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蜘蛛が死んでいた

作者: 雲里りさ

 蛍光灯が点滅を繰り返す長い廊下を抜け、男はいつも通り階段へ向かった。ずっしりと重いビジネスバッグが肩に食い込み、革靴の踵はすり減って、歩くたびにカツ、カツ、と間の抜けた音を立てる。今日もまた、男は社会の摩耗に晒されたのだ。

 寮の三階にある自室へ続く、コンクリートの冷たい階段。一段、また一段と足を上げるたびに、鉛の塊を引きずっているような感覚が男を襲う。二階へ上がる階段の踊り場で、ふと視界の隅に黒い染みのようなものが映った。

 足を止める。一匹の蜘蛛が死んでいた。

 艶のある黒色で、八本の脚をきゅっと体に引き寄せ、固く縮こまっている。その大きさは一センチほどだろうか。嫌悪感はあるものの、当然感傷はなく、ただそこにある「物」として認識する。男は亡骸を少しだけ避けるようにステップを踏み、再び上を目指した。

 部屋のドアを開けると、むわりとした空気が男を迎えた。電気もつけず、バッグを床に放り出し、スーツの上着を脱ぎ捨てると、そのままベッドに倒れ込んだ。まぶたの裏で、パソコンのモニターの残像がちらついている。もう何も考えたくなかった。蜘蛛のことなど、とうの昔に意識から消え去っていた。泥のように、男は深い眠りの底へと沈んでいった。


 けたたましい電子音が鼓膜を突き破り、強制的に意識が浮上する。スマートフォンのアラームだ。体を起こすのも億劫で、数秒間天井を睨みつけた後、のろのろとベッドから這い出した。熱いシャワーを浴びて無理やり覚醒させ、昨日脱ぎ捨てたワイシャツとは別の、新しいそれに袖を通す。時間はいつも、男を急かすことしかしない。

 慌ただしく部屋を飛び出し、昨日上ってきた階段を、今度は駆け下りていく。三階から二階へ下りる途中の踊り場で、既視感のある黒い点を見つけた。一晩を経たからか、それは少し埃を被っている。早く、清掃員がどかしてくれないかと考えて、素通りした。

 そして、さらに階段を下り、二階から一階へ向かったところで男は違和感に気付いた。

 昨晩の蜘蛛は、一階から二階へ上がる踊り場にいなかったか?

 死体は移動していたのだ。それも、昇る方向に。

 不思議に思いながらも、男は職場へと向かった。午前中はそのまま仕事に従事していたが、時間が経つにつれ、今朝の黒い点は頭の中で膨らみ続けた。不気味さと同時に、長いあいだ灰色だった日常の底がほんの少しだけ動いたような、高鳴りにも似た感覚が、男の胸を支配しはじめていた。


 昼食は決まって、気心の知れた同期4人組で囲むことになっている。話題がひと段落し、ふと静けさが訪れた。頃合いを見て、ついに男は三人に蜘蛛の怪奇現象を切り出した。

 最初に口を開いたのは、同じ寮の二階に住む、せっかちな同僚である。彼は早々に日替わり定食を半分ほど平らげ、箸を置きながら言った。

「それは簡単なことだ。昨日の夕方はそんな蜘蛛の死体なぞ、気付かなかったからな。要するに、最初から三階に上がる手前の踊り場で死んでいたのを記憶違いしていただけの話だ。お前の部署は最近繁忙期と聞く、ひどく疲弊していると見た」

 一理あった。男が疲れていたのは事実であったうえに、彼からの目撃情報が得られないとなると男の分が悪い。男は反論する術を持たなかった。しかし、「気の所為だ」と決めつけるようなその物言いに、どこか圧のようなものを感じ、男は面白くなかった。第一、せっかちな性分である。どうせ昨夕も部屋に帰ることばかり考えていて、踊り場の蜘蛛など目にも入らなかったに違いない。そうに違いなかった。

 このままではいけなかった。折角の怪奇現象が、ただの疲労の産物として片付けられてしまうのが、どうにも耐え難かった。その抵抗感が、男の中でむくむくと膨らみ始める。男は残りの二人に救いを求めるように視線を送り、無理やり記憶の底から新たな情報を引きずり出した。

「そういえば、今朝の蜘蛛は昨晩のそれより埃っぽかった気がする」

 せっかちな彼は、呆れたように腕を組んだ。

「おいおい、それこそ気の所為だ。気の所為でなくとも、埃が被っていることぐらい、珍しくもない。何の手掛かりにもならんよ」

 もちろん、男もそれが決定的なヒントになるとは思っていなかった。ただ、この退屈な結論を覆すための、ほんの小さな火種になればいい。そんな思いつきからの発言だった。


 腑に落ちない顔する男に、もう一人の同僚が面白そうだと身を乗り出した。

「じゃあさ」

 本命の登場である。何かと発想力に富んだアイデアを出すことから、通称アイデアマンと呼ばれている。職場であれ、プライベートであれ、その需要は高く、頼られて久しい。何か新しい視点でもって、スーパー推理を披露してくれるかもしれないと、男は期待した。

 アイデアマンがニヤリと笑う。

「清掃員は、普段何階に住んでいるんだ?」

 そんなの知らない、と男は思った。しかし、アイデアマンの意欲を削ぎたくはなかった。

「多分だけど、一階じゃないか? 清掃員が住むのって一階が相場だろ?」

 アイデアマンは、「こいつ知らないな」という顔を向けたが、気を遣って続けた。

「そんな決まりはないさ。確かに出入り口を頻繁に通る清掃員が一階に住むことはリーズナブルだけど、会社寮だろ? 住民全員が頻繁に出入り口を使うんだから、必然性は薄い。それに、空き部屋に余裕があるなら、清掃員が希望した階に住むことも多いんだよ」

