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逆ハー失敗ポンコツヒロインは悪役令嬢の敵ではない

作者: 羊皮紙

「あなたの瞳、とっても綺麗な色ね! まるで······まるで、えーと、なんだっけ? とにかく、うん、綺麗だわ! あの······そう、そうだわ、宝石みたいに!」


──あ、その言葉選びはマズい。


 突然ですが屋根の上からこんにちは。悪役令嬢のリリリリリー・リンドリリーですわ。名前にリの数が多い?どうやらこのゲームを作った方にはネーミングセンスが本当に無いようですの。気にしないでくださいませ。


 お天気がいいから5階建ての学園の屋根によじ登って昼食を食べていると、下の方から声が聞こえた。む、とわたくしの視力5.0の両目で下の方を覗くと、ふたつの人影が見える。


 ひとりは素朴な可憐さを引き出す薄茶の髪をふたつに分け、首の辺りで結んで肩におろしたおさげの女の子。瞳ははちみつを呑み込んだようなまばゆい金色で、ともすれば威圧感を感じさせる色彩をゆるく垂れたやわらかな眦が中和している。鈴を転がしたような透き通る声は心地よく耳朶を抜け、きらきらしいドレスよりも純白のワンピースが似合うであろうすこし低めの身長は貴族社会に染まらぬたどたどしい佇まいもあって庇護欲を掻き立てた。ひらけた草原に咲いた一輪の野花のようにかわいい人だ。


 対するのは男。金髪だから王太子のポンドル・エン王子だろう。たぶん目と鼻と口がついている。


 思わず耳を澄ませてみれば聞こえてきたのが冒頭のセリフだ。どうやら女の子のほうがポンドル王子を口説いているひとときのようだった。


(フェフェ、今日も頑張っておられるのね)


 フェフェ・フェルターン。曰く、ネーミングセンスなしのこの「ゲーム」の世界の中で中間程度の名前の酷さを持ち、ついでに「ヒロイン」である男爵令嬢。伯爵家以上あるいは何か特殊な才能を持つ者のみが通うことが許されるこの王立学園に、ズバ抜けた身体能力の高さで入学してきた才媛だ。


(彼女なら屋根の上のわたくしの存在に気づいたらひとっ飛びでここに辿り着ける。覗き見や盗み聞きなんてバレたら恥ですもの、ひとまず隠れておきましょう)


 《シークレット》と呟くと、真四角の黒い影がわたくしの身体を覆い尽くす。これで他人からは学園の屋根の上にデカくて黒い物体が突如出現したようにしか見えないはずだ。それにしても、さっきのフェフェの発言。


(あの言葉選びは良くないですわね。お相手のポンドル王子は自分を宝石や花に例えられると怒り狂って「全て」を破壊してしまう暴君っぷりで有名なお方。もう、フェフェったらうっかりさんね)


「私のことを、いま、宝石と言ったか? フェルターン嬢」


 お腹の底から冷えるようなドスの効いた低い声が聞こえる。フェフェはそれに気づかず「はい! 宝石みたいに綺麗です! 宝石って素晴らしいですよね」と斜め上の返しをしているが、ポンドル王子からの冷気は留まることを知らない。冬が近いから腹巻きをしていてよかったわ、と思いつつ覗き見を続行していると、ポンドル王子が空中からピコピコハンマーを取り出した。ポンドル王子はそういう能力を持っているのだ。


「私は人間だ。花や、まして宝石などではない。人間より、そして人間の極地たる私より、美しいものがあるものか──」


 そう言ってポンドル王子はピコピコハンマーを振りかざす。振り上げた風圧が《シークレット》の黒い影を揺らめかせ、清涼な空気を肺に届けた。王立学園は王都の奥まった自然豊かな場所にあり、空気がおいしいのだ。


 おいしい空気に深呼吸をしていると、ゴッと鈍い音がひとつ。もしや、と思い慌てて視線を下に戻すと、ポンドル王子から奪い取ったのであろうピコピコハンマーを持ったフェフェが顔面蒼白といった様相で立ち尽くし、その足元には血を流したポンドル王子が転がっていた。


「どうしよう。なんか殺しちゃった······」


 正確にはまだ息はある。わたくしの耳元にはポンドル王子の息遣いが確かに聞こえてきていた。けれど、ほうっておけばもうすぐ死ぬのは確実だった。


(やっぱりこうなるんですのね。仕方ないですわ)


