4.永楽
気分の高揚は慣れないことをしたい気分にさせる。有象無象のキャッチを払いのけて自らの意思で決めた店。ボーイの声がする。
一名様ですか?
えぇ。一人です。
自信をもってボーイの声に応えることができた。カフェに入って、恥ずかしそうに一人ですと言っていたあの時の俺は今はいない。テーブルに案内され、ソファに腰を掛ける。こんなにもふわふわした感触は初めてだ。精々パイプ椅子にしか座ったことがない俺は、ソファだけでも大いに満足できる気分だった。
煌びやかな飾り付けがなされた店内の装飾を眺めていると、ミラーボールみたいな服を羽織った女がこちらへ来た。
「あら。こんばんは。ここへ来るのは初めてかしら。」
女が隣に座る。右を見ると初めて目が合った。人の温もりを右腕で、右脚で感じる。こんな近距離に人に座られるのは、初めてかも、しれない。瞳を見つめた後、顔全体をよく見る。所謂可愛らしいという顔立ちではないが、すらっとした顔立ちで鋭めの眼光は、猫を彷彿とさせた。俺は答える。
「うん。初めて。そもそもこういう店に来るのも初めてなんだよね。」
相手は確実に年下であったが、学生時代も後輩なんてものはいなかったので敬語にしようか迷った。しかし、何となくのイメージでしかないが、ガキの頃に親が見ていたドラマを横目に見たとき、年の離れた男女が店で互いに敬語を使わずに、楽しそうに会話しているのを見たことがあった。
「そっかぁ。なんで来てみようと思ったの?」
頑張って身なりは整えてきたつもりだが、あまり金を落とさなそうだと思われたのか声に張りはない。
「少しお金が入って、これからどうしようか今日決めたんだよね。」
この話にどれほど食いついてくるか試してみた。
「そうなんだ!これからっていうのは何をすることにしたの?」
予想外だった。確実に金の話に話題は移るだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。だが、睡眠で稼ぐなんて言ってもばかばかしすぎる。しかし、俺はこの年まで浮浪者のように生きてきている。この状況をうまく切り抜ける術なんぞ、いくらでも持っている。
「雇われで働くのを辞めてフリーランスとして独立したんだよね。仕事内容はまだ人にはあまり言ってないから、今度機会があったら教えるね。」
しっかりと横文字の意味をわかっている訳ではないが、これでいい筈だ。次来ると仄めかしているのも良い点だろう。我ながら上手い返しができた。
「自分だけでお仕事するってこと?すごくかっこいいじゃん!自分で将来のこと決められる人ってかっこいいなぁ。」
これが明らかなぶりっ子に言われていたのなら、持ち上げるためだけのお世辞に感じたのだろうが、こう、美しい女性に言われるとわかっていてもうれしい。しかも、さっきより女性の話すトーンが上がった気がする。それにつられて、こちらの気分も高揚する。
「今までは、この才能が生かし切れていなかったと思うと悲しくなるね。でも、日の目を浴びる時が来たことをうれしくい思うんだ。」
「才能があっても運やタイミングに恵まれなきゃあ、しょうがないよね。」
「時は来た。やれることをやるだけなんだ。」
なんか勢いで嘘か真かぎりぎりのことも言った気がする。こちらが話しているときの相槌が心地よい。経験したことがない程に饒舌に喋った。始めは主にこちらが質問攻めにされているような状態であったが、会話が盛り上がってきてからは、彼女も自らのことを話してくれた。男との素っ気無い会話しか経験したことのない俺にとって、夢のような時間だった。今まで一人寂しく飲んでいた酒だったが、今日は比べ物にならないくらい旨い。所詮バイトでは飲み会なんてものは無かった。というか、あっても誘われたことがなかったので、俺の酒の強さを見せつける機会はなかった訳だが、今は存分に楽しみながら見せつけることができる。
まるで夢見心地であった。
あっという間に過ぎた二時間だった。といってもクレジットカードの審査など通ったことのない俺は、自制して財布の中の金だけで会計できるようにした。家路での夜風は今までで一番気持ちよかった。
微睡の中、家に到着する。布団に倒れ、背を上にして眠った。
男の部屋は常に薄暗い照明で照らされている。
照明の周りには小さな虫が数匹。
照明は月明かりとなる。
壁には殆ど捲られていない空白のカレンダー。
使用形跡のない台所。
常に小窓は開いている。
財産はない。
盗みには入られない。
寝返りを打つ。
スマホがポケットから出る。
画面が明るくなる。
アプリが自動的に立ち上がっている。
文字が表示されている。
”睡眠監視中”