お隣の少女と家庭内暴力について
壁の薄いワンルームに住むということは、隣人の人生を強制的にシェアさせられるということだ。
築三十年、木造アパート「コーポ・サツキ」。俺の住む一〇五号室の隣、角部屋の一〇六号室は、端的に言って「ハズレ」だった。
父親は、見るからに粗暴な男だ。現場仕事帰りなのか、日焼けした肌に筋肉質の体躯をしており、常に何かに苛立っている。昼間から安酒の匂いをプンプンさせ、廊下ですれ違うと、充血した目で俺を睨みつけ、すれ違いざまに「チッ」と舌打ちをしてくる。
母親もまた、常識が通じない手合いだ。髪はボサボサで、情緒が安定していない。
そして、その二人には、小学校高学年の一人娘がいた。
表札で名字は知っているが、下の名前はサキちゃん、というらしい。漢字は知らない。
あの両親からどうしてこんな子が、と思うほど、礼儀正しい娘さんだ。すれ違うたびに「こんにちは」と花が咲くような笑顔で挨拶をしてくれる。
だが、俺はその笑顔を見るたび、胸の奥がざらつくような居心地の悪さを感じる。
先日梅雨明けが発表され、連日息苦しいほどの蒸し暑さが続いているというのに、彼女は常にオーバーサイズの淡い色のカーディガンをまとって、膝下まであるスカートを履いているのだ。加えて、すれ違う男たちの視線をひどく怯えるように避け、不自然なほど身をすくませている。
その理由を、俺は嫌というほど想像できてしまう。
夜になると、決まって一〇六号室からは「教育」の声が響くからだ。
『どうしてちゃんと出来ないの――!』
『ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!』
『これは躾なの、ちゃんと聞いて――!』
よく通る、張りのある声だ。迷いのない、相手を支配するための響き。
それに続く、何かが砕ける音と、鈍い打撃音。
壁の向こうで行われているのは、間違いなく一方的な暴力だ。
俺は布団を頭まで被る。だが、安普請の壁は無慈悲に隣の修羅場を伝えてくる。
『何回言ったら分かるのよ! この役立たず!』
『許して……お願い、許してぇ……!』
嗚咽混じりの弱々しい声が、許しを請うている。
俺は枕元のスマホを握りしめ、一一〇番の画面を表示した。指先が震える。
……ダメだ。押せない。
もし警察が介入して、一時的な解決にしかならなかったら? あの凶暴な父親やヒステリックな母親がいる家庭だ。警察が帰った後、事態がより悪化するのは目に見えている。
俺はスマホをベッドに投げ捨て、ノイズキャンセリングのイヤホンを耳に押し込んで、隣の地獄から無理やり意識を切り離した。翌朝、廊下で登校中の彼女と目が合った時も、俺は気まずさからそそくさと目を逸らし、逃げるように足早に通り過ぎてしまった。
俺は、隣人が怖い。
だから俺は、壁の向こうの暴力から目を背けることしかできない。
ある休日。俺は、アパートの前で母親が、粗大ゴミの回収シールが貼られたオフィスチェアを引きずっている現場に出くわした。
表面は多少擦り切れているが、元は高級品だったろう革張りの椅子だ。だが、明らかに一家が出したものではない。
「あの、それ」
俺が声をかけようとすると、母親は「何見てんのよ」と言わんばかりのヒステリックな形相で俺を睨みつけてきた。
「まだ使えるじゃない。廃棄されるのを有効活用してあげてるのよ。私は良いことをしているの」
狂気じみた早口でまくし立てる。俺が条例違反を指摘しようと口を開きかけた、その時だった。
「……あれ?」
背後から鈴の鳴るような声がした。
いつの間にか、買い出し袋を下げたサキちゃんが立っていた。
母親の肩がビクリと跳ねる。
母親は、娘の姿を見るなり、怯えたように椅子を放り出して脱兎のごとく部屋へと逃げ帰ってしまった。
後に残されたのは、あっけにとられる俺と、オフィスチェアを見下ろす少女。
「どうしてこんな所に椅子があるんでしょう?」
彼女は母親の仕業だと察していながら、不思議そうに首を傾げてみせた。
「分からないな。でも回収シールがあるから、ゴミ捨て場に持っていった方が良いね」
「そうですね。手伝います」
