第1話 捨てた想い
…ザザ…ン…
…ザザ…ン……
「………ん…」
潮の香。
波の音。
冷たい空気。
「!!」
私は、水の感触に目が覚めた。
目に映ったのは、薄暗くなり始めていた空。
「こ…ここは…?…っ」
半身を起こしながら、周りを見渡す。
後ろは絶壁。
目の前には足元まで海が来ており、私は人ひとりがやっと座れる岩肌の上にいた。
「な、なぜ、こんなところに…っ!」
立ち上がろうとしてクラリと視界が歪む。
力が入らず、立つ事ができない。
寒くて凍えそう。
「あ――――っ やあっと目が覚めたみたいねぇ!」
頭上から何かが聞こえた気がした。
見上げると油灯を手にした人が立っている。
高さは30mほどあるその先に、明かりに照らされてぼんやり見えたのは……
ロージー! 夫の愛人だ!!
そう確か…最後に一緒にいたのはロージー。
以前、彼女は我が家で侍女として働いていたが、突然辞めてしまった。
その彼女から届いた書簡。
“フィオーリ・オルウェル伯爵夫人
旦那様の事で、ぜひともお話したい事がございます。
ロージー・ヨークス”
「やっぱり…」
中身を読み、私は思わずつぶやいた。
私は夫であるジェニングとロージーの関係を、以前から怪しんでいたから。
書簡を読み終えると私は供を付けず、辻馬車で書かれていた住所へ向かった。
今思えば、無謀な行動だったわ。
けれど、供を連れて行く事は彼女を恐れているようで私の自尊心が許さなかった。
着いた場所は我が家から少し離れた建物。
立派な門を構え、広い庭には溢れんばかりの花々が咲き乱れている。
噴水の近くにはベンチが配置され、木陰にはガゼボがある。
我がオルウェル伯爵家より小さいが立派な屋敷だった。
だが彼女はヨークス男爵家の令嬢だ。
そんな家門がこんなに立派な屋敷を持てるものなのかと疑問に思うと同時に、ある考えが脳裏を過る。
その答えはすぐに分かった。
「この家は、旦那様が私の為に購入して下さったの。そしてこの家の至る所で、旦那様に愛されたわぁ。ベッドでしょう、あそこの出窓でしょう、あ、昨夜は今座っているソファでもしたわ。そんな抱かれ方、されたことないでしょ? 奥様は」
向かい合わせに座ったテーブルの向こうで、ロージーは勝ち誇ったように夫との情事の様子を私に語る。
その瞬間、私は持っていたティーカップを落とし、座っていたソファから立ち上がった。
「う、嘘よ…っ…!」
「信じたくないのはわかるけどぉ、奥様も何となく気が付いていたんじゃないの? 旦那様に女がいるんじゃないかって、その相手が私かもしれないって。私からの書簡が届いた時、心のどこかでやっぱり…って思わなかった? だから確かめに、ここまできたんじゃないのぉ?」
その言葉にギクリとした。
彼女の言う通りだから。
ジェニングはロージーが侍女として働いていた時から、彼女の事を気にかけていたわ。そのせいで、私達夫婦の間に軋轢が生じるようになった。
けれど、気がつくといつの間にかロージーは仕事を辞めていた。
そしてその日から、ジェニングは家をよく空けるようになっていったわ。
そんな状況で、二人の仲を疑わないはずがない。
書簡をもらった時から、話の内容は察しがついていた。
それでも最後の最後まで嘘であって欲しいと願いながらここまで出向いた。
けれど一縷の望みは、簡単に霧散してしまった。
「でもこの家も素敵だけどぉ、伯爵邸の方がずっ―――――と、素敵よね? 伯爵夫人になれば、あそこにある物ぜえぇんぶが私の物になるのよ〜〜〜っ♡」
ニコニコしながら話していたロージーが、急に真顔になってこう言った。
「だから、あんたは消えて」
「な、何を言っ……」
言い切らない内に、激しい眠気に襲われた。
(あのお茶……)
逃げなければ…と気づいた時には、もう全て遅かった。
気が付いた時には、この岩場に私は寝かされていた。
「あんたが悪いのよおぉっ あんたのせいで旦那様は私を妻に迎えられないのおぉっ身体が動かないでしょ?1時間ほどで薬が切れるから安心してえぇぇ。けどその頃にはそこは満潮になるけどねえぇぇ。心配しないでえぇぇ。私が伯爵夫人になってあげるからああぁ。さよ―――――ならあああ!きゃ―――――――っはははははっ!」
何か言っているけれど、波音と強風にさらされてほとんど聞こえない。
その内、灯とロージーの姿が見えなくなった。
「ま、待って! た、助けて! 誰かああああ! 助けてえええぇぇ!!」
助けを求める声を挙げても、波音に消されてどこにも届かない。
水嵩がどんどん増し、容赦なく私を引きずり込もうとする。
……私を殺すつもりなのね。
ジェニングも知っているの!?
