君、明日から来なくていいから
「いや、え? は? え?」
「……はい?」
「いや、え、今なんて?」
「今……? ああ、おはようございます、と」
「え、ああ、おはよう。いや、え?」
「はい?」
「いや、私、昨日言ったはずだよね? 『君、明日から来なくていいから』って」
「はあ、まあ、はい」
「なのに、どうして会社に来たの……?」
とある会社のオフィス。出社した課長はデスクに座るその男を目にし、驚いた。
一方の男はというと無表情。平然とした様子。それがひどく不気味に思えた。周りの社員たちもなぜ……と、動揺しているのが見受けられる。
「いや、まあ、ちょっと……」
「いや、ちょっとって君……こっちは本気で、え、まさか冗談と? いやでもなぁ、確かにちゃんとクビと伝えたはずだけど……」
「はい、あれは本気だったと思ってます。自信持ってくださっていいですよ」
「おぉ……じゃあ、ますますわけがわからないよ……あ、荷物! 荷物を取りに来たのか!
いや、自宅に送るとも言ったはずだが、ははは、まあいい。じゃあ持って帰ってね。早くね」
「いや、ちょっと……」
「いや、ええ……首を傾げて、なんなんだ君、怖いよ」
「まあ、はい」
「なんなんだ、その返しは……。と、とにかく席から立って! もう君の席じゃないんだから! とりあえずほら、壁、そこの隅にでも立ってて!」
「はい、まあ」
「おお……素直に従いはするんだな、ますます怖い」
「あの、課長」
「おお、係長。これは一体どういうわけだ?」
「いや、私どもも驚いていまして……。てっきり、あのあと、あいつが裏で課長に謝り倒して許してもらったのかと」
「いや、そんなことはないよ。それにクビは決定事項だ。彼は一見、真面目な男に見えるが、仕事ができないし覇気がない。それゆえか取引相手を怒らせることも多々あった。
で、叱っても反省をしない。またミスをする。いやー、クビにしてせいせいしたよ本当に」
「でも……来ているんですよね」
「ああ、だから怖いんだ。あの男は異常だよまったく。しかし全然帰ろうとしないな」
「それですよ」
「ん?」
「異常。帰ろうとしない。つまり、復讐に……」
「おいおいおいおいやめてくれよ。私はそういうの駄目なんだよホント」
「私もですよ。と、言うかみんなそうですよ。ほら、社員全員が戦々恐々としてますよ。ここは課長がグサッと、あ、間違えたビシッと言ってやってくださいよ」
「嫌な間違え方だな……ちなみに持っていると思うか? 刃物を」
「まあ……じゃあ、どうぞ」
「どうぞじゃないよ。試しに、おひとつじゃないんだから」
「腰より上あたりを相手に向けて、さぁさぁ」
「二つあるからいいってもんじゃないよ腎臓は」
「じゃあどうします? 警察を呼びますか?」
「いやいやいや。騒ぎが大きくなるのはマズいよ、私が上からお叱りを受けてしまう」
「そうですよねぇ、課長のパワハラが原因ですからねぇ」
「そうそ……いや、は? おいおいおいおい、それは穏やかじゃないな。パワハラ? 私が?」
「ええ、それこそ昨日もこのオフィスで言ったじゃないですか。明日から来なくていいとか」
「そりゃ言うだろう。クビにするんだから」
「他の社員の前で晒し者のように、それに他にも色々と言ってましたよね。さらに言えば昨日だけでなく、何回も公開説教を……」
「き、君だって私に同調していたじゃないか! それになぁ、あいつが仕事ができないのは事実なんだ。それをすぐパワハラなどと……」
「でも相手がパワハラと感じたらもう、そうですからね。まあ、客観的に見ても認定されるでしょうが」
「だが、クビを取り消すのも屈したという前例に……うわ、あいつ一点を見つめたまま動かないぞ」
「ゾッとしますね。しかし、よくもまあ何もせず立っていられますね彼」
「お、それだ」
「はい?」
「いや、そのうち音を上げるだろう。我慢比べ。放置だ放置。さ、仕事仕事」
「現実逃避な気がしますけどまあ、課長がいいなら、みんなにも彼に構わないよう言っておきますよ」
と、決断を下した課長だったが、トイレや食事でその場を離れることはあっても結局、彼はその日、終業時までその場で立っていた。
「……いや、あの、そのそろそろね、時間も時間だし帰ってほしいかなって、ほら、施錠もね、したいわけだし」
「ここをですか?」
「うん、この会社、ビル全体をね、決まりだからね、さあ、帰ろうね? ね?」
「まあ、はい」
「お、おお……よかった……」
その異様さに弱腰になっていたゆえに、すんなりと彼が帰ってくれたことに課長は心底ほっとした。が……翌朝。
「き、き、君、また来たのか……?」
「はい、まあ、おはようございます」
「お、おお……おはよう、ございます……あの、確認なんだけどクビってことは知ってるよね?」
「はい、まぁ、はい」
「おお……じゃあ、なんで、ん? な、なんだ君たちは」
「どうもーちょっと取材の方を、あ! 彼ですね! 理不尽に対し、ただ立つことで抗議をしているという社員は!」
「え、な、ええ!?」
恐らく社員の誰か、あるいは複数名が面白がったか不気味がり、彼の話を広めたのだろう、マスコミが取材に来たのだ。そして、それは日を跨ぐごとに巻き込むように数を増し、大きな話題を呼んだ。
仕事はできないが真面目というのが同僚一同の彼に対する評価。その真面目という部分ばかりが注目、強調され、現代のサラリーマンの共感を招いたのだ。
当然、クビを取り消し。早急に事態を収束させるべきだと課長は思ったが「いや、早々に屈したとあっては会社として格好がつかない。言ってもこちら側に落ち度はないのだ。それにこれも宣伝になる。いいところで彼の主張を受け入れる。そう、これはチャンスだ」と、慣れない事態にやや錯乱気味の社長からのお達しを受けた結果、静観。彼はそのまま立ち続けた。
差し入れや応援の声が殺到。彼は終業後も会社の中にいることを許されたのだ。
そして一週間が過ぎ……。
――ガチャ
「ふぅー、ようやく一人になれたよ。飽きるのが早いんだか遅いんだか、まあいいけど……お、よしよしこれで一安心だ。仕掛ける時に映っちゃった気がしていたからな。さあ、帰ろう」
彼は女子更衣室に仕掛けた盗撮カメラをポケットに大事にしまい、会社を後にしたのだった。