プロローグ2 動き出す甘い侵食
言葉とは、時に言い得て妙だ。本当に、皮肉に思うくらい心の内面をくっきりと表してしまう。
「………なんて顔してるんだろ、私…」
鏡の前に立つ。お風呂上りだからなのか、それとも湯船に浸かってる間ずっと彼の事を考えていたからなのか、いつもより上気して真っ赤になった自分の顔がそこにあった。
蒸気で少し曇った眼鏡をかけ、濡れた髪をタオルで拭きつつ櫛で丁寧にとかしていく。
蛇口の横にあるのは今日の帰り道、奮発して買ってしまった新しい香水。そこまでキツくもなく、ほのかに香る程度のもの。
普段はこんなもの買わないし、使おうとすら思わない。シャンプーの香りで十分なのでは?と考えたがやはり彼の事を想うとやって損はない……とまで思うようになってくるのだからやはり、私は人を狂わせる罠がたっぷり詰まった蜜壺の中に落ちてしまったらしい。
それを、俗に恋という。
恋に落ちた。そう。これは正しく『落ちた』。いや、私はあの男によってこんな深い深い奈落へ落とされてしまったのだ。
私の思考をひっかきまわして束縛する、あの男。私の心を時間場所お構いなしに蹂躙する、あの男。私の顔を今、こんなにひどくさせてるあの、男。
「………これで、少しは…」
あの人に近づけるかな。
にへ、と頬が緩んでしまう。脳裏に浮かぶのは勿論笑顔のあの人。ふとすれ違い様に私のこの香りに気づいてくれて、いい匂いだな、って言ってくれる。……勿論妄想なんだけど。
乙女が恋に関して一回妄想を始めたら中々止まらない。そこをきっかけで段々と話す機会も増えて、趣味とかも話すようになって、気づいたらお昼ご飯も一緒に食べてて、一緒の時間が増えて、お互いにお互いの事を気にし始めて………、やっぱり、直かな?手紙?それともやっぱりメールとか?いや、電話っていうのもなかなか……
「……ちょっとひー姉、どいてくれる?」
「ひゃあ!……って、晴乃か、脅かさないでよも~…」
「今すごく面白い顔してたよ?何か良い事でもあったの?」
「晴乃には関係ないでしょ」
「……男?」
「はぁ?…違うから。そんなんじゃないし」
「ふ~ん、じゃあそういう事にしておきましょうかね~」
「ちょっと、ハル!」
なんでだろ、身内だからかな?なんか晴乃に言われるとすごく癪だし絶対話したくないって思う。いつの間にか、妄想してる間にすっかり髪の手入れは終わってしまっていた。
「…寝る前に、ちょっとつけてみようかな……」
「え、何それ?香水?新しい奴?」
「ちょ、めんどくさいなぁ…ほら、早くあっち行った行った!」
「ちぇ、何だよノリ悪いなぁ」
ぐいぐいと歯ブラシをくわえた妹を脱衣所から追い出す。しっかりロックもかけて、ふぅと一段落する。
新しい事に挑戦するのはちょっと勇気がいるものだ。これでもしちょっとイメージとは違う臭いだったらどうしようとか、思った以上に強かったらどうしようとか一抹の不安はある。でも、その不安も彼の事を想うと遥か彼方へすっ飛んでいくというもの。それに、せっかく買ったのだから使わないともったいない。
違う自分になるドキドキを押えつつ、首筋にシュッとひと吹き、魔法をかける。
「………うん。いい、かも」
また頬が緩んでしまう。理想に近づく小さな第一歩を踏み出せた気がするのだから、そりゃちょっとは浮かれても問題ないでしょ、とこんなだらしない顔をしてる自分に言い訳をしてみる。
少しステップと鼻歌を刻みながら、髪を後ろにまとめつつ階段をあがる。自分の部屋に着くと、私はすぐさまベッドにダイブした。
「んふ~~……へへ」
この高揚感はなんだろ。明日への楽しみはなんだろ。込みあがる気持ちを抑えきれず、大きいクッションをぎゅーっとして顔を埋める事でどうにか落ち着かせる。
どくどくと煩い心臓の音は、お風呂上がりで火照っているからってだけじゃない。何もしなくても自然と口角が上がってしまうのは、新しい香水を買ったってだけじゃない。
「…ほんと、おかしいなぁ。私……」
そう言いつつ、自分のベッドでごろごろと転がりながら、再び空想という名の夢の海へ飛び込んでしまう。
空の心を持ちながら、時があっと言う間に過ぎてしまうその世界に浸る。
今正に恋をしている少女……雲陰陽乃が、手を付けていない明日までの宿題に気づくのにはもう少し時間がかかりそうだった。