「た、たす……て……」
凍える寒さの中、歯が悴む。
もう…声が出ない……
「ジェニング……」
ザッッッパ―――ン
愛する人の名を出した瞬間、大きな波に攫われた。
口から一気に海水が入り込む。
まだ薬が効いている身体では、海に抵抗する事もできない。
私の身体は光のない深淵へゆっくりと落ちて行った ―――――――
(ジェニング……)
こんな時にも思い浮かぶのは夫の顔、夫との数々の想い出。
けれど彼は愛人を持った裏切り者……
それでも私は希望を捨てなかった。
彼の感情は一時的なもの。
私と彼には共に過ごした日々がある。
想い出がある。
いつかまた、私の事を見てくれるのだろう
いつかまた、私に微笑みかけてくれるだろう
いつかまた、私を愛してくれるだろう……と……
愚かだった――――――
あの愛人を寵愛する事に夢中になり、妻の私は蔑ろにされた。
あなたの私への愛はとっくになくなったというのに。
だから私も捨てましょう。
あなたとの想い出も。
あなたへの未練も。
あなたへの愛情も。
すべて―――――……
◇
「奥様! お気づきになられました!?」
「……っ」
目の前には侍女のサナがいた。
「い、今お医者様を呼んでまいります!」
サナは慌てて部屋を飛び出していった。
「……わた…し……?」
私はゆるりと自分の手を見、動かす。
た、助かったの…?
誰かが助けてくれたの…!?
「でも……」
私は何か違和感を感じた。
ほどなく医者がやって来て診察を受ける。
医者の説明によると、私は庭園で転び、そのまま一日卒倒したとか。
(庭園で転んだ…?)
「もう大丈夫です。何も食べておりませんでしたから、まずは消化の良い物から摂るようにして下さい。」
そういうと医師はお辞儀をして出て行った。
そういえば……
「ジェニングは?」
「え、あ…はい…その…」
私にそう問われて、返答に戸惑うサナ。
そこで思い出す。
「ねぇ、暦板を取ってくれるかしら?」
「は、はい」
「!!」
手渡された暦板には『帝歴203年8月』と記されている。
私がロージーに殺されたのは11月だった。
「……今日は何日?」
「本日は8日でございます」
「そう……」
(ロージーに殺される3ヶ月前に戻っている…そんな事が……!)
「……」
新緑の頃、ロージーは雇用された。
8月ならジェニングはもうロージーとすでに関係を持っていたわ。
今だって、私が倒れたにも関わらず、様子を見に来ることはない。
きっと愛人宅にいるのね。
彼はロージーの為に、別宅を購入していたから。
さっきサナが返答にくちごもったのはそのせいだろう。
「奥様、いかがされましたか?」
黙り込んだ私に、サナが心配そうに声を掛けた。
「実家に早馬をお願い」
私は急いで書簡を書き、それを実家へ届けさせた。