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「君を知らない君が好き」  ー 記憶のない自分が、それでもまた君を選んだ。ー

君の隣にいるのに、君に「好き」と言えない。


幼いころから、当たり前のように隣にいたふたり。

名前を呼べば、返事が返ってくる。

ふとした瞬間、目が合えばそれだけでうれしくなる。

だけどその気持ちは、ずっと言葉にならなかった。


高校卒業を目前に、ようやく始まった恋。

でも現実は、夢のようにはいかなくて──

ふたりの距離は近づいたはずなのに、なぜか少しずつすれ違っていく。


そんなある日、突然訪れた“運命のいたずら”。

過去をなくした彼と、過去を知る彼女。

それでも、ふたりの想いは終わらない。


もし、大切な人がすべてを忘れてしまったとしたら──

あなたはもう一度、恋をやり直す勇気がありますか?


たとえ名前も、思い出も失っても、

心だけは、君を忘れたりしないから。


第一章:幼馴染の距離


「ねえ、遼。好きな人、いる?」


不意打ちだった。

商店街の脇道、ふたり並んで缶コーヒーを飲んでいたとき、那奈が突然そんなことを言い出した。


「……は? なんで急に」


「んー、気になっただけ。ほら、もうすぐ卒業だし、そういう話あってもおかしくないじゃん」


遼は、缶の口に軽く唇をつけたまま、那奈の横顔をちらりと見た。


「……そっちは?」


「やだ、ずるい。先にあたしが聞いたんだから、そっちが先でしょ」


「いや、答えてからじゃないと答えられない」


「えー、何それ。じゃあ答えなくていいや」


「おい、聞いといてそれはねえだろ」


笑いながらも、遼の心臓は少し早くなる。

答えはもちろん“いる”。目の前にいる、この人だ。


けど、答えたら終わってしまう気がする。

この微妙な関係が、心地よくて、でも時々つらい。


「……まあ、いたとしても秘密だな」


「へえ、なんで?」


「言ったら笑われそうだから」


「わたしは笑わないよ?」


「じゃあ、那奈は?」


「わたし?」


「好きな人、いるのか?」


那奈は少し黙ったあと、小さく笑った。


「いたとしても、言わない」


「なんでだよ」


「だって、言ったら終わっちゃう気がするから」


その言葉に、遼の胸が一瞬ぎゅっと締めつけられた。

彼女も同じことを思ってる――そんな気がした。


「……だったら、お互い言わないままでいいんじゃね?」


「うん、そうだね。今がちょうどいいもんね」


お互い、もう分かってる。

どっちかが踏み出せばきっと終わってしまう“恋人ごっこ”。


気持ちはずっと前からそこにあるのに、

名前をつけてしまえば壊れそうで、だから今日も、何も言わずに並んで歩く。


遼はそっと、那奈の手に触れる。


「……ほら」


「ん?」


「“いつも通り”な」


「ふふ、ありがとう」


手と手が、そっと重なる。

たぶん、誰が見ても恋人みたいだった。


でもふたりだけが知っている――これはまだ、名前のない関係。


第2章:最後の“ごっこ”と、ほんとうの言葉


「ねえ、遊園地ってさ、普通カップルが行く場所じゃない?」


「じゃあ、俺たちみたいな微妙な関係で行ってもいいのかってこと?」


「うん……どう思う?」


「どうだろな。少なくとも、俺は今“ごっこ”って思ってないけど」


「……え?」


「冗談だよ」


遼はすぐにそう言って笑ったけれど、那奈は一瞬、本気で心臓が跳ねるのを感じた。

いつものように“冗談”で済まされる。けれど、その一言一言が、胸をざわつかせる。


ふたりは卒業間際の土曜、地元から電車で一時間の小さな遊園地に来ていた。

受験も終わり、制服を着る機会もあとわずか。

「卒業記念に何かしよう」という那奈の提案に、遼はいつものように「仕方ねぇな」と笑って乗った。


「遼、観覧車乗ろ?」


「はいはい、どうせそれが本命なんだろ」


「うん。高いとこから景色見るの、好きだから」


観覧車のゴンドラがゆっくりと空へ向かっていく。

だんだん小さくなっていく街並みを眺めながら、沈黙が訪れる。


「遼さ」


「ん?」


「ほんとに、好きな人、いるんだよね」


「……前にも言っただろ、秘密だって」


「やっぱり、わたしじゃないのかな」


「……なんでそうなるんだよ」


「だって、もしわたしだったら、少しくらいヒントくれてもよくない?」


「……」


「ねえ、遼。今日って……最後の“ごっこ”でもいい?」


「最後?」


「うん……なんとなく、これ以上続けたら……きっとどっちかが傷つくと思うから」


ゴンドラの中が、静かになった。


遼は、言葉を失っていた。

“最後”という言葉に、思ったよりも強く動揺していた。


「……ごっこじゃなくて、本物にしたら傷つかなくなると思わね?」


「……」


「……いや、やっぱ今のナシ。変なこと言った」


「……遼」


那奈は、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。

そして――観覧車が最上点に近づくその瞬間。


「わたし……」


その声は、かすれていた。


「遼のこと、好き」


「……」


「ずっと、言わないつもりだったのに。ごめんね、勝手に“ごっこ”終わらせようとして……でも、もう分かんなくなっちゃった。これ以上“ふり”してたら、自分の気持ち、ごまかせなくなりそうで」


