「君の作る香りには、もう何も感じない」と婚約破棄された調香師ですが、私の香りが届くのは私を本当に見てくれる人だけなので、今さら戻ってきてと言われても困ります
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
第一章 砕かれた調べ
「君の作る香りには、もう何も感じない」
シャンデリアの眩い光の下、その言葉は驚くほど明瞭に響いた。
周囲の喧騒が一瞬にして遠のく。グラスの触れ合う音、令嬢たちの笑い声、楽団の優雅な調べ——その全てが水底に沈んだように歪んで聞こえた。
「……レオンハルト様」
私、セラフィーナ・ヴェルデュールは、三年間婚約者として寄り添ってきた男性の顔を見上げた。金髪碧眼の端正な容姿。社交界の花形と謳われるシュヴァルツェン公爵家の嫡男。その美しい唇から紡がれた言葉の意味を、頭が理解することを拒んでいる。
「聞こえなかったか? 婚約は破棄だ」
夜会の中心、数百の視線が集まる大広間のど真ん中で。
彼は躊躇いもなく、そう宣告した。
「妹のリリアーナの方がよほど才能がある。君のような凡庸な調香師に、公爵家の名を背負わせるわけにはいかない」
——凡庸。
その言葉が胸に突き刺さる。三年間、彼のために調合し続けた香りは凡庸だったのか。毎晩遅くまで工房に籠り、彼の慢性的な頭痛を和らげる香りを探し求めた日々は。彼が少しでも穏やかに眠れるようにと、何百という組み合わせを試した夜は。
全て、無意味だったと言うのか。
「お姉様、ごめんなさいね」
背後から甘い声が降ってきた。振り返れば、蜂蜜色の巻き毛を揺らした義妹——リリアーナが、大きな翠色の瞳を潤ませている。
「私、レオンハルト様のことをお慕いしていたの。でも、お姉様の婚約者だからって、ずっと我慢してて……」
その『我慢』とやらをしている間に、私の工房に何度も忍び込んでいたことは知っている。私の調合書を写し取り、顧客名簿を盗み見ていたことも。
けれど私は何も言わなかった。
言っても無駄だと知っていたから。この義妹が涙を流せば、周囲の誰もが彼女の味方になる。可憐で無邪気な少女を演じることにかけて、リリアーナは天才だった。
「セラフィーナ」
レオンハルトが冷たく言い放つ。
「工房は明日からリリアーナに引き継いでもらう。顧客名簿も、調合書も、全てだ。君に公爵家の財産を持ち出す権利はない」
息が止まりそうになった。
工房——私が十五の頃から育ててきた場所。病弱だった母の看病をしながら、夜を徹して香りの研究を重ねた場所。
顧客名簿——三年間、一人一人の好みと体質を丁寧に記録し、その人だけの香りを提案してきた、私の全ての結晶。
調合書——『香譜視』で視た色彩と旋律を、言葉に置き換えようと苦心した、誰にも真似できない私だけの記録。
「……承知、いたしました」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。
周囲からひそひそ声が聞こえる。「やはり義妹の方が華やかだったもの」「地味な調香師より、リリアーナ様の方がお似合いよ」「公爵家にはふさわしくなかったのよ」
——ええ、そうかもしれませんね。
私は心の中で呟いた。
どうせ私には、あと二年しかないのだから。
半年前、王都一の医師から告げられた言葉が蘇る。『香譜視』の代償——魂を香りに変換する力は、使い続ければ命を削る。余命二年。それが、私に残された時間だった。
だからこそ、残された時間で最高の香りを遺したいと思った。レオンハルトのために。公爵家のために。私を受け入れてくれた全ての人のために。
その献身が、こうして踏みにじられている。
「では、私はこれで」
深く頭を下げる。涙は出なかった。泣くことさえ、もう疲れてしまったのかもしれない。
振り返り、大広間を横切る。数百の視線が私の背中に突き刺さる。嘲笑する者、同情する者、無関心な者——様々な感情が渦巻く中、私は一歩一歩、出口へと向かった。
ふと、視界の端に色が見えた。
——深い紫紺。
思わず足を止める。大広間の隅、柱の陰に佇む男性。漆黒の髪に、憂いを帯びた紫紺の瞳。見覚えのない顔だった。おそらく隣国からの賓客だろう。
彼は私をじっと見つめていた。その眼差しには、嘲笑も同情もなかった。
ただ——何かを見定めるような、深い静けさがあった。
一瞬の邂逅。
私は目を逸らし、再び歩き出す。
もう振り返るまい。この場所にも、この人々にも。三年間の全てを捧げた王都に、未練などない。
——嘘だ。
未練はある。工房への愛着も、顧客への申し訳なさも、まだ胸の奥で燻っている。
けれど、もう疲れた。
誰かのために香りを作ることに、もう疲れてしまったのだ。
夜会の扉が閉まる音が、まるで私の過去との決別を告げているようだった。
◇◇◇
屋敷に戻ると、既に私の私物は纏められていた。
「セラフィーナ様」
銀縁眼鏡の執事、オスカーが沈痛な面持ちで立っていた。彼だけは、この三年間、私の仕事ぶりを正当に評価してくれた数少ない人間だった。
「オスカー。お世話になりました」
「……本当に、よろしいのですか」
「よろしいも何も、決まったことですから」
私は微笑んだ。もう何度繰り返したかわからない、従順な令嬢の仮面。
オスカーの眼鏡の奥で、複雑な感情が揺れている。彼は知っているのだ。レオンハルト様の頭痛が治まっていたのは私の香りのおかげだということを。リリアーナが社交界で輝けたのは、私が密かに調合した自信を与える香りのおかげだということを。
けれど彼は何も言えない。主家への忠誠が、真実を語ることを許さない。
「どうかお元気で」
私は小さな鞄を手に取った。工房も、調合書も、顧客名簿も、全て奪われた。残ったのは、身一つと、僅かな着替えと、母の形見の香水瓶だけ。
「セラフィーナ様」
オスカーが思い詰めた声で呼び止める。
「……いつか、必ず真実は明らかになります」
「ええ」
私は振り返らずに答えた。
「でも、その頃には私はもう——」
言葉を飲み込む。余命のことは、誰にも言っていない。言う必要もない。
「さようなら、オスカー」
屋敷を出る。夜風が頬を撫でた。
見上げれば、満天の星空。こんなに美しい夜に、私は全てを失った。
——いや。
失ったのではない。奪われたのだ。
三年間の献身。無数の眠れない夜。心血を注いだ香りの全て。
それを、何の価値もないと切り捨てられた。
「……馬鹿みたい」
呟きは夜空に溶けて消えた。
本当に馬鹿だった。誰かに認められたくて、必死に尽くして。余命を知った後も、残された時間で誰かを幸せにしようなんて。
結局、私の香りは誰にも届かなかった。
……本当に、そうだろうか?
