ガデュリオン帝国に連れ去られた日。
父王の前でガデュリオン皇帝に担ぎ上げられ、姉と許婚者の見ている前でファルナウス国の城から拐われたアイリスは、ガデュリオン皇帝の馬に乗せられ、即ファルナウスを発つ事となった。
父や姉、許婚者があの後どうなったかを知る事が出来ず、不安に駆られたまま。
恐ろしい男と共に馬に乗るアイリスの頭に、自ら馬から落ちて死を…との考えも浮かんだが振り払った。
この先に、どの様な非人道的であり屈辱的な未来が待っていたとしても、ファルナウスの時期国王になるはずだった自分が自ら生命を捨てるなど、国を担う者には恥ずべき逃げの行為だと思った。
自分は王太女として父王や国の民の生命を守る事を一番に考えるべきだと、アイリスは滲む涙を堪えて泣くのをやめた。
「乗り慣れない馬上は辛いだろう。
今夜はこのまま走るが、明日には馬車を用意する。」
不意にガデュリオン皇帝に声を掛けられ、萎縮したアイリスが驚いたように俯かせた顔を上げた。
思わぬ気遣いの言葉に一瞬戸惑ったが、それは馬車に閉じ込めて逃げ出せなくするためなのだろうとアイリスは考えた。
ガデュリオン皇帝という人物について、ファルナウスの周辺国を学ぶ授業で聞いたことがあった。
カミル王子の隣国のさらに向こう側にあるというガデュリオン帝国は、平和を疎み各地に戦争を起こし国を拡げる軍事大国であり、その頂点に立つ皇帝は残虐極まりない恐ろしい男であるとの話を。
「お気遣い…ありがとうございます…。」
機嫌を損ねさせる事に恐怖を感じた。
父王や国の民の生命を守るための交渉は、自分がするしかない。
それまでは従順であるべきだとアイリスは考えた。
道中アイリスは、なるべくガデュリオン皇帝の事は考えないようにした。
考えれば、恐ろしく悲しい未来しか想像出来ない。
国のための交渉をする前に心が折れるかも知れない。
そうならないためにアイリスは、皇帝から意識を逸らし続けていた。
行路の途中、カミル王子の国の端を通った。
国境の門は開かれており、ガデュリオン国の一行は何事も無くそこを通り抜ける。
大国ガデュリオンに対し、抵抗など出来るハズもないのだろう。
この国の第三王子の許婚者である自分が捕らわれていたとしても。
ファルナウスから10日以上をかけ、一行はガデュリオン帝国に到着した。
アイリスが乗った馬車は巨大なガデュリオン城の皇帝の居城の前で停まり、大扉の前には多くの侍女や使用人が控えていた。
「アイリス姫を浴室へ。
服も新しい物に着替えさせろ。」
ガデュリオン皇帝の言葉に、アイリスはビクッと大きく震えた。
身体を綺麗に洗い、新しい衣服に着替える先に待つものが、恐ろしい想像にしか繋がらない。
それは、幼いアイリスには泣きわめいて逃げ出したい程の恐怖だった。
数人の侍女たちに浴室に連れて行かれたアイリスは、身体を洗い流し乱れた髪を整え、新しいドレスに着替えさせられた。
ナイトドレスでは無く普通のドレスであったが、それは姉のマーガレットが普段着るような少し大人びた雰囲気のドレスであり、いつも子どもっぽい可愛らしいドレスを着せられていたアイリスには憧れていたタイプの物でもあった。
━━こんな場で着る事になるなんて…なんて皮肉なのかしら━━
ドレスを着たアイリスが多くの侍女に囲まれ、ガデュリオン皇帝の前に連れて行かれた。
広い居間にて側近の若い男と話をしていたガデュリオン皇帝はアイリスの姿を見るなり、眉間にシワを刻んだ。
「なぜ、そのようなドレスを着ている。」
━━怒ってらっしゃる!やはり、ナイトドレスを着た方が…いえ、わたくしは裸のまま皇帝陛下の前に来るべきだったの…?━━
「もっ…申し訳ございません!」
アイリスは、困惑し怯えた表情が顔に出てしまった。
周りの侍女達は睨めるようなキツい眼差しでアイリスと皇帝を見る。
その様子が「お前のせいで私達まで叱られた」と責め立てられているように見え、更にアイリスを怯えさせる。
皇帝の椅子の隣に立つ若い側近が、「陛下」と一言声を掛けると、ガデュリオン皇帝は軽く咳払いをした。
「まぁ良い…アイリス姫、これより俺がお前を存分に可愛がってやろう。
さぁ、お前のためにしつらえた部屋に来るが良い。」
アイリスは「はい」と返事をしたつもりだった。
だが声が出なかった。
ただただ恐ろしく、この場から逃げ出したく、この場から離れられるのならば、今すぐこの場で倒れて死んでもいいとまで考えた。
だが足は意識とは関係無く前へと進み、皇帝が用意したという部屋の前に辿り着いてしまった。
「さぁ、入るが良い。」
目を細めた皇帝がニッと口の端を上げて笑った。
その表情さえアイリスには恐怖でしかない。
━━いや、いや、怖い!怖い!逃げたい!誰か…
誰か助けて!いやよ…いや!