返事はすぐには返ってこなかった。

けれど、ふたりの手が、そっと重なった。


まるでずっと、そこにあるのが当たり前だったかのように。


那奈が「好き」と言ったあと、ゴンドラの中はしばらく静かだった。


高くて遠い街の景色を背景に、ふたりはただ向き合っていた。


「……やっと言ったな」


遼が静かにそうつぶやいた。


「え?」


「いや。ずっと言い出せないんだろうなって思ってた。だから、俺も言えなかった」


「……それ、どういう意味?」


「那奈のことが、好きだよ」


那奈の目が、ふわっと潤んだ。


「……ほんとに?」


「うん、ほんと。……でも、“ごっこ”でずっとそばにいられるなら、それでもいいって思ってた。

言っちゃったら変わっちゃう気がして、怖かった」


「……うん、わたしもそうだった」


ふたりは、同じことを思って、同じように怖がっていた。

でも、ようやく言葉にした。


ようやく、向き合えた。


「遼、これから……“ごっこ”じゃなくても、ちゃんと手つないでくれる?」


「当たり前だろ」


「ちゃんとデートしてくれる?」


「しろって言われなくてもするよ」


「キスは?」


「……それは、卒業してからで」


「なんで」


「制服の思い出をそういうので上書きしたくないから」


「……変なの」


笑いながら、那奈はそっと遼の肩に頭を預けた。


外はすっかり夕暮れ。

オレンジに染まった景色の中、ゴンドラはゆっくりと地上へと戻っていく。


長く続いた“恋人ごっこ”は、ようやく幕を閉じた。

そして始まった――“ほんとうのふたり”。


第3章:すれ違いのはじまり


「……今日、行けなくなった」


スマホの画面に表示されたその文字を見て、那奈は小さくため息をついた。

大学に入って最初の春。

ふたりで出かけるはずだった映画デートは、また延期になった。


理由はバイト。遼の。


「ごめん、次のシフト代われないって言われてさ。週末また誘うから」


返信は優しい。

謝ってくれる。

でも、寂しさは消えない。


──付き合ったら、もっと一緒にいられると思ってたのに。


「いってらっしゃい、バイトがんばってね」と、那奈は短く返した。


「ねえ、これどう思う? 新しくできたカフェなんだけど」


スマホの画面を見せながら、那奈が言ったとき、遼は疲れた顔であくびを噛み殺していた。


「ごめん、ちょっと寝てないから、あとでちゃんと見る。ごめんね」


「……うん、いいよ」


ふたりの間には、いつも“いいよ”があふれていた。

でも、それは譲り合いじゃなく、我慢の合図に変わっていった。


ある土曜、ようやく時間が合ってデートできることになった。

那奈は少し早めに駅に着き、鏡でメイクを確認した。


遼は5分遅れてきた。

走ってきたのか、髪が乱れていた。


「ごめん、バス全然来なくてさ」


「……ううん、大丈夫」


那奈は笑った。でも心の中では、「わたしの方が楽しみにしてたのかな」なんて思ってしまう。


駅から歩いて10分のパンケーキ屋さん。

那奈がインスタで見つけて、ずっと行きたかった場所。


ところが──


「え、休業日……?」


「ごめんなさい、今日は厨房メンテナンスのため臨時休業です」


貼り紙を見て、那奈は思わず小さく声を漏らした。


「……まただ」


「また?」


「……ううん、なんでもない。別のとこ行こっか」


前にも、遼と水族館に行こうとして、チケット完売で入れなかったことがある。

映画館では、途中でプロジェクターの不具合で中止になったことも。


「一緒に出かけると、いつもこうなるね」


「え?」


「……なんでもない」


帰りの電車、ふたりはほとんど話さなかった。


遼からの「好きだよ」は、最近、少なくなった気がする。

手をつなぐのは、わたしから。

会いたいって言うのも、わたしから。


「恋人って、こんな感じだったっけ……?」


ベッドの中、天井を見つめながら、那奈はつぶやいた。


楽しいはずだった毎日。

やっと叶った関係。


なのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。


「“ごっこ”のときのほうが、幸せだった気がするなんて……バカみたい」


心が少しずつ、重たくなる。


そして──

この後に待っている“あの事故”が、ふたりの関係を大きく変えていくことになる。


第4章:わたしを忘れた君へ


「那奈、遼くん……事故にあったって……!」


大学の講義後、スマホに届いた友人のメッセージに目を疑った。


慌てて電話をかけると、相手の声は震えていた。


「バイト先の帰りに、車と接触して……頭、打ったらしいの……今、病院……」


走った。

電車を乗り継いで、ふたりの地元の病院へ。


汗ばむ手のひら、鼓動が喉まで響く。


こんなに会いたいって思ったのは、いつぶりだろう。

でも、こんな理由でなんて、思ってもみなかった。


「ご家族の方ですか?」


「……ちがいます。恋人です」


自分でもその言葉に驚いた。

“恋人”って、まだ口にすることに照れがあったはずなのに。


看護師が顔を曇らせる。