 はあ、とため息が漏れる。フェフェは回復魔法を使えない。彼女にあるのは勇者もかくやというほどの異常な身体能力だけだ。あと頭もあまり良くないし、変なところで真面目だから、おそらくこの後は衛兵に自首しに行くつもりなのだろう。


「ヒール」


 だからその前にポンドル王子を回復する。王族が殺されたとなればさすがに事だ、フェフェも処刑を免れないだろう。それはわたくしの望むところではない。


 《ヒール》に癒され途切れそうにか細かったポンドル王子の呼吸が正常に戻ると、わんわん泣いていたフェフェが膝から崩れ落ち、両手を握って天に祈り始めた。《シークレット》があるから問題はないとはいえ、バレやしないかとドキリとする。


「ああ、ああ、神様!もしかしたら女神様!また私を救ってくださったんですね······!」


 救ったのは神でも女神でもなくリリリリリー・リンドリリーだが、訂正はしない。神の御業と思ってくれていた方が都合がいい。


 フェフェはリリリリリーに濡れ衣を被せないし、関わらない。それがフェフェとの契約だ。だからポンドル王子を回復させたのがわたくしだとバレてはいけない。


──私を救ってくださった。


 それはわたくしのセリフなのに。


      *     *     *


『リリリリリー様······あなたはこのままだと、破滅します。フェフェ・フェルターンを虐めたという罪で、必ず』


『は?』


 王子や兄様に纏わりつく令嬢を追い払う日々を送っていたわたくしの前にフェフェは突然現れ、彼らと懇意にして「逆ハーレム」を築くと言い、「ヒロイン」であるフェフェをいじめたら酷い目にあいますよ、と注意してきた。この時点でわたくしとフェフェは初対面である。


 意味がわからなかった。


 最初はヤバすぎる女に絡まれたと思ったが、彼女は健気だった。わたくしが納得するまで毎日のように説得に通いつめ、あなたに不幸になって欲しいわけではないのだと、自分はただ逆ハーレムを築きたいだけなのだと、必死に言い募ったのだ。


 勿論わたくしもそんな怪しい話を聞き入れることは出来ず、胡乱な目で追い払っていた。が、一度彼女が階段から足を踏み外して怪我をして、突き落としたのではないかと近くにいたわけでもないわたくしがまっさきに疑われたことがあった。フェフェが必死に「違います、私がドジっただけです」と言い回ってくれたおかげでなんとかなったとはいえ、破滅するというフェフェの言葉が思い出されて身体の底から心臓が冷えていくような感覚がしたものだ。


『私はあのとき、突然身体が動かせなくなって階段から落ちました。たぶん「イベント」のための強制力なんだと思います······改めてこちらの問題に巻き込んでしまったこと、本当に申し訳ありません』


 フェフェはそう頭を下げてくれたけれど。それなら、その物語の中でフェフェに起こる危険なことは、すべて現実になるのではないか。


 彼女はわたくしのせいにしてよかった。フェフェに説得されない「ゲーム」と同じわたくしなら、きっと身分に差のあり王子やわたくしの兄と懇意にしている令嬢を階段から突き落とすことも普通にしただろう。それをしなかったのはフェフェがわたくしに話しかけてきたからだ。元々はわたくしが「ゲーム」の中でそんな行動をとったせいで現実のフェフェが怪我をしているのだから、彼女はわたくしを責める権利がいくらでもある。


 正直、わたくしは既にかなりフェフェに絆されていた。「逆ハーレム」の志は意味がわからないし不純だけれど、彼女は努力家で、実が出ているとは言えないものの常に一生懸命生きていることが伝わったから。授業には遅刻も欠席もなく、成績は平均スレスレくらいだったけれど、学園の図書館へ赴くといつも備え付けの机に教材を広げて勉学に励む彼女の姿があった。


 少し、いいえ、かなり抜けているところがあって、見目麗しい令息のセンシティブな部分を踏み抜いて怒られているところを何度か見かけたけれど、それでも決してめげなかった。


 フェフェは複数の男子を自分のものにしようとしているところ以外は本当に誠実な人だった。「強制力」で自分の力で抗えない「イベント」が発生し、他の者に迷惑をかけた時は、決まって自ら迷惑をかけた本人の元まで行って謝り続けていた。罵声を浴びせかけられようと、ドレスを汚されようと、手を上げられようと、何も言わずに。