ふと、大広間で見かけた紫紺の瞳が脳裏をよぎる。あの男性は、他の誰とも違う眼差しで私を見ていた。
何を見ていたのだろう。何を感じていたのだろう。
首を振る。もう関係ない。王都を去れば、二度と会うこともない相手だ。
私は歩き出した。行く宛てなどない。ただ、この場所から離れたかった。
誰も私の価値を知らない場所へ。
誰にも期待されない場所へ。
残された時間を、今度こそ自分のためだけに使える場所へ——。
第二章 潮騒の工房
王都を発って三日後、私は港町ミラベルに辿り着いた。
潮風が髪を攫う。王都の澱んだ空気とは違う、生きた海の香りが肺を満たした。
『香譜視』が自然と発動する。海の香りが——深い群青と、波のような旋律となって視界に広がった。
……ああ、綺麗だ。
王都では見たことのない色彩。公爵家の重苦しい香水とは全く異なる、自由で奔放な調べ。
ここなら、あるいは——。
「あら、迷子かしら?」
不意に声をかけられた。振り返ると、銀灰色の髪を簡素にまとめた女性が立っていた。五十代半ばだろうか。皺の刻まれた顔に、温かな笑みを浮かべている。
「いえ、その……」
「見ない顔ね。どこから来たの?」
「王都から」
女性の目が少し見開かれた。
「王都? 随分遠くから……何か訳ありかしら」
鋭い。この女性、ただの町人ではないかもしれない。
「少し、休める場所を探していて」
「そう」
女性は私をじっと見つめた。その眼差しには、好奇心と、不思議な優しさが混ざっていた。
「私はマルグリット。この先で薬草店をやっているの。よかったら寄っていきなさい。疲れた顔をしているわ」
断る理由もなかった。私はマルグリットの後について、狭い路地を進んだ。
◇◇◇
薬草店は、古びた建物の一階にあった。
扉を開けた瞬間、無数の香りが押し寄せる。ラベンダー、ローズマリー、カモミール——そして、私の知らない珍しいハーブたち。
『香譜視』が反応する。それぞれの薬草が持つ色彩と旋律が、万華鏡のように視界を彩った。
「あなた」
マルグリットが驚いた声を上げた。
「今、何を見ているの?」
——しまった。
無意識に能力を使っていた。王都では常に抑えていたのに、この場所の豊かな香りに、つい心が緩んでしまった。
「いえ、何も……」
「嘘おっしゃい」
マルグリットは鋭く言った。けれどその声に非難の色はない。
「あなた、香りが視えるのね」
心臓が跳ねた。
「なぜ、そう思うのですか」
「昔、王都で侍女をしていた時に聞いたことがあるの。香りを色や音として感じる人がいるって。とても稀な才能だと」
マルグリットは私を真っ直ぐに見据えた。
「あなた、調香師でしょう?」
観念するしかなかった。私は小さく頷いた。
「……以前は」
「以前は?」
「もう、やめました」
言葉にすると、胸が痛んだ。三年間の全てを否定された夜が蘇る。
「誰かのために香りを作るのは、もうやめたんです」
マルグリットは黙って私を見つめていた。それから、静かに言った。
「じゃあ、自分のために作ればいいじゃない」
「……え?」
「あなたの香りは、あなた自身のために作っていいのよ」
その言葉は、乾いた砂地に染み込む水のように、私の心に沁みた。
自分のために。
考えたこともなかった。私はいつも誰かのために香りを作ってきた。母のために。義父のために。リリアーナのために。レオンハルトのために。公爵家の顧客のために。
自分が本当に作りたい香りなど、考える余裕すらなかった。
「この店の裏に、空いている部屋があるの」
マルグリットが言った。
「昔は工房として使っていたんだけど、今は物置になっていてね。よかったら使う?」
「でも、私には支払えるものが……」
「いいのよ。そんなものは」
マルグリットは笑った。
「あなたの目を見ればわかるわ。香りを愛している人の目をしている。そういう人を放っておけない性分なの」
涙が溢れそうになった。こらえようとしたが、駄目だった。
「あら、あら」
マルグリットが困ったように笑う。
「泣くほどのことじゃないでしょう。ただの古い部屋よ」
「……すみません」
私は袖で目元を拭った。みっともない。見ず知らずの人の前で泣くなんて。
「いいのよ。誰だって泣きたい時はあるわ」
マルグリットは私の背中をそっと撫でた。
「ゆっくり休みなさい。この町は静かよ。傷を癒すにはちょうどいいわ」
◇◇◇
その夜、私は裏の小部屋で一人、天井を見つめていた。
狭いけれど清潔な部屋。窓からは港の灯りと、潮騒の音が届く。
——自分のために作る。
考えれば考えるほど、それは途方もないことに思えた。
これまでの私は、常に誰かの望む香りを作ってきた。レオンハルトの頭痛を和らげる香り。リリアーナに自信を与える香り。貴婦人たちを魅了する香り。
自分の望みなど、後回しにしてきた。
いや——気づかないふりをしてきた。
本当は、ずっと作りたい香りがあった。
命の儚さと美しさを表現した香り。
生きることの痛みと、それでも生き続ける強さを、香りで表現したかった。母を看取った日に感じた、あの複雑な感情を。悲しみと安堵と、それでも続いていく日常の匂いを。
それは誰も求めていない香りだった。貴族社会では、死を連想させるものは忌避される。華やかで、明るく、人を魅了する香りこそが求められる。
だから、私は封印してきた。自分の本当の望みを。
「……でも」
呟きが漏れた。
「もう、誰かのために作る必要はないんだ」
余命はあと一年半。この身体がもつ限り、私は香りを作り続けるだろう。
ならば——。
最後くらい、自分の作りたいものを作ってもいいのではないか。
決意が胸に灯った。小さな、けれど確かな炎。
もう誰のためでもない。私は私のために香りを作る。
残された時間で、本当に遺したかったものを——。
◇◇◇
翌朝から、私は工房の整備を始めた。
マルグリットが貸してくれた部屋は、確かに古かったが、基本的な設備は整っていた。蒸留器、濾過器、様々な大きさのガラス瓶。かつて薬草の精油を作っていた名残だろう。
「ずいぶん手際がいいのね」
マルグリットが感心したように言った。私の作業を眺めている。
「三年間、工房で働いていましたから」
「王都の? 大きなところ?」
「……ええ。シュヴァルツェン公爵家の」
マルグリットの目が見開かれた。
「公爵家の調香師だったの? あなた」
「調香師というか……婚約者、でした」
「でした?」
「先日、婚約を破棄されまして」
マルグリットは何も言わなかった。ただ、理解したような目で私を見た。
「……そう。大変だったわね」
「いえ。もう終わったことですから」
私は蒸留器の配置を調整しながら言った。不思議と心は穏やかだった。あの夜の痛みは消えていないけれど、ここにいると、少しだけ呼吸がしやすい。
「何を作るの?」
マルグリットが訊いた。
「まだ、決めていません。でも——」
私は窓の外を見た。港の向こうに、朝陽を浴びた海が広がっている。
「本当に作りたかったものを、作ろうと思います」
マルグリットは微笑んだ。
「それはいいわね。楽しみにしているわ」
◇◇◇
それから数週間、私は試行錯誤を続けた。
まず取りかかったのは、母の記憶を閉じ込めた香りだった。
彼女は病弱で、私が十五の時に亡くなった。けれどその短い生涯で、彼女は私に多くのことを教えてくれた。薬草の扱い方。香りの基礎知識。そして——人の痛みに寄り添うことの大切さ。
『香譜視』を使い、記憶を辿る。母が好んでいた百合の香り。看病の夜に焚いていたお香。最後の日、彼女の髪を梳いた時の、かすかな石鹸の残り香。
