紅茶の香る午後のひと時――現の魔女編
現在連載中の『邪視が見据える先』に登場する向鷲陽舞の母親が若かった頃のお話。
白々しい午後の陽気は執拗なまでに穏やかさの押し売りを、露草が生え揃う向鷲邸のこれ見よがしにだだっ広い庭先へと商う。して、陽気に釣られて表へやって来たのは何もこの豪邸に住まう一人娘だけではなかった。
白色光を翻すパラソルの元に据え置かれた丸テーブルと華奢な椅子が二つ。向かい合う四脚に収まるそれぞれの乗客は互いの髪を弄ぶ微風に片方の目を瞑ると、各々が抱いた突発的な茶会の所感を述べ合う。
「全く……春の陽気は愛想が良いというのに、どうして春先の風はこうも子供染みているのかしらね」
「そうね。でも、それを心得た上でこうして表へ参ったのだから、私たちは相当に子供好きとも呼べるわよね」
成る程、と。白のワンピースに麦わら帽という出で立ちの向鷲家の一人娘、夜舞は、腰掛ける椅子の薄色に負けず劣らない色白の両腕を組んで一度、ワザとらしく頷いて見せる。
もう時期に西暦の千桁がひとつ増えようとしている今年。二十四になろうかというのにその顔はどこか稚拙さを残しつつしかし、身体つきは年相応に発達していると。その手の輩からすれば、さぞやご馳走に見えるであろう容姿を携えている麗人。それが向鷲夜舞である。
「そろそろ身を固めても良い歳に思えるけど、どうなの?」
「身を固めるも何も、私はまだ二十四よ。早すぎるわよ」
「貴女が背に抱える家系を省みても、同じようなことが言えるの?」
テーブルに両肘を着き、前傾に突き出される顔の前で指を交錯させた来客人は言って、意地の悪い表情を繕う。紅い右眼を塞ぎ、もう一方は横へ流される。夜舞が左眼の流れた視線の先を追うと、そこには西洋造りの大仰な黒館が聳える。
見紛うことなき自身の家を横目に夜舞の組んだ両腕はいつの間にか解消され、次にはテーブル上のティーカップへと手が伸びる。
「承知してるわよ……私はハズレの代で、早いところ次代の――アタリ代の子を産み落とす役割の為に生まれてきた、たったそれだけの存在価値しか持ち合わせない歩く人間製造機の身だということを」
「歩く人間製造機……面白い表現をするのね」
「間違いではないハズよ」
「そうね。どちらかというと、的を得すぎて笑えない冗談に成り下がっている感はあるもの。俗にいう――ドン引き、ね」
「ドン引き?」
夜舞の傾げて見せる首に、来客人の長考は些細な時間のみで解決し、単孝を終えたその口が再び開く。
「ごめんなさいね。この時代の言葉ではなかったわ」
「……つまり、今のは未来語?」
「違いないけど、そこまで先の未来でもないわ。せいぜい――十数年後かしらね。貴女が生んだ子供が元気に鼻くそをほじって見せている頃よ、きっと」
「鼻くそって……」
来客人が語り聞かせた粗末な言葉の羅列にそれこそ、ドン引いた顔相を晒す夜舞だったが、そんな些細な出来事を黙殺してまで聞き返して置かなくてはならない事柄が、今の一節に転がっていたことに気が付く。
「ちょっと待って。私の子供が、て……」
「何も驚くことはないでしょう? 私は誰?」
「現の魔女――現詩よね」
「分かってるじゃない」
そうじゃなくて。咄嗟に置かれたティーカップから零れ落ちる赤。
「まさか、本当に未来を知っているの?」
「勿論よ。ただ、知っている、という表現は誤りね。私が冠している『現』とはね、私が現存する時代の全てを指すの。生まれ落ちた瞬間、死に行く間際。それまでの時間を全て私は並列に生きているのよ」
目の前の人間が語りベタな性分でないことを心得る夜舞にとって、今し方に語り聞かされた内容の全てが真実であることは、疑える余地の残されられないことなどは百も承知。
しかし、理解が及ぶかはまた別の話である。
「並列に生きるって……生まれた時の記憶も、死ぬ間際の記憶も同時に持ち合わせてるってこと?」
「ええ。私は自分の死に様を心得てるし、母親の胎内が如何に温い物であったかも知り得てる」
馬鹿げた世迷言に聞こえるであろう内容だが、物心が付いた頃から共に過ごしてきている現詩の異常なまでの聡明さや博識ぶりを目の当たりにしている夜舞。皮肉か当然か。彼女自身が唯一の友人で、眼前でほくそ笑む女性が魔女であることの生き証人なのである。
二十四。人の生に於ける一日の周期を終えた年だったからこそ、彼女は自身の奇異な友人に対して踏み入った詮索をしてしまったのだろうか。一度踏み入ってしまったが最期、その深淵から這い出ることは容易ではない、世界の陰りの内のその最も深くて暗い部分。
向鷲夜舞のこの身勝手な好奇心が、後に生まれてくる我が子――陽の元で舞うという、母親とは正反対の名を付けられた娘までを自らと同じ暗がりの内へと引き摺り込んでしまうことになろうとは、この時の夜舞は夢にも思わなかったことだろう。
紅茶の香りが漂う午後。名家に生まれ落ちたが故に家畜と化した女性と、世に生まれ落ちてしまったが故に魔女となった女性が交わし合った些細な言葉のやり取りはほんの数刻と。短くもそれなりの時間だった。
百と十五年を繰り返す現の魔女にとっては繰り返される記憶の一端に過ぎない日の、そのたった数刻に違わずとも、この世界を揺るがす大きなターニングポイントとなり得っていたことに、未だ彼女は気づいていなかった。