『フェフェ様、わたくしはあなたを信じます。あなたが知っている「ゲーム」のお話を、できる限り聞かせていただけないかしら』


 もう最近はただのお茶会の場と化していた何度目かの「あなた破滅しますよ説明会」で勇気を振り絞っていったわたくしに、フェフェは嬉しそうに破顔して語り始めた。わたくしはフェフェの笑顔がなかなかに好きなのだと、そのとき思った。


 この世界はゲームの世界であること。自分が別の世界からここにやってきた「異世界人」であること。フェフェ・フェルターンがゲームのヒロインであること。わたくしがフェフェを虐めて破滅する「悪役令嬢」であること。王子とわたくしの兄とその他数人が「攻略対象」であること。この世界を作ったひとは「ネーミングセンス」がなく、みんな名前がおかしいこと。「逆ハーレム」を目指していること。ゲームの大まかなシナリオ、ゲームのわたくしがフェフェに対して嫌がらせをするタイミング、エンディング後の国のこと。


「ゲーム」の話をするフェフェはどこか懐かしむように、楽しさを声色に乗せていて。


『怖く、ないんですの』


『え』


『自分の知っている物語の筋書きに従わないことが。わたくしはあなたを虐めない、けれど、わたくしが虐めてこその愛だったんじゃないんですの』


 フェフェはぽかんとした顔をして、それから難しい顔をして、ついにはうんうん唸り始めて、言った。


『リリリリリー様、私は誰かを不幸にしたいわけではないのです。他人の不幸の上に立つ幸福に価値などありません。それに、敵がいるから成立する愛は敵がいなくなったら破綻します。フェフェ・フェルターンは、まっとうに幸せになるべき女の子ですから』


 フェフェは気高い人だった。逆ハーレムを作りたがっているところ以外は。


 そうしてゲームの話を一通りすると、わたくしの前に一枚の契約書が出された。大まかに言えば、フェフェはわたくしに濡れ衣を着せず、これから関わらないという内容だ。あとイベント発生時の処置など細かいものがいくつかあったが、それはわたくしへの契約と言うよりフェフェの決意表明のように見えたし、わたくしの関係するものとしても起こりえない可能性の対処法を考えるのは無意義なことだ、とだけ言っておく。全然乗り気ではなかったが、これを飲まないとわたくしが破滅するのだと滔々と説き伏せられ、結局頷いてしまった。


『リリリリリー様も、ぜったい幸せになってくださいね』


 もう会うことのなくなる別れのとき、彼女はやわらかく微笑んでそう言った。


 フェフェは知らないのだろう。冷えきった家族、忠誠のない使用人、制限された交友で、話し相手など誰もおらず、同年代の令嬢にも媚びを売られてばかりで、誰にも幸せを願われない女の子の孤独など。


 彼女はゲームのヒロインの説明をするとき、必ず「フェフェ・フェルターンは」という言葉を使う。「私」はヒロインではないのだと、自分はただの紛い物なのだと、そう言い聞かせるように。


 譲れない一線があるのだと思う。元の「ヒロイン」の場所を奪って自分が宿ってしまった罪悪感が、彼女には、きっと。


 それでも。


 それでも確かに、「フェフェ・フェルターン」の紛い物である彼女はわたくしに話しかけにきてくれた。わたくしを救ってくれた、わたくしだけの「ヒロイン」だったから。


 わたくしと出会ったのがあなたでよかった。


「フェフェ・フェルターン」ではないあなたがここにいてくれて、本当によかった。


 あなたが一緒に話をしてくれて、あなたがわたくしの幸せを願ってくれて。それだけでわたくしは幸せだった。たぶん、フェフェが離れずにいてくれれば、もっと。


(ともだちが欲しかったんだわ、わたくし)


 好きでもない王子のためにと思えるのは、嫉妬でも繋げられる仲が欲しかったから。冷えきった関係の兄様のためにと思えるのは、わたくしが兄様のためになれば兄様を好きな誰かと話ができるかもしれないから。


 わたくしはともだちが欲しかった。フェフェのような、可愛くて素敵で、一緒にいると幸せになれるおともだちが、ずっと、ずっと欲しかったのだ。


      *     *     *


 そうしてフェフェと関わりを絶ったあとだが、フェフェは学園で大暴れした。······主にその身体能力で。


 フェフェは恋愛方向にひどく不器用だった。「攻略対象」のセンシティブな部分を確実に踏み抜き、キレられて手を上げられそうになるが、身体能力の差で返り討ちにしてしまう。聞いた限り「イベント」で戦闘などをするときのために与えられたというフェフェの身体能力は、攻略対象を撲殺するためと言われても信じてしまいそうだった。


