特級冒険者の愛は重い
客が帰り際に「レクサスに宜しく」と言ったことで、ブレンダはようやくレクサスについて考える気になった。
彼は死んだはずだった。
だが、実際、今日レクサスの名を口にした客はこれで二十人目だった。
普段は閑古鳥が鳴いているブレンダの飯屋が今日に限って満席なのもレクサスが帰って来たという噂の影響だ。ブレンダの飯屋はレクサスの行き付けだったので、特級冒険者レクサスを一目見たいという野次馬根性の客が集まってくる。いい迷惑だ。
そもそも、ブレンダは、レクサスがまだ駆け出し冒険者ですらなかった頃、荒野に程近い道で出会って僅かに話した程度の知り合いだ。
当時のブレンダはまだ冒険者だった。ほんの気まぐれでブレンダは彼と組んであれこれ助言などもしたが、レクサスがめきめきと実力を伸ばし、等級を上げていったのは彼自身の努力による。そうしてブレンダを越えて特級になったレクサスは、その権力を存分に活用してブレンダを引退へと追い込んだ。
安全な場所で待っていてほしい、帰って来た時に出迎えてほしい、というのがレクサスの言い分だったので、ブレンダは渋々食堂を開くことにした。
宿屋を運営するよりは、客の滞在時間が短い分面倒も少ないだろうという判断だったが、
「そういうんじゃなくってさぁ」とレクサスは言った。
「俺ら、夫婦になろーよ」
ブレンダは笑い飛ばした。
今思い出してもろくでもない冗談だった。ブレンダは家族など要らなかったし、仮に家族を作るとしても、ブレンダの半分も生きていない若者を選んで連れ合うなど論外だった。
笑いながら無理だと告げると、
「無理じゃねーだろ」とレクサスは言った。表情も話し方も仕草も穏やかだったが、目の奥にギラギラと怒りが渦巻いていた。
「母親と結婚する息子がいるか?そういうのは同じ年頃の若者同士でやれよ」
「お前は俺の母親じゃねえし、年が離れた夫婦もいっぱいいるよぉ。なあ、結婚、考えておいて」
ブレンダは頷かなかったし、結婚など有り得ないという考えは変わらなかったが、その後、レクサスは仕事の無い時は一日中店に入り浸り、亭主面で仕入れや運搬に付いてくるようになった。人前でも当たり前のようにブレンダの腰を抱き、ブレンダの抵抗をまともに取り合わなかった。
レクサスが帰って来たら、またあの鬱陶しい暮らしに戻るのだろうか。
ブレンダはうんざりした気持ちになった。
「言ったろ!?あのレクサスが死ぬはずないって!何度か討伐で世話になったけど、あいつガチで強えーもん」
「何年ぶり?最後に顔見てから五年くらい経ったよな!俺もまたレクサスとクエスト行きてー!」
「特級冒険者もそこそこ増えたけど、やっぱ最強はレクサスだわ!実際五年も荒野を一人旅とかできる人間、他にいるか?あいつマジ半端ねーよ」
冒険者としてのレクサスは頼りになる男だったが、今現在街で暮らすブレンダには、まるで関係がない話である。
レクサスの知名度は確実に売上に貢献しているが、普段店を切り盛りするのはブレンダ一人だからだ。レクサスが街から出ている間は、一人でも退屈するくらいに客が少ないし、レクサスが戻っている時は、とにかく忙しい。店が回るのは、レクサス目当ての客が自発的に注文に来て配膳を引き受けていくためだ。
ブレンダは焼餃子を五皿カウンターに置いた。何も言っていないのに、客が立ち上がって勝手に皿を持っていった。
「餃子頼んだ奴誰ー?」
「おーい!もうレクサス来てる!?」
「まだだよぉ~!つーか見て分かるだろ、席ねえけど、外で食う?それとも帰る?」
「帰るは無いだろ、外で食うって!注文いいー?」
外での飲食は迷惑だから止めろ、とブレンダは言いかけたが、レクサスの仲間には言うだけ無駄だと思い出し、口を閉じた。
店の前の通りでは既に酒盛りが始まっていた。レクサスが生きていた頃には当たり前だった光景だ。既視感に眩暈がする。
麻婆豆腐、青椒肉絲、油淋鶏、塩焼きそば、拉麺、炒飯。いつの間にか酒は勝手に客が冷蔵庫から持って行くシステムになっている。
そこへ、さらに追加で客が来る。
「激混みじゃん!レクサス待ち!?」
「そう、あいつ絶対ここ来るから。実質ここあいつの店だから」
「旨いから?」
「あと、店主とデキてるから」
「マジ!?あのおばさんと?レクサス趣味やべー!」
「顔見たい、ちょっ注文!えーっと何頼む?つーかお姉さん何歳?四十いってない感じ?」
「絡むな馬鹿!すいません、こいつのことは俺らでしめとくんで、注文お願いします、えーと」
野菜炒め定食、五目焼きそば、ニラ玉定食、肉団子定食、餃子、ネギ拉麺、カニ玉、油淋鶏。
並行して四品も五品も作るのは飯屋ならどこでもやっている。油がバチバチ跳ねる音に混ざって、客の声が耳に入ってきた。
「レクサス来た!おーい!レクサス久々~!?」
「ヤバ、全然変わってねーじゃん!何してたん!?聞かせてよぉ~!」
来るはずがない。レクサスは死んだのだ。
ブレンダは無意識に薬指を見つめた。そこには結婚指輪が嵌まっている。一度付ければ輪の内側が肉と同化し、生涯外せない悪夢のようなアイテムだ。馴染みの店で深酒をしていたら、いつの間にか隣に座っていたレクサスが、ブレンダの指に装着していた。