「頭部に強い衝撃があって……少し、記憶に障害が出ているようです。

 身元や家族のことは話せるんですが、他のことになると……曖昧で……」


「……わたしのこと、覚えてないってことですか?」


「……申し訳ありません」


膝が、崩れそうになった。


病室のドアの前で、那奈は立ち尽くしていた。


「覚えてないなら……わたしが会いに行っても、誰か分からないよね」


震える指でドアノブに手をかけては、離す。

何度も、何度も繰り返した。


たった数ヶ月前、観覧車の中で「好きだよ」と言い合ったふたり。

でも今、その言葉も、思い出も、全部――彼の中から消えてしまっている。


那奈はポケットから、小さなチョコレートを取り出す。


初めてふたりで出かけた日、彼が選んでくれた味。

「これ、うまいよな」って笑ってた遼の顔が、胸を刺した。


「もしかしたら、遼は……わたしと出会わない方が、もっと幸せだったのかもしれない」


心の奥で、ずっと思っていたことだった。

忙しいバイトも、すれ違いも、デートの失敗も、全部――わたしが原因かもしれないって。


「……ごめんね。来たけど、やっぱり行かない」


チョコをポケットにしまって、那奈は病室に背を向けた。


そのとき、ドアの向こうで、微かに声がした。


「……那奈……?」


けれど、その声は届かない。


那奈は、そのまま病院を後にした。


数日後、那奈は遼の連絡先を消した。

Instagramのふたりの写真も、すべて非公開にした。


「忘れてくれて、ありがとう」


でも、

遼の心の奥には、なぜか“名前だけ”が残っていた。


「……那奈、って……誰だ?」


記憶はなくても、

その名前だけが、妙に胸に引っかかっていた。


第5章:記憶の外のぬくもり


五月の終わり。

通い慣れた大学のキャンパスに、知らない風が吹いた。


講義帰り、那奈はカフェの外のベンチに座り、ゆっくりと飲み物をすすっていた。

今日も、バイトもサークルもない日。


「……なんとなく、この時間が一番苦手になったな」


空いた時間ができると、決まって思い出してしまう。

遼のこと。

あの事故。

そして、自分から会いに行かなかったこと。


「“私と出会わないほうが幸せだった”って、どこまで本気で思ってたんだろう」


独り言みたいに小さくつぶやいたそのとき――


「……あれ?」


横から、懐かしすぎる声がした。


心臓が跳ねた。


ゆっくりと顔を向けると、

そこに立っていたのは、記憶を失ったはずの遼だった。


「……もしかして、那奈?」


名前を呼ばれた瞬間、呼吸が止まった気がした。


「……どうして……」


「わからない。でも、見かけたとき、名前が自然に出てきた。

 なんか……懐かしいっていうか……」


「……記憶、戻ったの?」


遼は首を横に振った。


「違う。ただ、頭の奥のほうで、君のことだけは……ずっと気になってた」


那奈は戸惑いのまま、立ち上がる。


「……わたしに近づかないほうがいいよ」


「なんで?」


「あなたは、わたしのことなんて……もう忘れてたのに。

 わたしと一緒にいたって、不幸になるだけだよ」


「不幸?」


「デートすれば失敗ばかり。会いたくても会えない日々。

 好きって言っても、言葉がすれ違って、バランスも壊れて……

 わたし、あなたの負担になってた気がするの。だから、もういいの」


遼はしばらく黙ってから、ポケットを探った。


取り出したのは、小さなチョコレート。


「これ、最近なんか気になってさ。買ってみたら、すごく懐かしい味がした。

 変な話だけど、“誰かと分けてた”ような気がしたんだよね。君とだったのかな」


那奈の目がにじんだ。


「……そう。わたしがあげたやつ。初めてデートした日。君が美味しいって言ってたから」


「そっか……やっぱり、忘れてないんだな。頭は忘れてても、心が覚えてるんだよ。きっと」


「やめてよ……そういうの……ずるいじゃん……」


那奈の声が震えた。


記憶を失っても、名前が浮かび、チョコレートの味に懐かしさを覚えた。

それだけで、十分だった。


「ごめん、急に……会えてうれしかった。じゃあ……」


遼がそう言って立ち去ろうとしたとき、

那奈の手が、彼のシャツの裾をそっと掴んだ。


「……やっぱり、もう一度だけ……わたしと話してくれない?」


「もちろん」


夕暮れのベンチで、ふたりは並んで座った。

最初はぎこちなかった会話も、少しずつ、自然な笑いに変わっていった。


言葉じゃない何かが、ふたりをつなげていた。


記憶の外にある、確かなぬくもりが。


第6章:記憶がなくても、君を好きになる


遼と再会してから、一週間。


ふたりはたまに連絡を取り合うようになっていた。

“前みたいに”ではなく、“まるで初対面同士のように”。


けれど不思議だった。

笑い方も、話し方も、気を遣うタイミングすら――

どこか懐かしさに満ちていて、やっぱり彼は「遼」だった。


「ねぇ、映画とか……久しぶりに、行ってみない?」


遼からそんなLINEが来たのは、金曜の夜。


驚いた那奈は、しばらく画面を見つめたまま返信できなかった。


那奈:……デートってこと?