(これはさすがにマズイですわね)


 フェフェが死にかけのわたくしの兄に泣きながら縋りつくところを見て「フェフェは相変わらず不器用ね」と微笑ましく思っているわたくしの頭がではない。このままではフェフェは大罪人だ。


 仕方ないのでフェフェに気付かれないようにヒールを使って蘇生すると、フェフェは膝をつき、涙を流して手を組み始めた。


『本当に、本当によかった。殺しかけてごめんなさい。ごめんなさい。諦められなくて、ごめんなさい······』


 悲痛な表情で懺悔するフェフェにわたくしは心が痛くて泣きそうになった。どう考えても本当に泣きたいであろうは兄様だった。


 その後も学習能力ないのかってほど攻略対象を返り討ちにするフェフェに隠れてヒールをしているとなんかちょっと図々しくなってしまったりもした。彼女は誠実で努力家ではあるが聖人君子ではない。元々逆ハーレムを目指すような女なのだ、人並みに調子に乗りやすかった。仕方ないので時々ヒールをかけるのをちょっと遅らせたりして調整している。王子相手にもである。王子の安全よりもフェフェの情操教育の方が大事だと思ったのだ。


 けれど、せっかくわたくしが助けているのだからあまり引きずって欲しくはないのも確か。わたくしはフェフェの変化を愛おしく好ましく受け止めている。図々しいといってもフェフェは返り討ちに少しずつ手加減ができるようになってきているし、攻略対象を殺しかけたときに懺悔よりヒールへの感謝の方が長引くようになったくらいの変化だが。


 フェフェといる時間が好きだった。だからこれはわたくしなりの恩返しだ。


 フェフェがわたくしを幸せにしてくれたように、わたくしもフェフェを幸せにしたいと、そう思ったのだ。


 そうしてわたくしは、フェフェに隠れてヒールをかけ続けた──。




 と、ここで終わればよかったが。


「フェフェ・フェルターン、お前には人気のない場所で私や数多くの男子生徒の意識を奪いその身を襲った容疑がかけられている。貴族令嬢にそぐわない卑劣で醜悪なその心根、この場をもって裁いてやろう!」


 空中から真剣を抜いたポンドル王子が宣言する。


 いまは学園の卒業パーティだが、当たり前みたいにフェフェの所業はバレていた。「フェフェと会った見目麗しい令息が気絶した状態で発見される」ということが繰り返されているのだから当然だった。物的証拠がないから断罪に踏み切れなかったようだが、被害者のいる現状でこの機会を逃す訳にはいかなかったのだろう。


 ただ、誤算だったのはフェフェが彼らを殴って気絶させたとは思われていないことだ。防衛反応的な暴力ではなく、薬か魔法を使って眠らせた──有り体に言えば、フェフェが彼らを「襲った」という容疑がかけられている。「ヒール」と同時に攻略対象がフェフェに会った記憶もすこしいじっていたはずだが、攻略対象だけの記憶をいじろうと他の人だって状況は把握出来るのだ。フェフェと誰かが話をしているところを見たあとにその場に気絶した令息が残されるという状況から導き出される容疑としては妥当なものだった。これはわたくしの詰めの甘さね。


「なにか申し開きはあるか? 餞に聞いてやろう」


「いいえ、ありません。すべて疑いようのない事実です」


 フェフェは毅然とそう言い切る。「ヒロイン」だろうと「異世界人」であろうと、自分を殺すための刃が目の前に抜かれれば怖いだろうに、彼女は王子から目を離さない。フェフェのこういうところがわたくしは好きだ。容疑の内容をちょっと勘違いしているところも、何を言おうと普通に全部自業自得なところも。


「殊勝なことだ」


 ふ、と嘲笑の息をついた王子は、刃をフェフェに向けたまま彼女に侮蔑のこもった視線を向ける。と思ったら、ギュンっと音がしそうなほど急な速度で王子がわたくしに首を向けた。その目はどこか熱を孕んでいて、ちょっと背筋がゾワっとしてしまう。