レクサスは揃いの指輪を自分の指にも嵌めて、これが夫婦の証だと言い張り、挙げ句の果てに
「俺の部屋来いよ。それとも、お前の部屋に入れてくれるか?」とブレンダを口説いた。
最低の冗談だ。ブレンダは笑おうとしたが、できなかった。向けられた視線に込められたレクサスの本気を否応なしに感じ取り、ブレンダは
「勘弁してくれ」と呻いた。
「ビビんなって。……俺のこと好きだろ?じゃなけりゃ、とっくに俺を半殺しにしてるよなぁ?」
だが、半殺しにしたその後は、力ずくで押さえ込まれ、敗北を体に刻み込まれるのだ。レクサスは躊躇わない。楽しみながら、徹底的に、容赦なくやるだろう。それこそブレンダの心が折れるまで。
だから、ブレンダは、レクサスが自ら死に向かうよう仕向けた。
ブレンダ自身がそそのかせば警戒されるから、そうと知られないよう、多くの人を介して、有益な情報を断片的にレクサスの耳に入るようにした。
積極的な殺意があったわけではない。何しろたかだか人間一人、生きていようが死んでいようが、ブレンダをわずらわせなければそれで良いのだから。
結果、レクサスは自分の意思で「到底生きて帰れない場所へ赴き、困難な儀式に単身で挑むこと」を決意し、荒野へ旅立った。ブレンダの思惑どおりだった。
荒野へ姿を消したレクサスを、周囲は希少な素材の採取に向かったのだと誤解した。数ヶ月もすれば、レクサスの関係者は徐々に店に来なくなり、レクサスの話題も街から消えていった。
そうなると、ブレンダはレクサスのことなど、ろくに思い出しもしなかった。
一年もすれば、レクサスは死んだのだという認識が街には広がり、ブレンダもレクサスの死を淡々と受け止めた。
やれやれ、困った奴だったな。
薬指を見つめて笑ったことを覚えている。
けれども。
「レクサス~!待ってたよぉ!」
「乾杯しよ!みんなグラス持って~!特級冒険者、レクサスの帰還にかんぱーい!」
歓声が上がった。
高温の鉄鍋の前でブレンダは震えた。
店の中に『レクサス』がいる。人の姿をしているが、もはや『レクサス』は人ではなかった。魔族となっていた。
魔族は、人と違って魔力を有し、手足を使うように魔法を使う。どうやったのかは分からないが、低く見積もっても、『レクサス』は魔族の王に比肩する程の力を秘めていた。
ブレンダは震える手でコンロの火を消した。
逃げなくてはならない。人間だった頃でさえレクサスはブレンダの手に余る男だったのだ。
勝手口のドアを開ける。外は真っ暗だ。賑わう街の明かりに向かおうとして、しかし足が意思と無関係に止まる。
焦燥感の中、ブレンダは、思い出した。
レクサスが帰って来た時に出迎えるとブレンダは約束していた。約束は契約で、決して破ることの出来ない定めだ。だからブレンダは、レクサスが消えても店を畳んで他所に行くことが出来なかったのだ。今の今まで、他にやることもないからなんとなく、自分の意思でこれまで通りの生活を続けていたと思い込んでいた。勘違いだった。
「ブレンダぁ、久しぶり~!めちゃくちゃ会いたかったよぉ~!元気してたぁ?」
忘れかけていたレクサスの声が背後から鼓膜を揺らす。厨房に上がり込んだ『レクサス』が、ブレンダの肩を掴み、無理やりブレンダと目を合わせた。瞳から激情が流れ込んでくる。最後に会った時のレクサスと同じ、圧倒的な歓喜の中に情動と憎悪、思慕の念や期待、失望が混沌と入り交じり、どろりと重くねばついている。
「レクサス、なのか……?」
ブレンダは確かめるように言った。
「そう、俺だよ。お前言ったよなぁ?俺が、『お前と同じ』魔族に生まれ変わったら名実ともに夫婦になれる、心の底から愛し合えるって」
「言ってない。勘違いだ」
ブレンダの否定を、レクサスは鼻で笑った。
「お前が人伝に言ったんだから、お前が言ったのと同じだよぉ。お前が魔族だなんて他人の口から知らされた時、すげーショックだったけど、だから夫婦になれねーのか、って納得したんだよね。それで頑張って魔族に転生したのに、お前ときたら殺した亭主が帰って来たような面しやがって、傷つくわ~。……でも、いいよ」
レクサスは、ドアノブを握ったままのブレンダの手に手を重ねた。
「魔族は契約に縛られる。だから約束は必ず果たされる。俺達は名実共に夫婦だし、お前は心の底から俺を愛してる」
この場での逃亡を断念し、ブレンダは小さく笑った。
「夫婦に『なれる』、愛し合うことが『できる』というだけで、『そうする』という契約を結んだわけじゃないだろ。……まあ、でも、お前は人間やめるほど私を愛してるわけだし、それを無視するほど私も非情じゃないさ。一回試してみるのも良いかもな」
開いたドアが閉じる。どこまでも広がる暗闇が消えて、慣れ親しんだ橙色の明かりの下、客の喧騒と料理の香りの中にブレンダの意識は引き戻される。
約束は果たされなければならない。
だから、せめてマシなやり方で事が進むように足掻いている。
こんな日がいつまで続くのだろう。永遠に近い魔族の寿命は何かの罰のようだ。
うんざりした気持ちでブレンダはレクサスに向き直った。
「おかえり、レクサス。お前にまた会えて嬉しいよ」