こんな人にわたくし抱かれ…!!━━
ドアが開かれ、大きなベッドが目に入ったアイリスは身体を強張らせた。
だが、それ以上にアイリスの身体を強張らせたのは
壁を埋め尽くす多くの人形達だった。
━━…え?わたくしの部屋より、お人形がたくさん…
この子供部屋みたいな部屋は…なに?━━
アイリスは、大量の人形と皇帝を交互に何度も見た。
よく見れば、皇帝は満足げに微笑んでいるが、大勢の侍女達や側近の若い男はスン…と虚無に近しい表情をしている。
「アイリス姫は人形遊びが好きだと噂で聞いた。
どうだ嬉しいか?」
「…わたくし…さほど、お人形が好きって事は無いのですけど…」
皇帝には従順であろうと決めていたはずのアイリスだが、あまりにも突拍子も無い状況過ぎて、思わず本音を口にしてしまった。
「……なんだと?」
「むしろ、もう人形は欲しくないと言いますか…
いつまでも子ども扱いされたくないと言いますか…」
巨躯の皇帝と小さなアイリスは、見詰めあったまま黙り込んでしまった。
一分ほどの沈黙の末、皇帝が先に目を逸らしてアイリスに背を向け、顔を両手て覆いその場にしゃがみ込んだ。
「マジかっ…!恥ずかしっ!ニセ情報に踊らされた!」
「だから言ったじゃありませんか陛下!
婚約者もいらっしゃる13歳のレディがお人形遊びを好きだなんて絶対間違ってるって!」
「そうですよ!陛下は先ほど姫様のドレスを大人び過ぎで気に入らない的な事をおっしゃいましたが、陛下が用意なさったリボンだらけのピンクのドレスなんて、10歳にも満たないお嬢様の着るものですからね!」
しゃがみ込んだ皇帝を囲み、侍女たちが強い口調で遠慮なく自分たちの意見を小さくなった皇帝の上から降り注ぐ。
アイリスは茫然とその様子を見ていたが、やがて笑いが込み上げてきた。
「うふっ…ふふっ…うふふふ!
…あ…も、申し訳ございません…」
皆の視線が集中したのに気付き、アイリスは口を手で押さえて慌てて黙り込んだ。
「アイリス姫様、うちの陛下はバカでしょう?
笑っていいんですよ、もっと大きな声で遠慮なく。」
皇帝の側近の若い男がアイリスに向かって微笑んだ。
しゃがみ込んだ皇帝を囲んだ侍女たちも側近の意見に同意してウンウンと頷く。
しゃがみ込んで小さくなった皇帝は手で覆った顔を上げた。
「バカとは何だ、お前ら皇帝に対して無礼だろうが。
だがアイリス姫、皆のように言いたい事は何でも言っていいし、聞きたい事があれば聞いてもいい。
俺が答えられるものならば、何でも答えよう。」
思いもよらぬ皇帝の言葉に、アイリスは恐る恐る訊ねてみた。
「で、では陛下…あの…わたくしを可愛がるって…おっしゃっていたのは…」
「あーそれ、父親の代わりとして姫様を可愛がるって意味ですよ。
だから、こんなバカみたいにたくさんの人形と、リボンとフリルまみれのドレスを大量に用意したんです。」
皇帝自身が答えるより先に側近の若い男が答えれば、侍女たちが再びウンウンと頷き始めた。
「ちょっ…!」と声を出し、焦った皇帝が顔を赤くして立ち上がった。
恐怖の象徴だった皇帝は見た目に反し、優しく、そして皆から愛されている器の大きな人物であると知った。
侍女や使用人、側近にからかわれて焦って取り繕う皇帝。
その姿を見たアイリスは、もう笑いを止める事が出来なかった。
恐らく、今まで生きてきた人生の中で一番大きな、はしたないと言われる程の声で笑った。
「あはははははははは!」
これが、アイリスがガデュリオン帝国で暮らしてゆく最初の日となった。