俺たちは二人で椅子を元の場所へ戻した。彼女は礼儀正しく頭を下げたが、その笑顔の裏に、深い諦めのような色が混じっているのを俺は見逃さなかった。
また、ある蒸し暑い夜のことだった。
俺は寝苦しさに耐えかねて、アパートの敷地内にある自販機へ飲み物を買いに出た。
自販機の淡い光の中に、先客がいた。サキちゃんだ。
彼女は何も買わずに、ただぼんやりと光に集まる羽虫を眺めていた。やはり、今日もオーバーサイズのカーディガンを羽織っている。
「……こんばんは」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返り、いつもの笑顔を作った。
その時だ。
アパートの前の細い路地を、無灯火の自転車が猛スピードで突っ込んできた。学生だろうか、スマホを見ながらでこちらに気づいていない。
「危な――ッ!」
俺はとっさに手を伸ばし、彼女を庇おうとした。だが、焦りで足がもつれ、派手に転倒してしまった。
衝突音はしなかった。
顔を上げると、サキちゃんは、ほんの半歩、体を横にずらして自転車をやり過ごしていた。
最小限の動き。それでいて、風に揺れる柳のように音もなく、あまりにも自然で洗練された動作だった。
「大丈夫ですか?」
彼女はすぐに俺に駆け寄り、手を差し伸べた。
俺がその小さな手を掴むと、信じられないほどの体幹の強さで、ぐいっと大人の俺の体が持ち上げられた。その拍子に、彼女のカーディガンの袖口が少しずり下がり、傷一つない白く滑らかな肌が覗いた。今し方感じた力強さとは裏腹に、とても華奢な腕だった。
「うわっ……すごい力だね」
「あ、ごめんなさい。痛かったですか?」
彼女は恥ずかしそうに舌を出した。
「以前、母方の実家に身を寄せていた時、寝たきりのお祖母ちゃんの介護を手伝ってたんです。大人の人を起こすの、コツを知ってるから得意で」
そう言って笑う彼女の健気さに、俺は言葉を失った。
凄まじい反射神経と、ブレのない体幹だった。
その時だ。
「あ? 何見てんだテメェ」
怒声と共に、酒臭い息が降ってきた。
彼女の父親だ。赤ら顔で千鳥足の彼は、俺を見つけるなり、因縁をつけるように詰め寄ってきた。
「人の娘に何手ぇ出してんだよ、あぁ?」
俺が身構えた瞬間、サキちゃんがスッと俺と父親の間に割って入った。
「お父さん。お兄さんは転んだ私を助けてくれただけ」
静かな、しかし有無を言わせない声だった。
父親の動きが止まる。サキちゃんの顔を見た瞬間、あの粗暴な男の顔が青ざめ、その視線が一瞬だけ、きつく握られた彼女の小さな拳へと落ちた。そして、ひどく怯えたように瞳が泳いだ。
「……チッ」
父親は短く舌打ちをすると、脱兎のごとくアパートの入り口へ逃げていった。
残されたサキちゃんの背中は、小刻みに震えていた。
なんてことだ。あんな大男に凄まれても、俺を庇うために立ちはだかるなんて。
「……ごめんね。ありがとう」
俺の言葉に、彼女は振り返り、弱々しく笑った。
「いいえ。お父さん、お酒が入ると気が大きくなっちゃうから」
このままじゃいけない。
俺はずっと、壁の向こうの真実を知りながら、イヤホンで耳を塞ぎ、見て見ぬふりをしてきた。
だが、限界が近いのだ。せめて、ほんのひと時だけでも、彼女をあの部屋から連れ出してあげなければ。
「ねぇ、サキちゃん。よかったらだけど、遊園地にでも行かないかい?」
俺が彼女と出かける前日の夜、壁越しに聞こえてきた「教育」の叫び声は、普段よりも陰湿で、ひどく厳しさを感じるものだった。明日家を空けるという理由で、彼女がいつも以上に酷い目に遭わされているのではないかと、俺は暗い部屋で一人、嫌な胸騒ぎを覚えていた。
だが数日後の休日、待ち合わせ場所に現れたサキちゃんはケロリとしていた。俺が「ご両親、本当に大丈夫かな」と気遣うと、彼女は「大丈夫ですよ、ちょっとくらい。今ごろ、二人とも羽を伸ばしてノンビリしてますよ」とさらっと言ってのけた。
俺はサキちゃんを遊園地へと連れ出した。
園内では、絶叫マシンで内臓を揺さぶられ、お化け屋敷で肝を冷やした俺がすっかり気分を悪くしてぐったりしているのに反し、正反対に彼女はピンピンしていた。彼女は出店のクレープを頬張り、年相応の少女のように無邪気にはしゃいだ。