それらを、一滴一滴、調合していく。
完成した香りを、初めて嗅いだ時。
私は泣いた。
静かに、静かに、涙が頬を伝った。
悲しみだけではない。懐かしさ、温もり、そして——もう二度と会えない人への、確かな愛情。
これだ、と思った。私が本当に作りたかったのは、こういう香りだ。
人を魅了するためでも、病を癒すためでもない。
ただ——心に寄り添う香り。
生きることの痛みを、そっと包み込む香り。
「いい香りね」
いつの間にか、マルグリットが傍らに立っていた。
「少し嗅がせてもらってもいい?」
私は小さな試香紙を差し出した。マルグリットはそれを鼻に近づけ、静かに目を閉じた。
しばらくして。
「……ああ」
彼女は深い溜息をついた。
「私の母を思い出したわ。もう三十年も前に亡くなったのに。不思議ね、香りって」
「そう、ですか」
「これ、売り物にするの?」
「いえ……これは私のための香りですから」
マルグリットは微笑んだ。
「そう。でもね、あなた」
彼女は私の目を真っ直ぐに見た。
「自分のために作った香りこそ、人の心に届くものよ。私は長いこと生きてきたけど、それだけはわかるの」
その言葉の意味を、私はまだ完全には理解できていなかった。
けれど——何かが心に引っかかった。
自分のために作った香りが、人の心に届く。
それは矛盾しているようで、不思議と腑に落ちる響きがあった。
◇◇◇
工房での日々は、静かに過ぎていった。
朝は港を散歩し、潮風の中で新しい香りの構想を練る。昼はマルグリットの薬草店を手伝い、夜は工房で調合に没頭する。
身体の調子は、正直に言えばあまり良くなかった。『香譜視』を使うたびに、微かな目眩と倦怠感が襲う。医師が言っていた通り、能力の代償は確実に私の命を削っている。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
——いつか来る終わりを受け入れているのかもしれない。
残された時間で、できるだけ多くの香りを遺したい。それが今の私の全てだった。
「セラフィーナ」
ある日の夕方、マルグリットが工房を訪ねてきた。
「お客様よ」
「お客様? 私に?」
心当たりがない。この町に知り合いはいないはずだ。
「旅の方みたいね。あなたの香りの噂を聞いて来たんですって」
噂? 私は誰にも香水を売っていない。ただマルグリットに試させただけで——。
ああ、そうか。彼女の関節痛が和らいだ話が、どこかに伝わったのかもしれない。
「どんな方ですか?」
「若い男性よ。貴族っぽい雰囲気だけど、身なりは質素ね。隣国からの旅人かしら」
隣国。その言葉に、なぜか心がざわついた。
「……わかりました。お通しします」
私は工房の入口に向かった。
扉を開けた瞬間——。
深い紫紺の瞳と、目が合った。
あの夜。夜会の大広間で、私を見つめていた男性。
「……っ」
息が止まる。なぜ、ここに?
「やっと見つけた」
男性は静かに言った。その声には、安堵と——何か別の感情が混ざっていた。
「あなたの香りを、もう一度視たかった」
——視たかった?
私は混乱したまま、この紫紺の瞳の持ち主を見上げた。
第三章 紫紺の瞳
「……どういう、意味ですか」
私は警戒心を隠さずに問うた。
王都から追いかけてきた? あの夜会で一度目が合っただけの相手が? それは——怖い。率直に言って、かなり怖い。
「すまない。唐突だった」
男性は一歩下がった。距離を取る気遣いが見えた。
「自己紹介がまだだった。私はクロード。隣国アステリオンから来た、ただの旅人だ」
アステリオン。確か、この大陸で最も豊かな王国だったはずだ。けれど目の前の男性は、その出身にしては随分と質素な身なりをしている。
「クロード様。私に何の御用ですか」
「香りを——」
彼は言葉を切った。その紫紺の瞳が、僅かに揺れる。
「いや、順を追って話そう。まず、あの夜会で何があったか、説明させてほしい」
「夜会?」
「シュヴァルツェン公爵家の夜会だ。私は隣国からの使節団に同行していた」
ああ、だからあの場にいたのか。納得はしたが、疑問は消えない。
「あなたが婚約破棄を告げられた時、私はあの場にいた」
「……ええ。覚えています。柱の陰から、こちらを見ていましたね」
「見ていた」
彼は頷いた。その表情には、不思議な感情が宿っていた。
「いや、正確には——視ていた。あなたの纏っていた香りを」
再び、その言葉。視る。
「どういう意味ですか。香りを視る、とは」
「説明が難しい。だが——」
クロードは深く息を吐いた。
「私は幼少期に母を亡くした。その時のトラウマで、嗅覚を失った」
「嗅覚を……」
「もう十五年以上、香りのない世界を生きてきた。花の香りも、食事の香りも、何も感じない。灰色の世界だ」
その言葉に、胸が痛んだ。香りを愛する私にとって、それは想像を絶する苦しみだろう。
「けれど、あの夜」
彼の紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「あなたが大広間を横切った時、私は——香りを視た」
「……視た?」
「色彩として。旋律として。まるで——そう、琥珀色に輝く光の帯が、あなたの後を追いかけていくように」
息が止まった。
琥珀色。それは——私が調合していた香りのイメージそのものだ。
「十五年間、何も感じなかった。どんな高級な香水も、どんな強い香りも、私の感覚には届かなかった。なのに——」
彼は一歩、私に近づいた。
「あなたの香りだけが、視えた」
◇◇◇
私たちは工房の中で向かい合って座っていた。
マルグリットが淹れてくれた茶が、湯気を立てている。
「信じられないかもしれないが、嘘ではない」
クロードは静かに言った。
「あの夜から、私はあなたを探していた。使節団の任務を終えた後も、王都に残って情報を集めた。シュヴァルツェン公爵家の元婚約者が、王都を去ったという噂を聞いて、各地を巡ってここに辿り着いた」
「……三週間も、私を探して?」
「ああ」
「なぜ、そこまで」
彼は少し考え込んだ。
「わからない——というのが、正直なところだ」
意外な答えだった。
「ただ、確かめたかった。あなたの香りをもう一度視ることができるのか。それとも、あの夜の体験は幻だったのか」
私は黙って彼を見つめた。
嘘をついている様子はない。その紫紺の瞳は、深い困惑と、かすかな切望を宿している。
——この人も、何かを失っているのだ。
そう気づいた瞬間、警戒心が少しだけ緩んだ。
「……わかりました」
私は立ち上がり、棚から小さな香水瓶を取った。昨日調合したばかりの、新しい試作品。
「これを嗅いでみてください」
クロードは受け取り、瓶を鼻に近づけた。
目を閉じる。しばらくの沈黙。
そして——彼の表情が、変わった。
「……視える」
囁くような声。
「淡い紫。それから——旋律が……静かなピアノのような、波のような……」
私の心臓が跳ねた。
それは、私が『香譜視』で視ていたものと、ほぼ一致していた。
「あなた、視えるのですか。本当に」
「ああ。だが——これだけだ」
彼は瓶を置いた。
「他の香りは、やはり何も感じない。試しにここに来る前、市場で色々な香りを嗅いでみた。花も、香辛料も、何も。だが、あなたの香りだけは——」
「視える」
「そうだ」
不思議な現象だった。『香譜視』は私だけの能力だと思っていた。なのに、この男性は——私の香りだけを、同じように視ることができる?