「リリリリリー・リンドリリー嬢」


「は、はぁ······?」


「事件の現場に駆けつけて、気を失った私たちのために魔力を惜しまず癒してくれていたのは君だろう。醜悪なこの女とは違う、君は美しい心の持ち主だ。どうだろう、この断罪が終われば私と婚約してくれないか」


「は······?」


 こんなところでバラすなよ、とか、わたくしがフェフェのためにヒールをかけまくってたこととポンドル王子の婚約になんの関係が、とか、言いたいことはいっぱいあるけれど。そんなことより。


「ぁ、」


 わたくしはフェフェの顔を見てしまった。


 一瞬だけその表情を驚きに包んだフェフェは、つづけてふわりと笑った。ポンドル王子の言葉を聞いて、わたくしの顔を見て、花が咲くように、安堵するように、祝福するように、幸せを祈るように、笑ったのだ。


 それはたぶん、フェフェなりの諦めだった。失われた自分の命の先にあるわたくしの幸せを祝うことで、彼女は命を手放すことを納得しようとしている。


──リリリリリー様も、ぜったい幸せになってくださいね。


 あの日の言葉が頭を響かせる。あの言葉にわたくしは何を思った。何を誓った。


 フェフェを幸せにしたいと。幸せにしてみせると、そう誓ったんじゃないのか。


「あなたに、」


「ん?」


「あなたに、何がわかるんですの······ッ!」


 ポンドル王子は今のフェフェの笑みの意味を知らない。フェフェが孤独に溺れる女の子をひとり救ったことなんて、なんにも知らない。


 わたくしは知っている。フェフェが「攻略対象」の誰もと釣りあえるように、努力を怠らなかったことを。実らなくても諦めなかったことを。


 フェフェが逆ハーレムを作ろうとしていようと、王子たちを殺しかけていようと、濡れ衣でもない本物の大罪人であろうと。


 わたくしはフェフェのともだちだから、知っている。


 フェフェ・フェルターンはうつくしい。わたくしなんかより、誰より、うつくしい人なのだ。


「それはどういう······」


「フェフェ!」


「······ッ! リリリリリー様、私はっ······、」


「──『契約』のときよ! 連れていきなさい!」


 我慢ならないと王子の言葉を遮って放った言葉にフェフェは息を呑む。律儀な彼女のことだ、すぐにわたくしの言葉の意味に思い至ったのだろう。


 フェフェは絶対にわたくしを断罪しない。そう確信していたから流し見していた契約のなかにあった一文。


──婚約破棄あるいは断罪イベントが発生した場合、フェフェ・フェルターンが責任をとり、リリリリリー・リンドリリーを国外へ逃がす。


 誰の断罪だとは書いていなかった。なんの責任だとも。だからそれが履行されるのは、フェフェ・フェルターンが断罪される、今このときだ。


 もちろん詭弁も詭弁だが。現に連れていけ、といったわたくしがフェフェを連れていこうとしている。


 逡巡するフェフェの手を強引に引っ張って断罪の場から連れ出す。突然のわたくしの暴挙に王子は固まっていた。


 愛を請われる「ヒロイン」のような役回りから大罪人の共犯者に早変わりだが、なんの気後れもない。わたくしは「悪役令嬢」なのだ、罪は犯してこそだろう。フェフェのための悪役になれるなら、誇らしくすらあった。


「シークレット!」


 ホールの照明を狙って、天井すべてを張り巡らせるように「シークレット」を唱える。シークレットは外から見た時こそ機密性が高くなるが、中にいると周りが見えてしまうので、会場をすっぽり覆うのは悪手だった。だから照明を覆い、ホールの中を真っ暗に染めることにしたのだ。


