね」
逃げるのも、立派な戦術。臆病である事は、生きるための最高の布石。
「せめて僕たちが最低限使い物になるまでは、彼だけでも普通の生活を送ってもらいたいものです」
「…ったく、とんだ世話焼きがいたもんだな」
「……どうやら、僕よりもずっと彼女の方がそうみたいですよ?」
○○○
…やはり、1人は落ち着く。
この静寂だけが、この暗がりだけが自分という存在を容認してくれる。そんな錯覚に身を置くことで、改めて心を落ち着かせる拠り所を作る。
(...........................)
座り込み、膝に顔を埋める燎平。昨日来飛と話し合ったこの屋上に入る前の物置きスペース。そこが、燎平の知る中であの生徒会室から最短で辿り着ける1人になれそうな場所であった。
放課後のこの時間、人気がないここならしばらく誰にも見つかるまい。
(......................................................)
少し時間をかけ、逃げ出してきてしまった事実を再確認する。
...こんなにも弱いとは。こんなにも脆いとは。
昨日までの決意は何だったのか。昨晩、あんなにも繰り返した『大丈夫』の呪文の効能の薄さには呆れを通り越して軽く笑えてくる。
本番には弱い方だと自負していたが、まさかあれほどの拒絶反応が出るとは思わなかった。
最高に格好悪いし恥ずかしい。惨めで不出来な自分の精神に嫌気がさす。
一人だけこんな事をしでかして、何て無様なのだろうときっと皆思っているだろう。脆弱な心持ちに呆れ果てているだろう。
そんな情けない自分に比べ、あの2人の凛々しさたるや。
(...暁.........来飛............)
分かっている。理解っている。
彼らは、自らの意思で『修復者』になる事を選んだ。燎平と彼らも短い付き合いではない。そうする理由も何となく本当は聞かなくても分かっていた。
しかし、本能がその事実を受け入れる事を拒否していた。今まで物騒な事とは無縁な生活を送っていた彼にとって、全てを受け入れるのに二週間という期間は短すぎたのだ。
彼は、暁ほど冷静に先を見据えることは出来ない。彼は、来飛ほど直感で行動することは出来ない。
彼らより、ほんの少し臆病なだけ。彼らより、ほんの少し普通なだけ。
(...にしたってよぉ.........)
『あの事』を経験した上で、『修復者』になると決めた彼らは本当にどうかしている。
体験したあの恐怖は紛れもなく現実だった。異形が、死が側に這い寄ってくるあの感覚は思い出しただけで震えが止まらなくなる。
ましてや来飛に至ってはあの後、本当にあの怪物の一撃を生身で喰らい、死にかけたと聞く。
そう。『死ぬ』。
何かあったら本当に死ぬんだぞ。
もう二度と、話したり会ったり出来なくなるんだぞ。
これからやりたい事も、掴めるはずの幸せも全部、全部なくなっちまうんだぞ...!!
見知った親友が、いない日常。
何かふとした時に、あぁ、アイツも生きていれば...と届かぬ幻想に胸を焦がす事となるのか?
いなくなったアイツとの思い出は、今までの少ない写真と記憶が薄れていく凡骨な頭の中でしか無くなってしまうのか?
少し想像しただけで、無性に怖くなった。
震える手足をなんとか抑えて誤魔化す。
普通、全力で避けるべき事を日常にするなんて馬鹿げている。彼らはおかしい。
......。
..................。
......おかしい、のか...?
燎平は見た。生徒会メンバーのあの顔。仲間が増えたと喜ぶあの空気。
まるで『修復者』になる選択をする事が正しいかのような、そんな雰囲気。
長年暁と来飛を見てきた燎平だからこそ、余計にそのような錯覚を抱いてしまう。
(クソッ、まるで『施設出身者』になるって選んだ俺が間違っているみたいじゃねぇか...!)
俺はいつもそうだった。
いつも中途半端で、臆病で、なんの魅力もないただの『普通』で。
暁のような特出した才も無ければ、来飛のような思い切りの良さもない。
そしていざ光が当たれば、慣れない状況や多くの視線に何も出来ず残すのはいつも『失敗』ばかり。
...思えば、その失敗も美紋にフォローされていた事も少なくはなかったか。
一人では、何もできない。
今まで、常に誰かに頼り、寄りかかり、甘えて生きてきた。
『どうせ自分が頑張ったって』と、その失敗から学習を怠ったせいで努力を嫌う習慣ができてしまった。
それでどうだ。今回の件。
あんまりじゃないか。今までのツケが一気に来た。
皆一様に、もう立派に『一人』で生きていけている。人生を分けるような選択でもきちんと己に向き合い、決断出来る。それが出来る心の強さを持っている。
対して自分はいざ壁にぶち当たれば誰かに頼って甘い蜜を吸い、言い訳を並べて誤魔化し、結果や選択を先延ばしにする『逃げ』の姿勢が出来上がってしまっている。
そんな事をいつもしているからいざという時に何も出来ないのだ。
『あの事』の時でもそうだった。来飛は自分から動き、見事に事を成した。しかし自分は尻尾を巻いて逃げて、逃げた先でも先生におんぶに抱っこである。
一人では、何もできない。
そして、そんな出来損ないを待ってくれる愚者などいない。
皆自分を置いてどんどん先へ進んでいってしまう。
一人では、何もできない。
(......取り残された俺に、何ができる?)
