5 危険の整理は慎重に
世界が、変わった。
そう感じたのは決して根拠がないわけではない。正確には、空気の成分そのものが変化した。否、変化したのではなく『入れ替わった』、という表現の方が適切ではある。
この世界の名は『裏側』。
『裏側』は時折、自分たちが今生活している『元の世界』にぽつぽつと一定の場所に現れる空間だ。それは遥か昔から起こっていたことが観測されており、本来は自然に発生するものである。
しかし、意図的に『召喚』という形で『元の世界』に『裏側』を顕現させることも可能であることも、愛海達の間では周知の事実であった。
元の世界からそんな空間に意図的な方で変えさせられた彼女にとっては、たまったものではない。
「もー!何で『裏側』がここにできてるのよ!しかも自然に発生したものじゃないわよねこれ!ねぇ!!」
「知らん。俺に当たるなアミュール。発生源は……あっちか」
二人は校庭に続く道を走る。校舎がそれなりに広いため、ある特定の場所に移動するのも一苦労なのだ。
『裏側』内では、『異元』……即ち『異能な力の元になるモノ』を持たなければ存在することができない。
それゆえ『異元』を持たない一般生徒に影響は及ぶことはない。また、建物や環境も同様だ。もともとこの世界に存在しない『異元』を用いた戦闘の跡を残したとしても、『存在しないものは存在しない』と扱われ、世界を正そうとする強制力が働くのである。
故に、『裏側』内ではまるで元々いなかったかのように一般人は消失し、時間が止まったかのように草木は風に揺れない。愛海達にとっては、『裏側』はいくら暴れても轟音を立てても何も壊れず誰も傷つかないためとても都合のいい戦闘場と化している。
そして再度確認だが、空間内では『異元』を持つものしか存在しえない。
つまり、その定義域は人だけではないということだ。
刹那、愛海の眉がピクリと反応する。
「下がってッ‼」
愛海はおっさんを手で制し、叫ぶ。直後に凄まじい突風と共に何かが彼らの前を通過した。
「ったく……めんどくせぇことになったな…」
おっさんはため息を吐くと共に頭を掻く。二人の目の前には今、奇妙な生物がうごめいていた。
全長は三メートル前後。表面が粘液で覆われ、足はなくナメクジのようにもぞもぞと地面と胴体が接触している。ほぼ胴体だけのその巨体からは長い首と数本の触手が生えており、頭部には二対の触覚、目や鼻と言う器官は存在せず、横に大きく裂けた口だけしかない。
どこからか現れたそんな怪物が、目の前に数匹。
「おいアミュール、ここ任せていいか?」
「……逆に、あなたにメインの方を任せていいのか心配なんだけど。ものすごく」
「えー…そんなに信頼度なかったっけ俺たちの間には……結構長い付き合いだろ?」
「出来ればアンタと知り合いたくはなかったわよッ!」
ひでぇなオイッ!と二人は叫びながら伸縮する触手の攻撃をかわす。
そこそこ威力はあるのか、外した触手が当てたタイルで埋まった地面は粉々になっていた。粘液が付着したためか、煙と音をあげながらじゅわじゅわと溶けていく。
「うっわー…これ超絶めんどくさい奴じゃない……あとあの子達に一応連絡入れとくか……ってあれ!?いないッ⁉」
おっさん逃亡。うぞうぞと蠢きながら怪物たち接近中。愛海ちゃん(怪物たちに)超モテモテ。
「あンの野郎……覚えておきなさい…今度会ったら服の中に教室にある使いたてのちょっと湿ってる雑巾入れてやるんだから!」
○○○
「んん…?あれ、おっかしいな…何で花蓮ちゃんたち反応しないんだろ?まだ『異元展開《エナ―クス》』してないとか?いや、流石にそれはないよね…アミュっちも引っ掛からないし……あれぇ??」
「「………………」」
燎平と来飛は眉を寄せる彼女を無言で見つめる。物事において、ベテランのあれぇ?ほど不安を煽る発言はそうはあるまい。
時間が経つにつれ、先程の大丈夫!を聞いた時の安心感が徐々に薄れていく二人。
「な、なぁ……なんかあったのか?」
