追放令嬢
大神殿の白い床は、汚れを許さない。
磨かれた石は人の影すら薄く映し、祈りの声だけが高い天井に吸い込まれていく。
ここでは言葉ひとつで、人は“汚れ”になる。
リーゼは幼い頃からそれを知っていた。光属性に生まれた日から、祝福と期待の中で息をする方法だけを教えられてきたから。
「リーゼ・アルトフェルト。前へ」
名を呼ばれ、リーゼは歩み出た。
貴族たちの視線が肌に刺さる。値踏み、警戒、そして――自分が裁かれる側ではないという安堵。
その安堵が一番苦い、と彼女は思う。
玉座に座すのは、ルーメン聖王。
その傍らには白衣を纏った聖女セラフィナが立っていた。癒しの光を宿す存在。民の信仰そのもの。
(……責めたいわけじゃない)
リーゼの胸の奥で生まれた小さな棘を、そっと押し込める。
聖女はただ、役割をまっすぐ生きている。
自分は――役割の“外側”を見てしまった。
高司祭が、柔らかな声で告げた。
「陛下への進言を、改めて述べよ」
リーゼは頷き、帳面を開いた。
手は震えていない。けれど指先が冷たい。身体だけが先に理解している。これから吐く言葉が、戻れない線を越えることを。
「聖域で行われた治癒の記録を、三年分照合しました。聖魔法の効き目そのものではなく、“治り方”に変化が見られます」
ざわり、と空気が揺れる。
怒りの前兆のざわめき。リーゼは息を整え、続けた。
高司祭が眉をわずかに上げる。
「治り方、とは」
「治癒後に残る魔力痕です。傷は塞がっても循環の筋が乱れたままの症例が増えています。偶然ではありません」
貴族席から声が飛んだ。
「聖女様への侮辱だ!」
予想していた。けれど胸が痛むのは止められない。
“侮辱”という言葉は、いつも事実の代わりに投げられる。
リーゼは首を横に振った。できるだけ丁寧に。
「聖女様の責任ではありません。むしろ逆です。聖女様が一身に担う現在の運用が、聖王国全体の歪みになっています」
聖女セラフィナが、かすかに目を見開いた。
敵意ではない。ただ理解できないという戸惑い。
その表情に、リーゼは一瞬だけ言葉を失いかける。
(あなたを守りたいだけなのに)
喉の奥に熱が生まれる。怒りではなく焦りだ。
焦るのは、ここで感情が漏れれば負けるからだ。負ければ言葉が死ぬ。言葉が死ねば未来が死ぬ。
高司祭が言葉を重ねる。
「つまり、お前はこう申すのだな。神の奇跡に、歪みがあると」
「歪みは奇跡ではなく、運用に生まれます」
リーゼは淡々と続けた。淡々とするしかない。
「聖域の循環は外から与えられているように見えますが、実際には内部で回している部分がある。回す以上、反動は蓄積します。蓄積した歪みは、いずれ破断します」
沈黙が落ちた。
それは理解の沈黙ではない。恐れの沈黙だった。
恐れは、祈りより強い。
聖王が、重い声で口を開く。
「リーゼ……それが真実だとしても、民は耐えられぬ。聖女の奇跡が壊れるなどという未来を」
その声は責めていない。
それが、かえって辛かった。
理解されている。だが選ばれない。
「壊れます」
リーゼは言い切った。
言い切った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
この言葉を口にしたことで、もう戻れないと分かったからだ。
「今なら間に合います。聖女様を唯一にしない体制を整えるべきです。代替の魔法体系、あるいは聖魔法を支える外側の仕組みを」
「冒涜だ」
高司祭の声が冷たくなる。
空気が氷のように硬くなる。大神殿はいつもこうだ。祈りは温かいふりをして、刃になる。
「祝福を分析し、奇跡を仕組みとして語る。それが聖王国の秩序をどう揺るがすか分かっているのか」
「理解しています」
リーゼは嘘をつかなかった。
揺るがす。だから言った。揺るがさなければ、いずれ崩れる。
高司祭が聖王に向き直る。
「陛下。信仰と秩序を守るため、この者を聖都より遠ざけるべきかと。処罰ではありません。隔離です」
追放、という言葉が出る前に、結論は決まっていた。
リーゼは、聖王の肩の落ち方で悟った。
聖王は短く息を吐き、頷く。
「リーゼ・アルトフェルト。聖王国より追放とする」
安堵の気配が広がる。
その安堵が、リーゼの胸を微かに沈ませる。
誰も彼女を殺したいわけではない。ただ、“面倒な未来”を視界から消したいだけだ。
リーゼは跪き、頭を垂れた。
「承りました、陛下」
声は揺れなかった。
だが胸のどこかで、小さく何かが切れた。
期待に応え続けてきた糸がぷつりと断ち切れる音がした。
(……これで、終わる)
悲しいのか悔しいのか、自分でも判別できない。
ただひとつ、呼吸が少しだけ楽になった。
それがいちばん怖い。
⸻
追放は、驚くほど静かに行われた。
見世物にしないのは優しさではない。噂が信仰を削るからだ。
聖都の門。夕暮れ。形式だけの護衛。
リーゼの荷は少ない。研究記録と写本、最低限の衣類。
紙束の重みが、彼女の人生そのもののようだった。
出立の直前、兵が一通の封書を差し出した。
「……これも、あなたの荷です」
封蝋は聖王国の印ではない。赤い封蝋に刻まれた紋章も見慣れない。
だが兵の指先が、わずかに慎重になったのが分かった。
宛名。
――リーゼ・アルトフェルト殿。
リーゼは封を切る。中の文は短い。
貴殿の滞在先を用意した。
国境を越え次第、同封の印章を提示せよ。
不自由はさせない。
必要なものは要求しろ。
エルヴィオ・グレイヴァルト
グラウス侯国 辺境伯
感情がない。
慰めも、励ましも、正義もない。
ただの手配の文章――なのに、妙に息がしやすい。期待も謝罪も要求されていないからだ。
(どうして私に)
疑問が湧く。
同時に、誰にも見せたくない小さな安堵も湧く。
行き先がある。それだけで、追放が“放逐”ではなくなる。
封書を折りたたみ、胸元に収める。
そのとき、護送兵の一人が、隣に小さく囁いた。
「……グレイヴァルト辺境伯、だと」
別の兵が、息を呑む音を立てた。
「まさか……《灰銀》の」
それが口にされた瞬間、空気の温度が一段下がったように感じた。
リーゼは何も聞き返さなかった。
理由を聞いても、彼らは噂でしか答えられない。
必要なのは、事実だけだ。
「……行きましょう」
聖王国の門が背後で閉じる。
白い石の都が遠ざかる。
リーゼは振り返らなかった。
振り返れば、切れた糸の端を握り直してしまいそうだったから。
彼女はまだ知らない。
この書簡が“追放者”ではなく、“必要な人間”へ向けて書かれたものだということを。
つづく