遼:わかんない。でも、君となら楽しい気がするから

その一文が、胸に深く沁みた。


週末。待ち合わせは、地元の映画館の前。


遼は少し緊張した様子で那奈を見つけると、笑顔を見せた。


「……髪、少し切った?」


「……うん、ちょっとだけ」


そんな何気ない会話が、愛おしい。


映画はコメディだったけれど、途中で二人して笑いをこらえきれず肩を揺らすシーンも。

どこか懐かしい。

けれど、記憶が戻ったわけじゃない。


ただ、同じように“楽しい”を共有できるだけ。


映画の後、駅までの帰り道。

ふたりは少しだけ、距離を詰めて歩いていた。


「不思議だな。記憶がないのに、君といると落ち着くんだよ。初めて会ったはずなのに」


「……遼」


「那奈は、どう思ってる?」


「わたしは……ね……正直、迷ってる」


「迷ってる?」


「記憶が戻ってないのに、こんなふうにまた会ってたら……

 わたし、きっとまた……好きになっちゃう気がするから」


沈黙。


でもその静けさを破ったのは、彼のまっすぐな声だった。


「……それ、たぶん同じだよ」


「え?」


「俺も、今の君に惹かれてる。記憶がなくても、君をまた好きになってる自分がいる」


風が吹いた。

那奈は目を見開いたまま、言葉が出なかった。


「それって、ずるいよ」


「……そうかもな。でも、俺が今覚えてる“気持ち”は、たぶん嘘じゃない。

 名前も、味も、声も――全部忘れてても、君に惹かれてる。

 ……それだけは、本当なんだと思う」


ふたりの間に沈黙が流れる。


けれどその静けさは、苦しいものじゃなかった。


夜の空気に、少しだけ優しい匂いが混じっていた。


「……じゃあ、少しずつでいい?」


「うん。ゆっくりで」


手はつながない。

でも心は、もうすぐ届きそうな距離にあった。


第7章:この気持ちは、はじめてじゃない


六月の風は、少しだけ湿っていて、でも冷たかった。


遼と那奈は、たまに会うたびに少しずつ距離を縮めていった。

夜のコンビニ前、大学帰りのカフェ、雨宿りのバス停――

どれも“ありふれた時間”だったけど、ふたりにとってはすべてが特別だった。


「この間、変な夢を見たんだよ」


ある日、遼がぼそっと言った。


「夢?」


「うん。ベンチに座ってて、となりに誰かがいた。顔は見えなかったけど……手を繋いでた。すごくあったかくて、安心する感じ」


「……それって、どんな場所だったの?」


「桜が散ってた。……もしかして、どっかで一緒にいたことある?」


那奈は、心臓を掴まれたような気がした。


あの春、告白した日の記憶。

ふたりで桜並木を歩いて、最後にベンチに座って――


「……それ、きっと“初恋の記憶”なんじゃない?」


「初恋……か」


那奈は、はぐらかすように笑ってみせたけど、内心は揺れていた。


(いつかこの人に、本当のことを言わなきゃいけない)


**


夕方。ふたりは地元の公園を歩いていた。