「へっ!?な、何でもない何でもない!二人はなーんにも心配しなくていいから!このかおるんに任せておけば大丈夫だから!」
……多分、と大分後の方に小声で何か聞こえたのは幻聴であろう。
そうであって欲しいと願う二人だったが、みるみる汗の量が増えていく先輩を見ているとどうしても安心とはほど遠い心境に立たされてしまう。
彼女が言うには、とりあえず問題の原因があるであろう校庭に向かっているとのことだが、足取りが中々軽くならない薫の後をついていくのは段々と気が引けてくるようになってきた。
不安というのも確かに要因のひとつではあるのだが、何より本来の目的から外れてしまっている。教室には自分達を信じて待っていてくれている人々が大勢いるのだ。
もしかしたら、あちらも先程の燎平と来飛がそうだったように得体の知れない何かに襲われているかもしれない。そう考えると、燎平はいてもたってもいられなくなった。
「あ……あの!ちょっとお願いがあるんですけd」
「しっ!…二人とも、ちょっと走れる?こっちになんか来る。ごめん、それ後にして」
「「ッ!!」」
一気に二人の体に緊張が走る。またあの恐怖を味わう可能性が出てきたかと思うと、どうしてもやるせない気分になる。
(ッくしょォ、何で俺たちばっかりこんな目に…!)
(また俺は逃げてるだけで何もできねェのかよ…ッ!)
自分の身に危機が迫ったと同時、燎平と来飛は目の前を走る先輩にすべてを託すしかない運命を呪った。
「あ、そうそう!言い忘れてたけど、アンタ達の友達なら大丈夫だよ!クソマルからさっき連絡があったからさ!」
「…!マジかそれ!」
走りながら、吉報を口にする薫に燎平は歓喜する。クソマルというのが呼称であるのかそうでないのか、この際は触れないでおくのが良いだろうと判断する。
「うん、美男美女無事二人確保したって!」
(二人…?)
美男美女といえば真っ先に思い浮かぶのが暁と美紋、というかその二人で間違いないとは思うのだが、何故教室にその二人のみしかいないのかが分からない。
(…いや、待て。一応の仮説は立てられるんじゃないか?他の生徒達と同じように、俺たちのクラスメートも消えてたとしたら?…でも、そうすると俺や来飛、それにこの先輩もこんなところにいる理由が分かんねぇ……)
「ほら!こっち!」
ハッと薫の声で燎平は我に帰る。それなりの距離を走っているのにも関わらず汗一つかいていない先輩は声を張る。
「安心してって言ったけどお願いだから気は抜かないで!薫もフォローしきれないから!」
「…分かってるッスよ!」
そんな疑問も今の状況からすれば彼にとって些細なことであり、気を引き閉めなければ、と頭の隅に追いやった。
○○○
がらりとした教室に静寂な空気が漂う。先程から絶句している彼に向けて、美紋は声をかけた。
「…暁君、これは……」
「……ええ、僕なりにこの不可解な現象が起こった理由をつけようとしましたが、やはり無理でした。お手上げです。皆目検討もつきません」
「…そう……そうよね……突然私達以外の人が消えるなんて…」
暁の口からお手上げ、皆目検討もつかない等という言葉が出るのはかなり珍しいのだが、こちらの常識の範囲内では考えられない事態が実際に起こっているのだ。彼とて超人ではあるが宇宙人ではない。
「…これ、夢とかじゃないよね?なんか、漫画とかでよくある幻覚にとらわれちゃったみたいな…」
「幻覚!そうか……そういうこともあり得るのか…美紋さん天才ですね」
「貴方に言われると嫌味にしか聞こえないわ…」
僕は天才ではないのですが…秀才とはよく言われますけど、と彼ははにかむが、そういう問題ではないのだ。
天から授かった才能なら、暁はその点常人より遥かに多いと言える。優れた洞察力、思考回路は勿論、美紋が今まで付き合ってきて才がない事柄の方が彼に見当たらないのである。
義務教育の中では将来を見据えて様々なことをやらされるが、基本9教科並びに度々あるコミュニケーションの範囲内でも彼は特に秀でていると言える。