なぜ。どうして。
「理由はわからない」
クロードは私の疑問を読んだように言った。
「だが、一つだけ確かなことがある」
「何ですか」
「あなたの香りは——特別だ」
◇◇◇
「奇妙な縁もあったものね」
マルグリットが呟いた。夕食の席で、私は彼女にクロードのことを話していた。
「本当に香りが視えるの? その人」
「ええ。私が『香譜視』で視ているものと、ほぼ同じものを視ているようです」
「不思議ねえ……」
マルグリットはスープを啜りながら考え込んだ。
「ねえ、セラフィーナ」
「はい」
「あなたの香りには、何か特別な力があるのかもしれないわ」
「特別な力?」
「だって、そうでしょう。私の関節痛だって、あなたの香りを嗅ぎ始めてから随分楽になったわ。それに、そのクロードという人は、あなたの香りだけが視える。普通の香りじゃないのよ、あなたが作るものは」
私は黙った。
特別な力。
思えば——レオンハルトの頭痛が治まっていたのも、リリアーナが社交界で輝けたのも、私の香りのおかげだった。それは自分でも薄々気づいていた。
けれど、そのことを誰にも言わなかった。言っても信じてもらえないと思ったから。そして——自分の価値を主張することに、どこか罪悪感があったから。
「あなたはね、自分の才能を過小評価しすぎよ」
マルグリットが言った。
「王都でどんな扱いを受けたか知らないけど、あなたの香りは本物よ。それだけは確かだわ」
胸の奥が熱くなった。
三年間、誰にも認められなかった。婚約者にも、義妹にも、社交界の人々にも。私の香りは『凡庸』だと切り捨てられた。
なのに——この港町で、見ず知らずの人々が、私の香りを認めてくれる。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
「マルグリットさんには、本当に感謝しています」
「何言ってるの。私はただ、見たままを言っているだけよ」
マルグリットは笑った。
「さて、そのクロードという人——明日も来るのかしら」
「ええ。香りについてもっと教えてほしい、と言っていました」
「ふうん。なかなか熱心ね」
マルグリットの目が、いたずらっぽく光った。
「隣国から来た、ミステリアスな美青年。悪くないじゃない」
「マルグリットさん!」
「はいはい。年寄りの戯れ言よ」
彼女はくすくす笑いながら、スープの残りを飲み干した。
◇◇◇
翌日から、クロードは毎日工房を訪れるようになった。
彼は私の作業を静かに見守り、時折質問をした。香りの調合について。素材の選び方について。そして——私の『香譜視』について。
「色として視える、というのは具体的にどういう感覚なんだ?」
「うまく説明できないのですが……例えばこのラベンダー」
私は小瓶を取り、蓋を開けた。
「これを嗅ぐと、私には淡い紫色の波が視えます。静かで、緩やかな旋律。心を落ち着かせる効果があるのは、この穏やかな色彩のせいかもしれません」
「なるほど……」
クロードは真剣に聞いていた。
「私が視たものと、似ている気がする」
「あなたが視る色と、私が視る色が一致しているとしたら——」
「何か共通点があるのかもしれない。私たちの間に」
「共通点……」
クロードは考え込んだ。
「私の嗅覚が失われたのは、母の死がきっかけだった。トラウマによるものだと医師は言っていた」
「お辛い経験でしたね」
「ああ。けれど——」
彼は私の目を見た。
「あなたの香りを視た時、不思議と苦しくなかった。むしろ——温かかった」
「温かい?」
「母の記憶に触れるのは、いつも痛みを伴う。けれど、あなたの香りには——痛みを和らげる何かがある」
私は息を呑んだ。
——纏う者の心を癒す効能。
それは、私の香りが持つと言われていた力だった。レオンハルトの頭痛を和らげ、マルグリットの関節痛を楽にした、あの力。
もしかして——心の傷にも、効くのだろうか。
「クロード様」
私は新しい試作品を取り出した。
「これを試していただけますか」
「何だ?」
「心の痛みに寄り添う香りを、作ろうとしています。まだ完成していないのですが——」
クロードは瓶を受け取った。
蓋を開け、静かに香りを嗅ぐ。
彼の表情が——変わった。
「……これは」
紫紺の瞳が、微かに潤んでいた。
「母の——いや、これは違う。けれど——」
言葉が途切れる。彼は瓶を握りしめ、目を閉じた。
「温かい。本当に、温かい」
私は黙って彼を見守った。
彼の頬を、一筋の涙が伝った。
「十五年間、泣けなかった」
掠れた声。
「母が死んだ時も、葬儀の時も、一度も泣けなかった。泣いたら、認めることになる気がして」
「認める?」
「母がもういないということを」
彼は目を開けた。涙に濡れた紫紺の瞳が、私を見つめる。
「あなたの香りが——初めて、それを許してくれた気がする」
私の心が、大きく揺れた。
自分のために作った香りが、人の心に届く——マルグリットの言葉が蘇る。
これなのだ。私が本当に作りたかったのは。
誰かを魅了するためでも、病を癒すためでもない。
心の奥底に閉じ込めた痛みを、そっと解きほぐす香り。
生きることの苦しみに、静かに寄り添う香り。
「ありがとう」
クロードが言った。
「ありがとう、セラフィーナ」
その言葉に、私は涙が出そうになった。
これまで誰にも言われたことのない言葉。私の香りに対する、心からの感謝。
——ああ。
私は、ここにいてよかったのかもしれない。