 なるほど、と男は合点した。確かに寮はスカスカであった。それにアイデアマンはせっかちな彼と違い、非日常を求める男の味方である。噛みつく理由はなかった。

「それで、清掃員がどの階だったらうれしいわけさ?」

「三階以上だったら、うれしいのさ。ある仮説が立つからね」

 アイデアマンは喉を鳴らした。

「蜘蛛の死体が勝手に移動するわけないんだから、何者かによって動かされたと考えるのが妥当だろ?」

「それが清掃員だと?」

 男は頷いて促した。

「うん。仮に三階に住んでいたとして、朝早くから掃除していたその人は、一度その蜘蛛をチリトリに入れた。そしてゴミ袋に捨てるとき、蜘蛛は糸や埃に絡まってチリトリから落ちなかった。で、部屋に戻る途中、階段を上っている拍子に、ポロっと落ちた。そんなところさ」

 なるほど、と男は再度合点した。憶測が過ぎる気はしたが、こいつの売りは推理力ではなく発想力だ。さすがだ、とすら思っていた。けれど、これには一理あるとは言えなかった。

 男の代わりに、せっかちな彼が鼻で笑って言った。

「それはないな。今日、その寮は掃除の曜日ではない。そうでなくとも掃除は昼前だ。清掃員が関与しているとは考えにくい」

 悔しいことに、その通りである。これにはアイデアマンも口を噤むしかなかった。


 数秒の沈黙の後、それまで黙って窓の外を眺めていた最後の一人が、コップのお茶を飲み干して、ぽつりと口を開いた。

「あのさ」

 寡黙な男であった。いつも輪の中心から少し外れて、野草や虫を眺めているような奴で、何を考えているか分からない。他三人は正直、あまり期待していなかったが、念のためと、その口元に注目した。

「会社寮に生息していて、黒色で、一センチくらいってことは……たぶん、ハエトリグモ、と思う」

 博識だとは思ったが、男にはそのディテールを確認する意図が理解できなかった。蜘蛛が“死体”であったからだ。例えば、生きている蜘蛛がいて、いつの間にか高いところへ上っていた、というのであれば、この種類の蜘蛛の習性がこうであるからなどと、説明も付けられる。けれど、動物は死ねば静物である。これは、究極的には“コップが勝手に移動していた”という怪奇現象と同じことだ。そのときに、コップの種類がマグカップであるか、プラスチックであるか、というディテールは、ナンセンスと言えよう。

 男と同様の疑問を抱いたのだろう、せっかちな同僚が詰めるように尋ねた。

「ハエトリグモ? だったら何なのだ?」

 寡黙な男はやや肩をすくめながら、コップを置き直して答えた。

「ハエトリグモは、死んだふりをするよ」

 聴者三人に電流が走った。

「擬死行動っていうんだけど、危険を感じると脚をすぼめて動かなくなるんだ。ハエトリグモは特に目がいいから、人の動きにも敏感で、すぐに擬死行動をとるよ」


 午後からの男の仕事は捗った。キーボードを叩く指も、心なしか軽い。頭の片隅では、あの小さな生命のしたたかな生存戦略に思いを馳せていた。退屈なデータ入力の羅列さえ、どこか世界の真理に繋がっているような、そんな万能感に満たされていた。男は「やはり人や物事を表層で判断するものではない」と反省しつつも、それ以上に、胸をすくような清々しさが勝っていた。


 仕事をいつもより三十分早く終わらせ、男は胸を躍らせながら寮へと帰った。

 今日は掃除がない。だから、まだあの蜘蛛は今朝の場所にいるかもしれない。いや、あれも“死んだふり”だったのなら、とっくにどこかへ移動しているかもな。

 普段、蜘蛛を嫌厭していた男も、なぜか今はもう一度見たくなっていた。「物事を表層で判断してはいけない」という思いが、男の苦手意識を静かに溶かしていった。


 数分後、寮に着いた男は、ガクッと肩を落としていた。

 一階と二階の間、二階と三階の間、どちらの踊り場にも、蜘蛛の死体が転がっていた。つまり、昨晩と今朝の蜘蛛は別個体だったのだ。それを、同じ蜘蛛だと信じ込んでいた。よく観察すれば、一階から二階への踊り場にいた蜘蛛は、階段の段鼻の真下、上から降りるときには死角になる位置にいた。男には、その位置取りが、やけに憎たらしく感じられた。

 男は一人、その場に立ち尽くした。怪奇現象でも、巧妙な擬態でもない。ただの、勘違い。急に体の力が抜け、帰路で忘れていたはずの疲労が、どっと押し寄せた。ため息が漏れる。二つの小さな死体を跨ぎ、昨日よりもさらに重くなった足取りで、男はいつも通り自室への階段を上った。


読んでいただき、ありがとうございます。


退屈な日常を生きることは、生きているか死んでいるかも曖昧みたいなものだと思います。

だから、無味乾燥な「真実」より、心を豊かにしてくれる「虚構」を生きようとする男を書きました。

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と、思わせて事実は小説より奇なりだったりしたら面白……無味乾燥だと信じた彼にとっては変わりないのですか
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