リーダーをやらせれば皆自然と彼についていく高いカリスマ。あらゆる事態を予測し的確に必要な情報を伝達するだけでなく、人が動きやすいように与える仕事量や時間等も含めて個人個人に伝える内容とアプローチを変えるものだから、暁の成すことは絶対的に効率よく、かつ最大の成果が出るよう物事が進む。
もはや人を動かすことに関しては完成されている域なのでは、と美紋が思う程だ。将来はきっと社会で重要な役割を担う人物になるであろう、と皆からの期待も高い。
そんな彼が普段何しているかといえば、只一言、『読書』である。勉強も読書の内に入るらしく、本人曰く教科書を読んでいれば百点は取れるらしい。勿論、捕捉で演習等もするだろうが。
小、中学生の間に近くの図書館の本を全て読破したという逸話は最早語り草だ。 勿論本を読むスピードは尋常ではなく、彼が本を読んでいる際に約4秒毎にページがめくられる音が、その逸話が真であることを色濃くしている。
「漫画、ですか…生憎漫画等はたしなむ程度にしか触れてないので…逆に、美紋さんは読む方なんですね。少し意外です」
「あぁ、好きで読んでるわけじゃないよ?燎平達に触発されてというか…読めって言われたからというか……」
「やはりコッテコテのラブコメですか…あの美紋さんもお年頃の乙女なんですねぇ……」
「何故そうなる!ってかどういう意味よそれは!」
「70キロ以上ある来飛君の巨大を軽々と蹴り飛ばしたり投げ飛ばしたり…その腕力はもうヒトではなく只のゴリ………、いえ、 霊長目ヒト科ゴリラ属に分類される構成種のようだなぁと」
「いや丁寧に言ってもダメだからね!?より詳しく伝わっちゃってるからね!?あとそこはかとなく失礼だからねっ!?私にっ!!」
「ハハハ、ジョークですよ、暁ジョーク」
何よそれ…とぐったり肩を落とす美紋。
本来はツッコミ役のメインは燎平なのであって、彼女ではないのだがやってみると案外いけるのでは、と僅かに思う美紋であった。只、体力と精神力の消費量が増すのが難点ではあるが。
「兎に角、幻覚かどうかということを確かめるというのはこの状況において、良い手段だと思います」
「そうよね、きっと何もしないよりマシよね…じゃあ、とりあえず頬とかつねってみる?」
「ハハ、流石に美紋さんでも僕の頬の肉はあげられませんよ」
「ほんっとアンタの中での私ってどうなってるわけ!?」
この奇妙な状況の中、こんな馬鹿なやり取りをしたままで大丈夫なのかと美紋は思うが、暁のすることはほぼ無駄がない。何かしら考えての行動だろう、という美紋の読みは当たっている。
この時、暁は残ったのが自分と美紋で良かった、と安堵していた。
もしも他の人が一人でもいたならばこのような落ち着いた空気にはならなかっただろう。普段と異なる状況下の中では、いかに普段通り、通常の行動を取れるかが鍵となってくる。
少しでも冷静さを欠いたら、自分がした行動が危険なことだと完璧に判断できなくなってしまう可能性がある。
彼女のことをよく知っている彼だからこそ、いつも通りの何気ないやり取りでまずは落ち着きを取り戻す。一見落ち着いているように見える美紋だが、どことなく緊張しているのが分かった。
意識して緊張するのは効果的だが、無意識での緊張は正常な判断を下すための枷と成りうる。また、彼自身も無意識に緊張していることを自覚していた。
だからこそ、普段通りの会話を行い無意識の緊張を払拭しつつ、ここが異常である、という認識を時間をかけて徐々に体に染み込ませていく。
暁はこの状況に適応する準備を的確に行っていた。美紋も段々と無意識の緊張が解れているように見える。さて、ここからの行動の取捨選択が大事だな、と暁は気を引き閉めた。
だが、今までの彼の準備を嘲笑うかのように、まるでそれが必然的であるかのように、刹那の間に事は起こった。
まず最初に、轟音と共に扉の強化ガラスがいとも簡単に爆散した。