 ざわめくホールの真ん中を、フェフェの手を取り駆けていく。腐っても公爵令嬢、このホールの間取りくらい目が見えなくても身体が覚えている。


「どうして、」


 手を引かれるフェフェの小さな声。なにを馬鹿なことを、と思った。そんなの、言われなくても決まっているだろう。


「悪役令嬢たるもの、ともだちを見捨てられるわけがないでしょう!」


 フェフェがどう思っているかなんて知らない。悪役令嬢は人にどう思われようと気にしないからだ。


 わたくしはフェフェをともだちだと思っている。だから助けたい。わたくしはただ、それだけ。


「でも私、王子さまたちを殺しかけてて、」


「知ってますわよ、今更そんなこと! 誰が隠れてヒールかけまくってたと思ってるんですの!」


「え、でも、逆ハーレムとか目指してるし、」


「ええ、愚かな子ですわ! でも王子たちに並び立とうと頑張ってるあなたを、全然努力は実ってないけれどそれでも諦めなかったあなたを、わたくしは知ってる!」


「実はけっこう調子乗りだし、」


「ええ、ええ! 実はってほど隠れてませんけれど! そこも可愛いところだと思ってますわ!」


「融通がきかないところもあって、」


「誠実ですわね! 好きですわよ、そういうところ!」


 走りながら問われる言葉に、食い気味に一答で逃げ場を塞いでいく。ぐぅと喉を詰まらせたフェフェは、目が慣れてきたのかわたくしの手を掴む力が弱くなってきた。フェフェはわたくしと一緒に走っていてくれる。拒絶しないでいてくれる。まだ生きようとしてくれる。それが嬉しい。


「出口······!」


 歩幅の感覚がそろそろホールの出口を抜けることを告げる。ひとまず心の中でほっと安堵したのも束の間、脛の裏のあたりに熱が走った。


「ぐっ······!?」


(騎士団長子息のアイツ············!)


 名前は忘れたが、騎士団長子息のアイツは確か弓も得意だった。撃ち抜かれたのだろう。返しのある矢じりを強引に引き抜くと、思ったより深い傷口からぼたぼたと血が溢れた。幸いヒールがあるので治すことはできるが、ここで立ち止まるとフェフェは捕まってしまう。


「リリリリリー様!?」


 苦鳴を漏らしたわたくしにフェフェが声をあげる。そろそろシークレットの効果が切れるころだ。フェフェをこのままにするわけにはいかない。


「逃げて、フェフェ! わたくしのことはとりあえずいいわ!」


「ええ!? 今更リリリリリー様を置いていくなんてできませんよ!」


 知ってる。フェフェはそういう人だ。


 わたくしを置いていくとわたくしはフェフェに手を貸した罰を受ける。フェフェがここに残ってもおなじ。こうなった時点でわたくしを巻き込まないためには一緒に逃げるしかないのだ。


 そしてきっと、フェフェもそれをわかっている。


「フェフェ!」


「なんであなたは······いや、うう、ああ、もう! 契約は契約! どうなっても知りませんからね!」


 まあわたくしがひとり残ったとしても王子の態度を見る感じではフェフェよりひどい扱いにはならないだろうけれど。それは黙ってフェフェを焦らせると、どうやら心に火をつけられたようだ。フェフェは心理戦に向いていない。


 暗闇の中でふわりと浮遊感を感じ、背と足にフェフェのすべらかな指が通される。走れないわたくしを横抱きにしたのだ。


「しっかり捕まって!」


「ええ!」


 強い口調に返事を返して首元に抱きつくと、わたくしの重さなんてないようなものというふうにフェフェが出口に向けて一気に駆け出した。それは嬉しいけれど、速度がマズい。もともとそろそろ出口に着く頃だったのだ。


「ちょっと、フェフェ! そのままではぶつかりますわ! フェフェ!? 落ち着いてくださいませ!」


 慌てるわたくしに何を考えているのかフェフェは何も言わない。もうダメだとぎゅっと目を瞑ると、横抱きにされたときとは異なる浮遊感とともにくるりと横に目が回る感覚があり、次の瞬間、大きな破壊音が聞こえてきた。目を開くとお月様と星空が見える。


「え?」


「リリリリリー様、舌、噛まないでください、ねっ!」


「え、え? え?」


 一瞬にして変わった景色に意味がわからないと混乱していると、フェフェが言葉とともにぐっと地面を踏み込んだ。びゅんと風を切る音がして、フェフェとわたくしは空を飛ぶ。違う。ぐんぐんと上がる高度に羽が生えているんじゃないかと錯覚してしまったが、フェフェがジャンプしただけだ。


「え、は!? なんですのこれ!? こ、怖い! もうちょっと低く跳んで! フェフェ! わたくし死んでしまいますわ!」


「空中に追手はいませんし、人はこの程度じゃ死にません! 安全でしょう!」


「わたくしの身体じゃ安全じゃないですわ!」


 フェフェは慣れているかもしれないが、わたくしの身体は急な高度の変化に悲鳴をあげている。たぶん彼女はそういうことを考えていない。脳みそが筋肉でできているのだ。


 仕方ないので矢で受けた怪我を《ヒール》するついでにわたくしの身体だけを覆うように《ドーム》を唱える。あらゆる環境の影響を拒む便利な魔法だ。フェフェにかけたらいつもと勝手が変わって墜落するかもしれないから、とりあえずわたくしだけ。