王都を追われ、全てを失って、それでもここに辿り着いて。
この港町で、自分のために香りを作り始めて。
初めて——本当に初めて、私の香りが誰かの心に届いた。
「こちらこそ」
私は微笑んだ。
「ありがとうございます。クロード様」
第四章 届かぬ調べ
その頃、王都では——。
◇◇◇
「何よ、これ!」
リリアーナの甲高い叫びが、工房に響き渡った。
「レシピ通りに作ったのに、全然違う香りになるじゃない!」
彼女の目の前には、姉から奪い取った調合書が広げられている。セラフィーナが三年間かけて書き留めた、膨大な記録。
しかし——。
「淡い琥珀に、柔らかな旋律を重ねて……って、何よこれ。意味がわからないわ!」
リリアーナは調合書を床に叩きつけた。
セラフィーナの記録は、通常の調香師には理解できない言葉で綴られていた。色彩と旋律。それは『香譜視』を持つ者にしか意味をなさない表現だった。
リリアーナには『香譜視』がない。だから、レシピ通りに素材を混ぜても、セラフィーナが作った香りとは全く異なるものしかできなかった。
「お嬢様」
工房の助手が恐る恐る声をかけた。
「ブラントン伯爵夫人から、苦情が……」
「苦情?」
「先日お渡しした香水で、肌荒れを起こされたと……」
リリアーナの顔色が変わった。
「また? これで三人目よ!」
「はい……他にも、ミラーズ侯爵夫人、ウェイクフィールド子爵夫人……」
「もういい! 黙って!」
リリアーナは助手を睨みつけた。
なぜうまくいかないのか、彼女には理解できなかった。レシピは同じ。素材も同じ。なのに、出来上がる香りは全く違う。
姉が作っていた時は、誰も肌荒れなど起こさなかった。むしろ、香りを纏うと調子が良くなると評判だった。
——何が違うの?
リリアーナは調合書を睨んだ。そこに書かれた、意味不明な言葉の数々。
「色」だの「旋律」だの、ふざけているとしか思えない。
「お嬢様」
再び助手が声をかけた。
「レオンハルト様が、頭痛がひどいとおっしゃっています。以前セラフィーナ様が調合されていた香水を求めておいでです」
「あれは——もう作れないわ」
リリアーナは苦々しく言った。
あの香水のレシピも調合書にあった。けれど、何度試しても同じものは作れなかった。
「適当に、頭痛に効きそうな香りを調合して」
「はい……」
助手は不安そうな顔で作業を始めた。
◇◇◇
執務室で書類と格闘していたレオンハルトは、こめかみを押さえて顔をしかめた。
頭が割れそうに痛い。
セラフィーナを追い出してから、この頭痛は日に日にひどくなっていた。以前は彼女が調合した香りを嗅ぐだけで、嘘のように痛みが引いたのに。
「……くそ」
舌打ちをする。
リリアーナが作った代替品は全く効かなかった。それどころか、かえって気分が悪くなる。
——あいつの香りには、何もなかったはずなのに。
そう思っていた。セラフィーナの作る香りは地味で、派手さがなく、社交界で注目されるようなものではなかった。
対してリリアーナの作る香りは華やかで、人目を引く。社交界では評判だった——少なくとも、最初のうちは。
「レオンハルト様」
執事のオスカーがノックもなしに入ってきた。その顔には、押し殺した感情が浮かんでいる。
「何だ」
「ラングフォード公爵家から、お取引の停止を申し入れられました」
「……何だと」
「先日納品した香水で、ご令嬢が肌荒れを起こされたと。訴訟も辞さない構えだとのことです」
レオンハルトは書類を机に叩きつけた。
「また肌荒れか! 一体何が原因なんだ!」
「原因は——」
オスカーは一瞬躊躇い、それから言った。
「おそらく、調合師の技量の問題かと」
「リリアーナの?」
「はい」
レオンハルトの目が危険に細められた。
「お前、何が言いたい」
「僭越ながら申し上げます」
オスカーは深く頭を下げた。
「セラフィーナ様の香りなしに、この家は最初から成り立っておりませんでした」
「何だと……?」
「レオンハルト様の頭痛が治まっていたのも、リリアーナ様が社交界で輝けたのも、全てセラフィーナ様の香りのおかげでございました。あの方の調合には——何か特別な力がありました」
沈黙が落ちた。
レオンハルトは執事を睨んでいた。その言葉を信じたくない、という表情で。
「……下がれ」
低い声だった。
オスカーは黙って一礼し、退室した。
◇◇◇
一人残されたレオンハルトは、窓の外を見つめていた。
——特別な力?
あの地味な女に?
信じられなかった。セラフィーナは目立たない女だった。社交界でも影のように控え、華やかな場は苦手そうにしていた。
リリアーナの方がずっと魅力的だった。美しく、可愛らしく、人を惹きつける力があった。
だから、彼女を選んだ。
それは間違いではなかったはずだ。
……間違いでは、なかったはずなのに。
頭痛がまた襲ってきた。こめかみを押さえ、目を閉じる。
ふと、記憶が蘇った。
セラフィーナが淹れてくれた、香り付きの茶。書類仕事で疲れた夜に、黙って差し出してくれた一杯。あれを飲むと、不思議と頭がすっきりした。
彼女が調合した香水を嗅いでから眠ると、悪夢を見なくなった。慢性的な頭痛も、いつの間にか消えていた。
それが——彼女のおかげだったと?
「……馬鹿な」
呟いた。
そんなはずはない。彼女の香りは凡庸だった。何の価値もなかった。だから、婚約を破棄したのだ。
——本当に?
頭の隅で、冷たい声が囁く。
——本当に、彼女の価値を見ていたのか?