少し前なら、“告白したあのベンチ”に行くことなんてできなかった。

でも今は、そこに自然に向かっていた。


ベンチに座り、風が頬をなでる。


「ここ、落ち着くね」


「……遼」


「ん?」


「もしさ……全部忘れてても、また同じ人を好きになることって、あると思う?」


「あると思う。むしろ、俺はそれを証明してるかも」


「……そう?」


「うん。君に会ってから、何度も“初めて”を感じた。でもそれ以上に、“懐かしい”って思った。

 目が合うだけで、名前を呼ばれるだけで……なんか、前から知ってたような」


那奈は胸の奥が苦しくなって、下を向いた。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「……ほんとはね、わたしたち……」


「……?」


「高校のとき、恋人だったんだよ。ちゃんと、両思いで。わたしから告白して、遼がうなずいてくれて……でも、うまくいかなくて。事故があって……あなたの記憶がなくなって……」


風の音が遠ざかっていく。


「本当はすぐに会いに行こうと思ってた。でもね……わたし、怖かった。

 “わたしと出会わない方が幸せなんじゃないか”って……思っちゃったから……」


遼は、しばらく何も言わなかった。

ただ、那奈の震える声をじっと聞いていた。


そして――


「ありがとう、言ってくれて」


「え……」


「俺ね、ほんとのことが知りたかった。記憶が戻らなくても、“今”の気持ちが間違ってないって信じたかった」


ゆっくりと、那奈の手に、自分の手を重ねる。


「忘れてたこと、すごく悔しい。でもさ……やっぱり君を好きになるんだよ。

 記憶がなくても、君の声に安心して、君の笑顔に救われて……

 これって、はじめてじゃないんだって、わかってたよ」


涙がこぼれた。


それは後悔でも、悲しみでもなくて――

やっと心から、信じられた温かさだった。


ふたりは静かに、手を繋いで並んで座った。


過去を知る彼女と、記憶のない彼。

でもその心は、もう一度同じ場所にたどり着いていた。


第8章:ふたりのこれから


「じゃあ、これで本当に……恋人、なんだよね?」


「……うん。もう一度、ちゃんと始めよう」


夜の駅前でそう言い合ったのは、あの日から一週間後だった。


遼と那奈は、過去を共有した“元のふたり”とは少し違う、

“新しいふたり”として恋人になった。


だけど、何もかもが順調というわけではなかった。


「ごめん、今日もゼミ終わらなかった……また映画、延期にしてもいい?」


那奈はスマホを握りしめ、ひとつ息をついた。


遼が悪いわけじゃない。わかってる。

でも、どこか胸の奥がちくりと痛んだ。


「うん、わかった。頑張ってね」


そう返したけれど、内心は少しだけ寂しかった。


前のふたりも、たしかこんなふうだった。

すれ違って、予定がずれて、心の距離まで変わってしまった。


(また同じになったらどうしよう……)


