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聖女の国を追放された令嬢は ――奇跡に頼らない国で生き直します  作者: 小麦


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2/2

厚遇とひび

国境を越えた風は、聖王国のそれより乾いていた。

冷たいのに、肺の奥が少しだけ軽い。リーゼはそれを“解放”と呼びたくはなかった。


胸元の書簡は、名前と爵位だけが並ぶ簡潔なものだった。

それでも護送兵の表情を変えた。


「……グレイヴァルト辺境伯、だと」


呟きに、隣の兵が息を呑む。


「まさか……《灰銀》の」


《灰銀》

囁かれた呼び名に説明は続かなかった。


リーゼは書簡の端を指で押さえた。紙がわずかにたわむ感触が、状況を現実へ引き戻す。



国境の検問所は粗末だった。見張り台の木は風に削れ、兵の鎧は古い。だが目だけは鋭い。奇跡に頼れない土地の目だ。


「書状を」


リーゼは封書を差し出す前に言った。


「差出人はグラウス侯国の辺境伯です。確認の上で扱ってください。私は追放者ですが、貴国の決まりに従います」


検問の兵は眉をわずかに動かし、封蝋を見た瞬間に姿勢を正した。


「……通行を許可する。案内が来ている」


門が開き、冷たい風が外套の裾を揺らした。


その先で待っていたのは、背の低い若い女性だった。質素な服装なのに歩幅は迷いがなく、視線は人を測るというより道を測っている。


「リーゼ様。こちらへ」


“様”が胸に引っかかる。追放者に向けられる敬称ではない。

訂正すれば場が乱れる。乱れれば余計な説明が増え、噂が増える。噂は情報にならない。


リーゼは息を整え、短く言った。


「案内をお願いできますか」


女性は一瞬だけ表情をやわらげ、すぐに姿勢を正した。


「……はい。承りました」


「ミラです。別荘の手伝いをしています。今日からリーゼ様のお側に付くよう言い渡されました」


言い渡される。

丁寧さの中に、逃げ道のない響きが混じる。


「どなたから?」


リーゼの問いは短い。


ミラは一瞬だけ口を閉じた。ためらいではなく、言葉を選んでいる。


「執事長からです。『失礼のないように』『必要なものは全部通せ』って」


全部通せ。

その強さが、胃の奥に小さな棘を残した。


馬車に揺られる間、ミラは必要な説明だけをした。屋敷の位置、夜の見回り、危ない場所、外出の決まり。

話し方は早いが、要点が削ぎ落とされている。仕事が速い人の言葉だった。


「……怖くないんですか」


ミラが不意に言った。


「何が?」


「当主様です。名前を出すと、皆、声が小さくなるので」


リーゼはミラの横顔を見た。

彼女は怖がっている。けれど怖がりながら、必要なことを言う。逃げない人だ。


「怖いかどうかは、会ってから決めます」


リーゼが答えると、ミラは目を丸くして、それから小さく笑った。


「……そういうお方、好きです」


好き。軽い言葉。

なのに媚びがない。リーゼはその距離感に、わずかな安心を覚え、すぐに自分を戒めた。安心は依存の入口になる。



別荘と呼ばれた屋敷は、国境の外れにあった。豪奢ではない。だが土台が強く、窓の位置と導線が理に適っている。守るための造りだ。


門をくぐると、使用人たちが整列していた。

先頭の老執事が深く頭を下げる。


「リーゼ様。お待ちしておりました」


また“様”。

リーゼは礼だけを返した。否定しても得をしない。否定すれば相手の手つきが鈍り、鈍れば余計な言葉が増える。


「……お世話になります」


声が少し硬い。自分でも分かる。


案内された客間は、配慮の行き届いた見事な部屋だった。


淡い色の天蓋、柔らかな寝具、季節の花。

窓辺の椅子には刺繍、テーブルには湯気の立つ茶と小菓子。

壁の絵は派手ではないが、目が疲れない色で描かれている。


“ここにいてください”と、部屋そのものが言っているよう。

リーゼは喉の奥が少し詰まった。追放されて、いま自分が“客”になっている。その事実が、妙に怖い。


湯が用意され、髪が整えられ、食事が出る。

量こそ多くないが、品目は多く味付けは繊細、そして長旅を労わるような身体に残る温かさがあった。


リーゼは指先で茶杯を撫で、慎重に言葉を選んだ。


「……恥ずかしながら、私はこの土地のことをよく知りません。

こうした品は、普段から手に入りやすいのでしょうか」


ミラは一瞬きょとんとし、それから肩をすくめた。


「手に入りやすくはないです。

でも“当主様の家”は別。ここで困った顔をさせるなって、執事長が言うので」


困った顔をさせるな。

それが命令なのか、守るためなのか、リーゼにはまだ測れない。測れないことが、胸の奥を落ち着かなくさせた。


夕方、机の上に新しい便箋が置かれているのに気づいた。誰も説明しない。

説明しないのに揃う。無言の整え方が、書簡の主の気配に似ている気がした。


答えは出ない。出ないなら、出る形のものを積む。

リーゼはそうやって生きてきた。


「書庫を見せてください」


「いつでも。鍵はミラが預かっております」


ミラが鍵束を鳴らして、得意げに言う。


「迷路ですけど、いちばん近い道で案内できます」


いちばん近い道。

その言い方が、少しだけ好きだと思った。祈りで時間を伸ばせない土地の人は、無駄を嫌う。


書庫は小さいが、必要なものが残っていた。台帳、物資帳、点検の記録。

頁を繰るうちに、書き方の並びが揃いすぎているのに気づく。原因、対処、再確認――同じ順で、同じ言い回し。


(……この国には、こういう書き方が根づいてる)