レオンハルトは立ち上がり、棚を漁った。セラフィーナが残していったものがないか探す。しかし、彼女の私物は全て彼女自身が持ち出したか、リリアーナに渡してしまった。
何も残っていない。
あの控えめな微笑みも。静かな眼差しも。そして——あの香りも。
「オスカー!」
廊下に向かって叫ぶ。
「セラフィーナは今どこにいる」
「存じません。王都を去ったとしか」
「探せ。今すぐ探し出せ」
「……かしこまりました」
オスカーの声に、微かな感情が混じった。それが何かは、レオンハルト自身にもわからなかった。
◇◇◇
同じ頃、リリアーナの工房では——。
「ねえ、本当に大丈夫なの? この香水」
顧客として訪れた男爵夫人が、不安そうに瓶を眺めていた。
「もちろんですわ! お姉様の調合書を元に、私がさらに改良を加えたものですもの」
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
「最近、肌荒れを起こした方がいると聞いたけれど……」
「まあ、それは体質の問題ですわ。私の香水のせいではありません」
男爵夫人は半信半疑の顔をしていたが、結局香水を購入して帰った。
リリアーナはホッと息をついた。
——大丈夫。まだ大丈夫。
噂は広まっているが、まだ完全に信用を失ったわけではない。セラフィーナの調合書があれば、いつか同じものが作れるはずだ。
そう信じて、彼女は今日も調合を続けた。
何度失敗しても。
何人の顧客が離れても。
自分には才能があるのだと——信じ続けていた。
◇◇◇
一方、港町ミラベルでは——。
セラフィーナの小さな工房に、少しずつ人が訪れるようになっていた。
最初はマルグリットの紹介で、関節痛に悩む老婆。次に、不眠に苦しむ漁師の妻。そして、亡くした子供の記憶に囚われている母親。
彼女たちは皆、セラフィーナの香りを嗅いで、涙を流した。
「ありがとう」
「楽になった気がする」
「また生きていこうと思えた」
その言葉の一つ一つが、セラフィーナの心に染み込んでいった。
自分の香りが、誰かの心に届いている。
三年間、誰にも認められなかった。婚約者にも、義妹にも、社交界の誰にも。
けれど——ここでは違う。
「セラフィーナ」
クロードが声をかけた。彼は今日も工房を訪れ、私の作業を見守っていた。
「今日は随分忙しかったな」
「ええ。少しずつ、噂が広まっているみたいです」
「それはいいことだ」
彼は微笑んだ。その笑顔は、最初に会った時よりずっと穏やかになっていた。
——私の香りが、彼の心の傷を癒しているのだろうか。
そう思うと、胸が温かくなった。
「クロード様」
「ああ」
「あなたは……いつまでこの町に?」
彼は少し考え込んだ。
「わからない。だが——」
紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見た。
「あなたの傍にいたい。それだけは確かだ」
心臓が跳ねた。
それは——どういう意味なのだろう。
「あなたの香りは、私の灰色だった世界に色を与えてくれた。十五年間失っていたものを、少しずつ取り戻させてくれている」
「……」
「だから、傍にいたい。あなたの香りを視ていたい。それは——身勝手な望みだろうか」
私は首を振った。
「身勝手なんかじゃ、ありません」
言葉が震える。
「私も——あなたに視ていてほしい」
クロードの目が見開かれた。
「王都では、誰も私の香りを見てくれなかった。価値がないと言われた。凡庸だと。でも——」
涙が溢れそうになった。
「あなたは、私の香りを視てくれる。それが——とても、嬉しいのです」
クロードは静かに私の手を取った。
温かい。大きな手。
「ずっと視ている」
彼は言った。
「あなたの香りを。あなた自身を」
その言葉に、涙が頬を伝った。
嬉し涙だった。生まれて初めての。
第五章 明かされる真実
季節が巡り、港町に秋風が吹く頃——。
私の体調は、目に見えて悪化していた。
『香譜視』を使うたびに増す目眩。立っているのも辛い倦怠感。時折襲う、意識が遠のくような感覚。
——余命はあと一年ほど。
医師の宣告から、既に一年が過ぎていた。
「セラフィーナ」
クロードが心配そうに私を見つめる。彼は何度も体調を気遣ってくれたが、私は笑って誤魔化してきた。
けれど——もう隠し通せない。
「クロード様」
私は決意を固めて、口を開いた。
「お話ししなければならないことが、あります」
◇◇◇
全てを話した。
余命宣告のこと。『香譜視』の代償のこと。魂を香りに変換する力が、使い続ければ命を削るという事実。
クロードは黙って聞いていた。その紫紺の瞳には、複雑な感情が渦巻いている。
「……なぜ、もっと早く言わなかった」
絞り出すような声だった。
「言えませんでした。私にとって、香りを作ることは——生きることそのものですから。それを止められたくなかった」
「だとしても……!」
彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。その背中が、微かに震えている。
「私は——ようやく、灰色の世界に色を見つけたというのに」
「クロード様……」
「あなたの香りが、私の心を癒してくれた。十五年間閉じ込めていた悲しみを、ようやく解き放つことができた。それなのに——」
彼は振り返った。その瞳には、涙が光っていた。
「あなたを失うなど、私には耐えられない」
私は息を呑んだ。
その言葉には——強い感情が込められていた。単なる感謝や友情を超えた、何か。
「クロード様。あなたは——」
「ああ」
彼は私の前に跪いた。
「遅すぎるかもしれない。けれど、言わせてくれ」
紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見上げる。
「私はあなたを愛している。セラフィーナ」
心臓が止まりそうになった。
「あなたの香りだけではない。あなたの強さを。優しさを。傷ついてもなお、香りへの愛を捨てなかった、その魂を」
「……」
「だから——諦めない。あなたを救う方法を、必ず見つける」
彼は立ち上がり、私の両手を取った。
「私の国には、古い治療法の記録がある。魂に関わる病を癒す方法が、あるかもしれない」
「あるかも、とは……」
「確証はない。だが、試す価値はある」
彼の目には、強い決意が宿っていた。
「私は——」
言葉に詰まった。何と言えばいいのかわからない。
「あなたを愛している」
再び、彼は言った。
「その答えを、今求めるつもりはない。だが——生きてくれ。私のために」
涙が溢れた。
三年間、誰かのために生きてきた。レオンハルトのために。公爵家のために。誰かに認められたくて、必死に尽くして。
けれど、誰も私のために生きてくれとは言わなかった。
「……クロード様」
私は彼の手を握り返した。
「私も——あなたに、生きていてほしいと願われるのは、初めてです」