次に、 美紋の短い悲鳴が聞こえるのも束の間、彼女達の視界に飛び込んできたのは二匹の蜂。否、それを蜂と呼ぶには少々語弊があった。
そもそも、足が8本の時点で昆虫ではないが、大きさがこちらの常識のそれではなく、全長が50センチメートルを軽く超えていた。赤や黄色といった比較的目立つ色が体中に散らばり、顔の部分から伸びている長い3本の触覚が不規則に揺れている。
振動の速さでほぼ視認できない、あからさまに常識より大きいブウウンという羽音の共鳴が、それらが異物であるという現実を二人に染み込ませていく。
「…ひっ!?な、な…何あむっ!?」
「…美紋さん、落ち着いて」
暁は取り合えず美紋の口を抑え、自分も乱れた呼吸と心拍を落ち着かせるべく、その異物に目を当てる。
まず異常なのは見るからにその見た目。単に体長が大きいのもそうだが、顔の半分以上もある顎。『虫に噛まれた』とよく言うがあれでは噛まれたどころではなく、骨ですら噛み砕いてしまいそうである。
その8本の鋭い足で引っ掛かれても軽傷では済まなそうだが、特筆すべきは蜂の最大にして最凶の武器である臀部の毒針だ。
てかてかと紫色に濡れているそれが一番危険だと暁の危険信号の音量を最大限にして鳴らしている。刺されるとかどうとか最早そういうものではなく、触れた時点で即死レベルのものであると即座に察知した。
元より、強化ガラスを体当たりで割ってくる程のスピード、それなのにびくともしない体の耐久性。知能の部分はもしかしたら人間より劣っているかもしれないが、それすらも今は怪しい領域にある。
「…美紋さん、なるべく彼らを刺激しないように最大限の行動を選択してください。静かに距離を取りましょう」
「……ええ、だけど………何なの、あれ……」
「…わかりません。ですが、僕たちにとって少なくとも害にならない可能性がどこにも見当たりません。あんな全身が凶器な生命体がもし地球上に存在していたならば、この星の中で最も多い種は人間ではなかったでしょう」
「そうね…なんにせよ、ここから逃げないと……」
なるべく小声で今後の方針を重ねていく二人ではあるが、具体的な策が全く思い浮かばない。
かろうじて今のところは見事なボバリングをしているだけでこれといった動きがないが、いつそれらが動き出すかが分からない状況の中で、二人の緊張は極限にまで達していた。
(取り合えず、今のこの状態がいつまで持つか……大声を出したり、すばやい動きをする等、敵意とくみ取れる行為をしなければ襲っては来ないというのでしょうか…?)
いや、と彼は自答する。人を襲わない虎がいないのと一緒であり、この蜂達も絶対に人に危害を加えないとは限らない。むしろ今まで助かっている自分達が奇跡だ、と思えるくらい彼らはじっとこちらを観察していた。
しかし、その静寂も唐突に幕を引く。
蜂が襲いかかってきた、と暁が認識できたのはもう彼らが目の前に来た瞬間だった。
(死ッ…!?)
彼は反射的に目をつぶると同時、何かが頭上を通り抜けるのを感じた。
と言うのも、それを感じ取れたのは事が終わってから幾分と後のことであった。確かに聞こえたのは彼の背後の窓が割れた音と、おそらく猛獣のものであろう凄まじい絶叫だった。
つまり、死んだのは暁の背後にいた緑色の奇っ怪な熊だという事。
そして、全ての原因が帰結する。
「いやぁー、ごめんねぇ?大丈夫?怪我してないかなぁ?」
美紋「にしても女の子に向かってゴリラは酷いと思うんですけど」
暁「……女の子?」
美紋「そこからかっ!?……っていうか、分かってると思うけどホント、ほかの女子に向けて言っちゃ絶対ダメだからね。言ったら暁君でも腹に膝だからね。マジで」
暁「そこは重々承知してますよ、っていうか美紋さん以外ゴ…、霊長類最大の生物な方は中々いないと思いますし。マジで」
美紋「また……、もういいわ…っていうかそこにマジでってつけるとさぁ…」
暁「?…マジゴリラ?」
美紋・美紋「死ねっ!!」