不安がよぎるたびに、那奈は過去の記憶を辿ってしまう。


だけど――


「那奈、次の休み、俺が全部空けた。どこ行きたい?」


数日後、遼から突然の連絡が来た。


「え?」


「前みたいに、すれ違ったままで終わるの嫌だから。

 君が会いたいって思ってくれてるの、わかるから……俺も、ちゃんと応えたい」


その一言で、涙が出そうになった。


彼は、もうあの“過去の遼”ではない。

でも、“いまの遼”が――目の前の那奈を、きちんと見てくれている。


次の休み。ふたりは高台の公園に来ていた。


前と同じベンチではなく、違う場所。

でもそこには、変わらない風と光があった。


「今度こそ、うまくいくかな?」


「いくよ」


「根拠は?」


「君を、ちゃんと好きだから。前の俺じゃなくて、“いまの俺”が」


那奈は笑った。


「それ、ちょっとキザかも」


「たまには、言ってみたかったんだよ」


ふたりは見つめ合って、声を立てて笑った。


忘れた記憶を取り戻すより、

これから作っていく時間のほうが、ずっと大切だと思えた。


夕焼けのなか、遼がふとつぶやいた。


「君といるとね、もう“はじめて”って感じがしないんだ」


「それって……どういう意味?」


「君を何度好きになっても、それは“もう知ってた気持ち”なんだよ。

 ……きっと、前世でも君を好きだったんじゃないかな」


「なにそれ、ずるい……」


「でしょ?」


ふたりは、笑い合った。


この世界で、何度出会っても。

君のことを、また好きになる――そんな確信が、胸に宿っていた。


最終章:忘れても、また出会える


春が近づいていた。


大学生活ももうすぐ終わり。

バイトも、就活も、卒論も、一段落ついたふたりは、再びあの公園のベンチにいた。


違うのは、空気の匂いと、ふたりの関係だった。


「この前さ、病院行ってみたんだ」


ふと、遼が言った。


「えっ……」


「記憶、戻るかもしれないって。もしかしたら何か思い出すかもって。

 でも……途中でやめた」


「……どうして?」


「戻さなくてもいいって思ったから。

 だって、俺は“今の君”と、ちゃんと恋をしてるから」


那奈の目が潤んだ。


「でも……つらくない? 私との思い出、全部なくて……それってやっぱり悲しくて……」


「悲しくないよ。だって今、こうして君の隣にいられる。

 記憶よりも、君が笑ってる“この時間”のほうが、ずっと大事だから」


沈黙のなかで、風が吹いた。

桜のつぼみがわずかに揺れる。


「もしさ、また全部忘れても……」


「うん?」


「また、わたしを好きになってくれる?」


遼は少しだけ笑って、那奈の手をぎゅっと握る。


「もちろん。なんなら、そのときも先に好きになるよ」


「なにそれ、ずるい……」


「そう言って、君が照れるのも知ってる」


「知ってないでしょ、覚えてないくせに」


「覚えてなくても、心が覚えてる。……君が好きになる人は、きっと何度生まれ変わっても君だよ」


春の光のなか、ふたりはベンチに座って笑った。


すれ違っても、記憶をなくしても、

それでも“また出会って”、もう一度恋をした。


大切なのは、何を知ってるかじゃない。

いま、隣にいる人をどれだけ大事にできるかだ。


那奈はそっと目を閉じた。


きっとまた――この先も、彼を好きになる。


何度だって。


〈おまけ〉


ある春の日。


ふたりは手を繋いで、桜のトンネルを歩いていた。


「この道、前にも来た気がするね」


「うん……わたしも、そんな気がする」


「不思議だな」


「ううん、不思議じゃないよ」


「どうして?」


「だって、好きな人と一緒にいるときって、

 たとえ“はじめて”でも、どこか“懐かしい”から」


彼は笑った。


そして、もう一度那奈の手を強く握った。


──忘れても、また出会える。


たとえ名前も、過去も、記憶もなくしても。


好きになる気持ちは、何度でも生まれ変わる。


そう信じられる恋が、ふたりの心にずっと息づいていた。



あなたは恋人を大切にできていますか

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