クリームを口元につけたまま、「あ」と小さく笑う。俺が指摘すると、彼女は慌ててカーディガンの袖で拭って、少しだけ照れた。
だが時折、ふと見せる冷たく澄んだ眼差しが、俺を現実に引き戻す。彼女は何度もスマホで時間を確認していた。
少し日が傾いた帰り道のさなか。
俺たちは、大きな川沿いの遊歩道を歩いていた。川面が茜色に染まっている。夢の時間の終わりだ。
俺は立ち止まり、拳を握りしめて、震える声を絞り出した。
「サキちゃん」
「はい? 楽しかったですね、また――」
「ご両親に暴力を振るうのは、もう止めるんだ」
空気が、凍りついた。
彼女の笑顔が、能面のようにすっと剥がれ落ちる。
だが、そこに自分の秘密を暴かれたような驚愕は一切なかった。ついさっきまでクリームをつけて無邪気に笑っていた子供の顔は、そこにはもう無い。
「……今更過ぎませんか?」
冷めた表情で、彼女はそう言い放った。
初めて見る、ひどく大人びた冷ややかな顔だった。彼女は、俺が壁越しの真実を知っていることに、初期からずっと気づいていたのだ。あの安普請の薄い壁で、声も音もすべて筒抜けになっていることなど、当然分かっていた。
「お兄さん、最初から知ってたじゃないですか。怒鳴っているのが私で、泣いて謝っているのがあの人たちだってこと」
サキちゃんは薄く口を結び、俺を静かに睨みつけた。
「……どうして、今日誘ったんですか」
その声は低く、あの夜に壁越しに聞いた「教育者」の響きそのものだった。
「ああ。君の話を聞きたいと思ったから」
俺の言葉に、サキちゃんは深いため息をつき、長い沈黙の後、肩を震わせ始めた。
「……仕方なかったの」
ぽつりと、彼女が漏らす。
「三年前まで住んでたアパートを追い出される時、私、すごく惨めな思いでした」
彼女は語り始めた。淡々と、まるで業務報告をするように。
母親は重度の「溜め込み症」だった。もったいないからと物を捨てず、近隣とトラブルになり強制退去させられた。
「お父さんは、普段は『まだ』大人しいんです。でも、お酒を飲むと別人みたいになる。前の会社も、その前の会社も、お酒で暴力沙汰を起こしてクビになりました。反省なんてしない。動物と同じなの。言葉なんて通じない」
彼女の瞳には、憎しみよりも深い、無機質な絶望が宿っていた。
「いっそ、刑務所にでも入ってくれればって思った。そうすれば、無理やりにでも規則正しい生活をさせられるから。でも、警察はすぐに帰しちゃう。……だから、私が管理するしかなかったの」
「だって、あの人たち、私がいないと生きていけないでしょ?」
彼女は俺を見上げた。
「だって、ゴミ屋敷のせいで火事が起きたり、喧嘩の勢いで誰かを殺しちゃったりしたらと思うと、気が気じゃないんです! 私がコントロールしないと、あの人たちはまた周りに迷惑をかける。私の人生を、もっとぐちゃぐちゃにする!」
「だから……暴力で、従わせたのか」
「酔うとお父さんは加減知らずになるけど、動きが分かりやすくなる。関節を狙ったり、他にも急所を力いっぱい叩いたりする! そうしたらお母さんは震え上がって無抵抗になる。後は、大事なものを捨てるって脅したり、約束を破ったら叩いたり、食事を抜いたりする。痛みと恐怖を与えないと覚えないから! そうやってルールを作らないと、あの人たちは人間として生きられないの!」
彼女は叫び、俺の胸に顔を埋めて泣き崩れた。
俺は彼女の背中に手を回す。
その瞬間、俺の胸に押し付けられた彼女の体は、子供とは思えないほどしっかりとしていて、同時にひどく脆かった。
――ああ、そういうことだったのか。
彼女が蒸し暑い真夏でも、オーバーサイズのカーディガンをまとっていた理由。
それは虐待のアザを隠すためではない。小学生という枠組みから外れてしまった、大人びていく自身のシルエットを隠すためだったのだ。
周囲の――俺を含めた「男」という生き物の視線が、彼女にとってはただただ恐怖であり、嫌悪の対象でしかなかったのだろう。