彼の表情が、微かに和らいだ。
「セラフィーナ」
「はい」
「私を信じてくれ」
「……はい」
その返事に、どれほどの覚悟が込められていたか——きっと、彼にもわかってくれたと思う。
◇◇◇
翌日、クロードは私に衝撃の告白をした。
「私は、アステリオン王国の王太子だ」
「……は」
言葉が出なかった。
「クロード・レイ・アステリオン。それが、私の本当の名だ」
王太子。隣国の、王太子。
「身分を隠して旅をしていた理由は、いくつかある。一つは、嗅覚を失った原因を探るため。もう一つは——」
彼は苦笑した。
「王宮の息苦しさから逃れたかった、というのもある」
「……なぜ、今それを」
「あなたを救うために、国の力を使う必要があるからだ」
クロード——いや、王太子殿下は真剣な眼差しで言った。
「王家の書庫には、古代の医術や魔術の記録がある。『香譜視』のような能力についての記述も、あるかもしれない。それを調べるには、王太子としての権限が必要だ」
「でも、私は——」
「身分のことを言いたいのなら、聞かない」
彼は私の言葉を遮った。
「あなたは調香師だ。王太子の婚約者でも、公爵家の元許嫁でもない。ただ、香りを愛する一人の女性だ。私が愛したのは、そのあなただ」
胸が熱くなった。
「王太子としてではなく、クロードとして言う。あなたを救いたい。そして——できることなら、生涯傍にいてほしい」
「……」
「だから、私に時間をくれ。必ず、治療法を見つける」
私は頷いた。
信じることしかできなかった。この人を。この想いを。
◇◇◇
クロードが王都へ発った後、私は一人で工房に残った。
彼がいない日々は、想像以上に長く感じられた。
体調は相変わらず悪い。『香譜視』を使うのを控えても、既に蓄積された代償は消えない。
それでも、私は香りを作り続けた。
「セラフィーナさん」
マルグリットが心配そうに声をかける。
「少し休んだ方がいいわ。顔色が悪いもの」
「大丈夫です。まだ——作りたいものがありますから」
「無理しないで。あなたが倒れたら、元も子もないわ」
「……はい」
返事をしながら、私は新しい香りの調合を続けた。
クロードのために。彼が帰ってきた時に、渡したい香り。
——生きることへの感謝。愛することの喜び。
そういった感情を、香りに込めたかった。
たとえ、私の命がもたなくても。
この香りだけは——彼の傍に残したかった。
◇◇◇
それから二週間後。
工房に、思いがけない来客があった。
「……セラフィーナ」
その声を聞いた瞬間、私は凍りついた。
振り返ると、そこに立っていたのは——。
「レオンハルト……様」
金髪碧眼の男。かつての婚約者。私を捨てた男。
彼は——ひどくやつれていた。
目の下には深い隈があり、頬はこけ、髪も乱れている。あの華やかだった社交界の花形の面影は、もはやなかった。
「どうして、ここに……」
「探した」
彼は一歩、近づいてきた。
「三ヶ月かけて、やっと見つけた」
「何の、ご用ですか」
「許してくれ」
彼は——頭を下げた。
「私が間違っていた。君を——君の香りを、過小評価していた」
「……」
「君がいなくなってから、全てがうまくいかなくなった。頭痛は再発した。顧客は離れた。リリアーナの作る香水は、誰も満足させられなかった」
彼は顔を上げた。その碧い瞳には、切羽詰まった感情が宿っていた。
「頼む。戻ってきてくれ。君が必要なんだ」
私は黙って彼を見つめた。
かつて、この言葉を聞きたかった。「君が必要だ」という言葉を。私の価値を認めてくれる言葉を。
けれど——今は何も感じなかった。
「レオンハルト様」
私は静かに言った。
「あなたのことは、もう何も感じないの」
彼の顔が、凍りついた。
「私の香りが届くのは、私を本当に見てくれる人だけ」
「……何だと」
「あなたは三年間、私を見ていなかった。私の香りも、私の努力も、私の愛情も——何一つ見ていなかった」
「それは——」
「だから、もう届かない」
私は工房の扉を指さした。
「お帰りください。私には——もう、あなたのために香りを作る気持ちがありません」
レオンハルトは呆然と立ち尽くしていた。信じられないという顔で。
「……本気か」
「本気です」
「私は公爵家の嫡男だぞ。君のような——」
「元調香師? 婚約破棄された女?」
私は微笑んだ。穏やかに、けれど冷たく。
「ええ。その通りです。でも——」
「でも?」
「今の私には、私を本当に見てくれる人がいる。私の香りを、私自身を、愛してくれる人が」
レオンハルトの顔が、強張った。
「……誰だ」
「それは、あなたには関係のないことです」
私は扉を開けた。
「お帰りください。もう二度と、お会いすることもないでしょう」
レオンハルトは長い間、その場に立ち尽くしていた。
やがて——彼は力なく肩を落とし、去っていった。
振り返ることなく。
◇◇◇
「よく言えたわね」
マルグリットが、熱い茶を差し出しながら言った。
「……ええ」
私は茶を受け取り、震える手で口元に運んだ。
「言えて、よかった」
「辛かった?」
「……少し」
嘘だった。実際は、心臓が破裂しそうなほど緊張していた。
けれど、後悔はない。
三年間の呪縛から、ようやく解放された気がした。
「あなたは強くなったわね」
マルグリットが微笑む。
「この町に来た時とは、別人みたい」
「……そう、でしょうか」
「ええ。自分の価値を知っている女性の顔をしているわ」
自分の価値。
それを教えてくれたのは——クロードと、マルグリットと、この港町の人々だった。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「私に——居場所をくれて」
「何言ってるの。あなたが居場所を作ったのよ」
マルグリットは笑った。
「さあ、早く元気になりなさい。王太子様が戻ってくるんでしょう? みっともない顔は見せられないわよ」
「……はい」
私も笑った。
初めて——心から笑えた気がした。
第六章 旋律の終章、そして新たな調べ
クロードが戻ってきたのは、それから一ヶ月後のことだった。
「見つけた」
彼は息を切らしながら、工房に飛び込んできた。
「治療法を見つけた」
私は彼の顔を見上げた。やつれた顔。きっと、眠る間も惜しんで調べてくれたのだろう。
「『香譜視』は——魂を香りに変換する力だ。それを使い続けると、魂そのものが摩耗していく。だから——」
「だから?」
「『香譜視』を封印すれば、摩耗は止まる」
私の心臓が、跳ねた。
「封印……」
「ああ。古代の儀式で、能力を封じることができる。そうすれば、命は助かる。ただし——」
「『香譜視』は、二度と使えなくなる」
「……ああ」
クロードの声には、苦渋が滲んでいた。
私は黙って考えた。
『香譜視』——私だけの力。香りを色と旋律として視る、唯一無二の能力。それがあったからこそ、私は特別な香りを作れた。人の心を癒す、奇跡のような香りを。