何も出来ず、ただの荷物になる自分。
(何も......できない.........)
何もできない。つまり、
(...俺、要らないじゃん)
「は、はは......」
なんだ。
かんたんなことじゃないか。
何もできない木偶はいないほうがマシ。
たっタ一人ボっちの俺なンか、もウ――
「燎平!!」
突然の声に、ふと顔を上げる。
そこには、息を切らした美紋がいた。
「み、あや―?」
「ハァ、ハァ…ッ、ハァ…なんて顔、してんのよ……ッ」
相当急いで走ってきたのか、髪は乱れ、肩を激しく上下させながら汗をぬぐう彼女。
何故わざわざ俺のところに来たのだとか、何故ここがわかったのだとか、言いたいことはいくつかあったが、燎平が一番今思ったのはなんて顔、というのはこちらのセリフだという事だった。
こちらの顔を見るや否や、今にも泣きそうな悲愴の色が濃く滲むその表情は何故か彼の心を強く締め付けた。
「何で...来たんだよ......こんなとこ」
「.........」
彼女は、こんな負け組の場所にいていい人ではない。優秀で強くて、いつでも何かと周りを気にかけて助けてくれる美紋は、こんな所にいるべき人物ではないのだ。
彼女こそ、光当たるスポットライトの下で、人々の笑顔のために働く姿こそ相応しい。
だが、美紋は少し俯いた後、はっきりとこちらの目を見て言った。
「私も...同じだから」
「...え?」
「私も、燎平と同じ......『施設出身者』になろうと思ってるから」
突然の告白に言葉を失う。
美紋の言い分に困惑していると、隣いい?と返事を確認もせずに右側に座ってきた。
そして、燎平と同様に体を丸めて息を吐く。
「正直さ、あそこにいるの居心地悪かったんだぁ、私。だから抜け出してきちゃった」
ほんのりと香る、汗と混じった彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。どれだけ急いで走ってきたのか、まだ息が荒い美紋を横目で見ながら、燎平は問いを重ねる。
「暁とか来飛と一緒に、『修復者』やらないのか...?」
「え、やらないよ。無理無理、あんなの」
即答。はぁ?と当然のように、手をひらひらさせながら否定する。
燎平にとって、彼女の答えは少し意外だった。彼らほどではないにせよ、美紋も美紋で『修復者』になるポテンシャルは十分にあると思ったのだ。
暁も来飛も美紋も、燎平にとってはいつも背中を追う存在であった。それぞれが特出した才を持ち、また彼も自分にないそれに憧憬を描いていた。
しかし、今隣に座っている彼女はいつもの凛々しい面影がどこにもなかった。この垢抜けた状態が美紋の素の一つであることは当然知っていたが、ここまであっけらかんな彼女も珍しかった。
「だいたい暁君と来飛君がおかしいんだよ...だって、無理じゃん?あんなのと積極的に戦うなんて、さ」
「.........うん」
「もう考えただけで寒気するもん。もう二度とあんな怪物会いたくないし、いっつも私その事考えようとすると、別の事考えちゃう」
「................うん」
そこで一つ、彼女は目を閉じ、軽く深呼吸する。
指が暇になったのか、一人の時や考え事をする際、横の髪をくるくると指に巻きつけ弄りだす美紋の癖がいつのまにか出ていた。
「...ここから先は私の独り言。本当は恥ずかしくて他の人には言いたくないけど、独り言だから大丈夫。だから誰かさんに盗み聞きされても私は気づかない」
自己暗示のようにぶつぶつと呟く美紋。しかし、彼女のすぐ隣にいる燎平には筒抜けになる事はは自明であった。
数瞬間が空いた後に、完全に呼吸を整えた美紋は心中を吐露し始める。
「...私、怖くて怖くて仕方なかった。『あの事』が起きてから、家に帰っても全然安心できなくて、布団にくるまっても全然眠れなくて、ずっと一人で泣いてた。お父さんにもお母さんにも、ハル姉にも誰にも相談できなくて、燎平達にも話しちゃったら話しちゃったで空気悪くなりそうだったし、この二週間ずっと一人で抱えてた。それでも心配かけないようにしなきゃ、って何とかいつも通りに過ごそうって頑張った」
..........同じだ。