今、彼女がそのコンプレックスである体を、なりふり構わず俺に預けている。
それは誘惑などではない。
『見逃して欲しい』
言葉にならない、必死の懇願だった。
だが同時に、助けを求めているようにも見えた。あんな健全からかけ離れた日常が、彼女の心身にとって良い影響などあるはずも無い。
彼女は、モンスターではない。
親の介護と管理を強制され、さらには自らの体という檻にも閉じ込められた、たった一人の子供だ。
このままでは、彼女は本当に両親を殺してしまうかもしれない。あるいは、彼女自身の心が完全に壊れ、戻れなくなってしまう。
「……もう、いいんだ」
俺は彼女の頭を撫でた。
「君が背負わなくていい。もう、十分頑張ったよ」
俺はポケットからスマホを取り出し、ある番号を表示させた。
一一〇番ではない。
一八九番――児童相談所虐待対応ダイヤル。
「お兄さん……?」
「俺が通報する。君が限界を迎えて、両親に暴力を振るっていると」
俺は、英雄になんてなれない。彼女の人生を背負う覚悟も、資格もない。今までイヤホンで耳を塞ぎ、見て見ぬふりをしてきた共犯者だ。
だが、これ以上彼女が壊れていくのを、黙って見過ごすことだけはできなかった。
「もしもし」
オペレーターの声が聞こえる。
俺はサキちゃんを抱きしめたまま、はっきりと告げた。
「通報です。隣の部屋の子供が限界を迎えて、親に暴力を振るって……助けを求めて泣いています。このままじゃあの子の心が完全に壊れてしまう。すぐに来てください」
俺の胸の中で、サキちゃんが息を呑む気配がした。そして次の瞬間、彼女は俺の服を掴み、声を殺して泣き始めた。
それは冷酷な管理者の涙ではなく、ようやく重荷を下ろせた子供の涙だった。
***
数日後の休日。俺は不運にも休日出勤をする羽目になり、早朝からアパートを出た。
すると、一〇六号室の前が慌ただしい。引っ越しだ。
業者の手によって家具がトラックに積み込まれ、両親も項垂れるようにして黒塗りのアルファードに乗り込んでいく。
サキちゃんは、少し離れた場所に停められたシルバーの軽ワゴンの横に立っていた。
後日、事情を聞きに来た児童相談所の職員から少しだけ話を聞くことが出来た。暴力を振るうという異常な行為から、彼女自身がひどく精神的に病んでいると判断されたらしい。「彼女の心の安定を考えて、ご両親とは引き離して保護するのが望ましいという結論になりました」とだけ教えられた。
運転席には、その時の中年の女性職員が座っている。
俺たちは、ほんの一瞬、目が合った。
「……おはようございます」
彼女が小さく頭を下げる。
「おはよう」
俺は会釈を返した。
いつもの、あの花が咲くような愛想笑いもなければ、何かを期待するような上目遣いもない。ただの「お隣さん」同士の挨拶。
普段自分に見せていた、あのあどけないように思えた笑顔も、家庭事情に踏み込まないで欲しいという無言の威圧を兼ねていたのだろうと、今にして気付いた。
サキちゃんは、俺に背を向けると、小さなキャリーケースを持って後部座席に乗り込んだ。
一度も振り返ることはなかった。
その背中は、以前見た時よりもずっと小さく、けれど奇妙なほど真っ直ぐに見えた。
軽ワゴンのエンジン音が遠ざかり、アパートの廊下には、いつもの静けさが戻った。
もう、夜中に壁越しの「教育」を聞くことはない。
それが正解だったのかどうか、俺には分からない。彼女は施設で、あるいは里親の元で、平穏を見つけられるだろうか。
ただ一つだけ、分かっていることがある。
あの少女は、俺の人生を救ってはいない。
俺も、彼女の人生を救ってはいない。
それでも。
ほんの一瞬、同じ壁の向こうで生きていた時間があったことを、俺はきっと忘れない。
どうか、彼女の前途に、拳を振り上げなくて済む穏やかな日々があるように。
それだけを、心の中で祈りながら、俺は空になった一〇六号室のドアを見た。
ドアノブには、母親がどこかから拾ってきたのだろう、使い古されたプラスチックのシューズハンガーがポツンと引っかかったまま揺れている。
俺はその生々しい家族の残骸から目を逸らし、駅へと歩き出した。
完