それを失えば——私の香りは、普通になる。もう、誰の心も癒せないかもしれない。
「セラフィーナ」
クロードが私の手を取った。
「決めるのは君だ。私は——君がどんな選択をしても、受け入れる」
「……」
「ただ——」
彼の紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見る。
「生きていてほしい。それだけが、私の願いだ」
涙が溢れた。
——生きていてほしい。
こんな簡単な言葉を、三年間、誰にも言ってもらえなかった。
「……わかりました」
私は頷いた。
「封印を、受けます」
「いいのか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「『香譜視』がなくても——私は香りを愛している。それだけは、変わりません」
「セラフィーナ……」
「それに」
私はクロードの手を握り返した。
「あなたと一緒に生きたい。普通の香りしか作れなくなっても——あなたの傍にいたい」
クロードの目から、涙が零れ落ちた。
「ありがとう」
彼は私を抱きしめた。
「ありがとう、セラフィーナ」
温かい腕の中で、私は静かに泣いた。
失うものは大きい。『香譜視』は、私の全てだった。
けれど——得るものも、大きい。
命。そして、愛。
それだけあれば——十分だと思えた。
◇◇◇
封印の儀式は、アステリオン王国で行われた。
古い神殿。厳かな空気。クロードが傍についてくれた。
儀式が進むにつれ、私の中から何かが抜けていくのがわかった。色彩が薄れていく。旋律が遠ざかっていく。
——さようなら、『香譜視』。
心の中で呟いた。
あなたのおかげで、私は特別な香りを作れた。人々の心を癒せた。クロードに出会えた。
全て——あなたのおかげだった。
ありがとう。
◇◇◇
目が覚めると、世界は——変わっていた。
香りが、ただの香りとして感じられる。色も、旋律も、もう視えない。
「……ああ」
涙が頬を伝った。
失った。本当に、失ってしまった。
「セラフィーナ」
クロードが傍にいた。私の手を握ってくれている。
「どうだ。体の調子は」
「……楽です。とても」
本当だった。あれほど重かった倦怠感が、嘘のように消えていた。
「よかった」
彼は安堵の息を吐いた。
「本当に、よかった」
私は彼の顔を見上げた。
「クロード様」
「ああ」
「香りが——普通になりました」
「……ああ」
「それでも——私を、愛してくれますか」
彼は微笑んだ。
「愚かな質問だな」
そう言って、彼は私を抱きしめた。
「私が愛したのは、『香譜視』ではない。君自身だ」
「……」
「たとえ香りが作れなくなっても、私の気持ちは変わらない。君が君である限り——私は君を愛し続ける」
涙が止まらなかった。
——ああ。
私は、幸せだ。
『香譜視』を失っても。特別な香りが作れなくなっても。
この人がいれば——それだけで、幸せだ。
◇◇◇
一年後——。
私はアステリオン王国の王太子妃となっていた。
王宮の片隅に、小さな調香室がある。クロードが私のために作ってくれた、私だけの工房。
「今日は何を作っているんだ?」
クロードが訪ねてきた。彼は忙しい政務の合間を縫って、必ずここに来てくれる。
「春の香りを」
私は小瓶を差し出した。
「嗅いでみて」
クロードは瓶を受け取り、香りを嗅いだ。
そして——目を見開いた。
「……視える」
「え?」
「淡い桃色。それから——明るい旋律が……」
私は息を呑んだ。
「でも、私の『香譜視』は——」
「ああ。君の能力は封印された」
クロードは微笑んだ。
「だが——どうやら、君の香りには、まだ何かが残っているようだ」
「何か……?」
「わからない。けれど——」
彼は私を見つめた。愛おしそうに。
「君の香りは、相変わらず特別だ。『香譜視』がなくても——君が作る香りには、心を癒す力がある」
涙が溢れそうになった。
——そうなのだろうか。
『香譜視』がなくても、私の香りには——何かが、残っているのだろうか。
「セラフィーナ」
クロードが私の頬に触れた。
「私は君の香りを視続けることができる。それは——君への愛が、私の感覚を開いたからかもしれない」
「愛が……」
「ああ。君を愛しているから、君の香りが視える。それは——とても幸せなことだと思う」
私はクロードを見上げた。
紫紺の瞳。かつて灰色の世界を生きていた人。今は——私の香りに彩られた世界を生きている人。
「ありがとう」
私は微笑んだ。
「私も——あなたを愛しています。クロード」
彼は私を抱きしめた。
温かい腕の中で、私は幸せを噛み締めた。
◇◇◇
一方、王都では——。
シュヴァルツェン公爵家は、没落の一途を辿っていた。
香水事業は完全に破綻し、顧客は全て離れた。リリアーナの作った粗悪品による被害者からの訴訟が相次ぎ、莫大な賠償金を支払うことになった。
リリアーナは、もはや社交界に姿を見せなくなった。かつての華やかさは消え失せ、誰も彼女を振り返らなくなった。
そして——レオンハルト。
彼は、生涯セラフィーナの香りを探し続けた。
各地の調香師を訪ね、似た香りを求めた。けれど、どんな香りも、彼女のものとは違った。
「何が足りないんだ……」
彼は呟いた。何度も、何度も。
彼女の香りの本当の価値を——彼は、ついに理解できなかった。
『香譜視』という能力のことも。彼女の献身のことも。彼女が彼をどれほど愛していたかも。
全てを失って初めて、彼は気づいた。
あの香りが——どれほど特別だったかを。
けれど、もう遅かった。
彼女の香りは、もう二度と彼には届かない。
彼が捨てた香りの本当の価値を、永遠に理解できないまま——。
◇◇◇
「セラフィーナ」
クロードが、窓辺に立つ私の傍に来た。
「何を考えている」
「……昔のことを、少し」
「王都のこと?」
「ええ」
私は窓の外を見た。アステリオン王国の美しい庭園が広がっている。
「後悔は、ありますか」
「後悔?」
「『香譜視』を封印したこと」
私は首を振った。
「ありません」
「本当に?」
「ええ」
私はクロードを見上げた。
「私は今、幸せです。あなたと一緒にいられて。自分のペースで香りを作れて」
「……」
「『香譜視』がなくても——私は私です。香りを愛する一人の女性。それで、いいんです」
クロードは微笑んだ。
「君は——本当に強くなったな」
「あなたのおかげです」
「いや。君自身の力だ」
彼は私の手を取った。
「これからも、傍にいてくれ。セラフィーナ」
「もちろん」
私は微笑んだ。
「これからも——あなたのために、香りを作り続けます」
窓から差し込む陽光の中、私たちは手を繋いだまま立っていた。
過去の痛みは、もう癒えた。
未来には、希望だけがある。
私は——ようやく、本当の幸せを見つけた。
自分の価値を知り、自分を愛してくれる人と共に生きる。
それが——私の、新しい調べの始まりだった。
【完】