「考えすぎちゃうと頭おかしくなりそうだったから、なるべく他の事考えるようにしてた。校長の話も考えたけどまず意味わかんない。いきなり常識外れなこといっぱい言われて、んなこと知るか!って何回も投げ出したくなった。でも、『施設出身者』を選ぶのにそんな時間はかからなかった。簡単な消去法だったからね」
.....................同じだ。
「そんな感じで毎日新しい生活とその事で板挟みになってる間、思ったよりあっという間に二週間経っちゃった。決意とか覚悟とか、そんなのわかんないしいきなり決められない。でもね、こんな弱っちくて泣き虫な私でもこの二週間耐えられた理由が一つだけあったの」
美紋と目が合う。その吸い込まれるような美しい瞳に息を飲む暇もなく、
「…燎平なんだ」
「………!」
燎平が目を見開くのとは正反対に、ふふ、と息を漏らして目を細める美紋。
「まぁ、勿論燎平だけじゃなくて、暁君と来飛君もそうだけどね。要するに同じ境遇の人がいるってコト。私…ううん、私達だからこそ、これからもやってけるような気がしたんだ。昨日の電話でも、私燎平に助けられたしね。…だから、ね。……燎平」
彼女が彼の顔を覗き込む。浮かべているのは、天使とも見間違うような穏やかな微笑だった。
「……一人じゃ、ないんだよ」
「………ッ!!」
ダメだ。
「燎平の事だから、どうせ俺なんていない方がーとか思ってるんでしょ?じゃあもしもの話してみる?」
ダメだ、それ以上は。
「私…もし燎平が遠くへ行ったらきっと寂しくなっちゃうと思う。暁君も話し相手いなくなっちゃうし、来飛君だってあそこまで気兼ねなく絡めるの燎平くらいだよ?」
今、そんなに、優しくされたら。
「そもそも、燎平は何一つ悪くないんだよ。『施設出身者』になるのだって、絶対一つの正しい道なの。さっきも燎平が行かなかったら、私が出て行ってたくらいだもん」
今、そんなに一番言って欲しい言葉を言われてしまったら。
……もう。
「だから………だからね」
続いた言葉が一旦途切れる。
必死に零すまいと、両腕に顔を押し付けたが徒労だったようだ。おそらく、気づいてしまったのだろう。
もう、堪える事ができなかった。
そんな震えている男の惨めな姿を見ても、彼女は決して蔑むことなく、寧ろより一層、声に温かみが増していく。
「燎平は、間違ってなんかないんだよ」
気づけば、優しい重みが頭にあった。
こんな臆病者でも、こんな何もできない役立たずでも必要としてくれる人がいる。
その事実だけで、十分に彼は救われていた。
「私は…私だけは、燎平の味方だから」
漂白される意識の中、入ってくる美紋の声が頭に響く。
(大丈夫、大丈夫だよ)
その柔らかな瞳と声は、錆びついた彼の意思に小さな火を灯してくれる。
そのたおやかな微笑みは、いつも彼の心をすくい上げ、救ってくれる。
美紋の手が燎平の髪を撫でる度に、冷え切った彼の心にじわりじわりと、心地よい熱が染み込んでいく。
(ああ……なんだ。意外と、効くじゃないか)
今だけは…この数分だけは、この全てを包み込むような温もりに身を任せても、許されるであろうか。
背後にある屋上の扉の小窓から、鮮やかな紅い夕焼けの光が差し込む。
それが、灰色だった世界が色彩を取り戻していた証だった。
〜舞台裏〜
花蓮「ヴッ……美紋ちゃん大天使すぎでは……」
薫「ほほう、何だかんだ面倒見いいんだね」
芯一「燎平君も悪くないんだけどねぇ。ただ、周りが優秀すぎるからどうしても比較の対象のレベルが上がっちゃうのかぁ」
翔璃「彼も、色々と難儀だな……(気持ちはよくわかるぞ、うん…)」
花蓮「ともあれ!これで『修復者』メンバーは最低二人は増えたわね!良きかな良きかな!」
薫「良かったねー花蓮ちゃん。これで一年生ゼロだったら仕事の量も後継者云々もヤバかったんじゃない?」
花蓮「お゛……そうだったそうだった。危なかったぁ…」
芯一「残り二人の『新芽』も『修復者』になってくれれば理想的だけど…まぁ、無理強いは良くないよねぇ」
翔璃「あぁ。こればかりは、本人たちの意思を尊重すべきだと思う」
花蓮「そうね。今後彼らがどの道を進もうと、しっかり私たちがサポートしてあげなきゃね」