背筋がわずかに冷えた。冷えは恐怖ではなく、興奮に近い。

並びがそろっているなら、見えてくるものがある。


リーゼはミラに視線を向けた。


「壊れる時って、不思議と流れがあるんです。

その流れが見えれば、次に何が起きそうか――少しだけ読めます」


ミラは馬鹿にしなかった。真面目に頷く。


「……読めるなら、助かります。この国は、間違えたら戻せないから」


その言葉が胸に触れる。

聖王国で、自分が言い続けたことと同じだった。


夜更けまで読み、客間に戻ると紙とインクが補充されていた。

誰も言わない。言わないのに揃う。

厚遇が“やり方”になっていることが、逆に怖い。



翌朝。

ミラが「庭を少し」と誘った。

リーゼは一瞬迷い、頷いた。

迷ったのは散歩が嫌だからではない。散歩を“許される”ことが怖いからだ。


裏手の庭はよく手入れされ、森へ続く柵の手前に等間隔で杭が打たれていた。魔獣避けの結界杭。


「ここ、当主様が一番気にしてます。点検だけは絶対に手を抜くなって」


ミラが言い終える前に、リーゼは足を止めた。


杭の一本だけ、風に揺れる音が違う。

ほんの少し、金属が擦れるような高い音。膜の端がたわむような感覚。


(……落ちかけている)


嫌な予感は、いつも身体が先に拾う。


「ミラ、少し下がって」


「え? どうしました」


リーゼは答えず、杭に近づいた。指先に小さな光を灯す。


《光の解析》。


杭の周りに残る魔力の痕が、薄い線になって浮かび上がる。

ひび割れは古い。上から塗り直した跡。見た目だけ整えた痕跡。

それだけなら、ここまで不穏ではない。


ひびの埋め方が、他の杭と少し違う。

雑ではない。むしろ丁寧だ。けれど――違う丁寧さだ。知らない癖が残っている。


リーゼは息を詰めた。判断を誤らないために。


「結界が落ちかけています。この杭、交換が必要です」


ミラの顔色が変わる。


「そんな……昨日の点検は――」


「見た目は整っていました。でも中身が弱ってる。今落ちてないのがたまたまです」


ミラは震えながらも、すぐに動いた。


「執事長を呼びます! 杭の予備も!」


駆け出す背中を見送りながら、リーゼは杭の根元に手を当て続けた。

今落ちれば、柵の内側に穴が開く。穴が開けば、森の向こうの危険は迷わずここへ来る。


(小さなひびひとつで、流れが簡単にほどけてしまう)


やがて屈強な男が二人、予備杭を抱えて現れ、すぐ後ろから執事長が追いついた。

執事長は杭を一目見て、視線を変えずに言った。


「……やはり、ここでしたか」


その口調に、責める色はない。

事実を受け止める静けさがある。だからこそ、背筋が伸びた。


「交換を行います。周囲、警戒を。

——リーゼ様、恐れ入りますが、少しお下がりください」


リーゼは頷き、一歩下がった。

手のひらに残る冷えが、現実の重さとして残る。


交換は手早く終わった。

風の音が元に戻り、膜のたわみが消える。


ミラが戻ってきて、息を切らしながら言った。


「……よかった。ほんとに、よかった……!」


その顔が泣きそうで、リーゼは視線を逸らした。

泣きそうな顔に慣れていない。見ても助けられないことが多かったからだ。


「よかった、で終わらせません」


自分の口から出た言葉に、リーゼは少しだけ驚いた。

終わらせない――それは、ここでの役割を自分で決める言葉だ。


リーゼは執事長へ向き直り、丁寧に言った。


「この杭……前から弱っていたみたいです。

それに、埋め方が他と少し違いました。丁寧なんです。でも、違う丁寧さで」


執事長は静かに一度だけ頷いた。


「……ご指摘、もっともです。

外の者を入れた時期がありました。点検も補修も、その者のやり方が混じっています」


ミラが息を呑む。


「外の……点検の人ですか?」


「はい。当主の判断です」

執事長は言い訳のない声で続けた。

「私どものやり方だけでは、守りきれないと判断されました。だから外の知恵を借りた。しかし……」


誰かが怠けたわけではない。

むしろ守ろうとして、届かなかったのだ。


それがいちばん怖い。

悪意なら切り分けられる。けれど善意のまま失敗するものは、放っておくと同じ形で繰り返す。


リーゼは息を整え、言った。


「なら、なおさら――このままにしない方がいいです。

“やり方”を、ここに残しましょう。次の人が迷わないように」


執事長は迷いなく頷いた。


「……その通りです。

リーゼ様のお力をお借りしたい。台帳と記録は、必要なだけご覧ください」


“お借りしたい”。

その一言に、敬意が宿っている。

敬意は、妙に胸を落ち着かなくさせた。聖王国では、敬意はいつも“従え”と一緒だったから。


それでも――ここでは、違うかもしれない。


ミラが青い顔のまま、強く頷く。


「……リーゼ様、怖いです」


「私も」


リーゼは正直に言った。正直に言えたことに、心のどこかが少し楽になる。


「だから、流れを整えます」


空は相変わらず灰色だった。

けれど屋敷の中は温かく、動くべきものは動き、隣には逃げない従者がいる。


厚遇の理由はまだ分からない。

けれど“ほころび”は見えた。見えるなら、直せる。


リーゼは息を吐いた。

怖さを仕事に変えるために。

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