「し、死ぬかと思いましたわ······」


 フェフェのためなら命のひとつくらいあげるけれど、積極的に死にたいわけではない。今のはかなり危なかった。「大袈裟なんですから」とでも言いたげなフェフェの表情に苦笑いが漏れる。わたくしはいたって真剣に死にそうだ。


「────」


 目まぐるしく変わる景色を眺めていると酔いそうだったから、跳ぶフェフェの顔を見上げる。いつもきらきらとした光を見せるはちみつ色の瞳は瞼に覆われ、唇はなにかを堪えるように引き結ばれていた。とても怖いから目は開けていてほしい。


 一度目の跳躍で得た高度が次第に失われていき、地面に着地すると同時、踏み込みとともにもう一度わたくしたちは空を飛んだ。


 そうやって何度か跳躍を繰り返す間、たっぷりとした沈黙が流れる。その回数が十を越え、そろそろ月明かりに卒業パーティ会場の城の影さえ見えなくなる頃。先に口を開いたのは、フェフェだった。


「············逃げちゃいましたね」


「ええ、逃げてやりましたわ」


 あのとき、フェフェはたぶん、断罪を受け入れて死ぬつもりでいた。


 もともと「強制力」で発生したイベントの責すらすべて背負っていたような子だ。紛れもない自分の罪で裁かれることになるのならば、彼女は躊躇うことなく受け入れるだろう。それに割って入って、自分の怪我すら利用して、断罪から逃げさせたのはわたくしだ。


 わたくしはフェフェの生き様を歪めている。


 何よりも愛しいはずのフェフェのうつくしい心を、わたくしが汚した。うつくしいまま終わるはずだった命に泥を塗りたくり、生きながらえることを強いている。


 それでもわたくしに後悔はなかった。フェフェに死んでほしくなかった。生きることを諦めないでほしかった。


 幸せになって、ほしかった。


(だから、どうか、)


「生きていても、償うことはできますわ」


「············はい」


 つぶやくような細く短い返答は、かすかに震えていて。頬に数滴、熱い何かがかすめていく。わたくしはそれに気付かないふりをして、何も見ないように、フェフェの腕の中でゆっくりと目を閉じた。


(どうか、そんな顔をしないで)


 数度の跳躍を繰り返し、わたくしたちがエン王国の国境を越えたのは、それから数十分後のことだった。


      *     *     *


 フェフェとわたくしの跳躍逃亡は朝になるまで続き、へとへとになったわたくしの提案で身につけていた装飾品を売り払って安宿を借りることにした。フェフェはまだいけると言っていたが、ここは遠い異国。早馬でもエン王国から数週間かけてようやく辿り着けるような場所である。フェフェの体力と身体能力はもはや化け物だった。この地をひとまずの拠点にしても問題は無いだろう。


 売った装飾品はかなりの額になったが、今後のことも考えると贅沢はできない。「庶民感覚」とやらが発達しているらしいフェフェに従い、わたくしたちは二人部屋を借りた。公爵令嬢がこんなところで我慢できるんですか、みたいなことをフェフェに言われたが、冷えきった家庭から家出して野営すらこなしたことのあるわたくしにとってはなんの問題もなかった。あの時は三日経とうと捜索すらしない両親に意味のないことだと悟って帰宅したが、今回はもう帰ることはなさそうだ。


 借りた部屋に入った途端、いくつかの国を跳ね回るフェフェにひたすらしがみついていた疲れがどっと身体を襲ってきて、わたくしは泥のように眠った。全然疲れていないと言っていたフェフェも眠気は堪えられなかったのかよく眠り、いまは夜中というのにふたりで目を冴えさせている。


「私の前世は、本当に突然終わったんです」


 曖昧な沈黙に微妙な気まずさを感じていると、ゆっくりとフェフェが前世の話をしはじめた。唐突すぎてすこしびっくりしたが、その真剣な声色に口を挟むことはわたくしにはできそうにない。できるだけ優しく、素っ気なく聞こえないように、わたくしは「そう」と一言だけ返した。


「前世の私は高梨莉愛って名前で。仲良しの両親と、かわいい妹と、大好きな親友と。恋人はいませんでしたけど、幸せに生きてて。私よりも幸せな女の子なんていないんだってくらい、幸せで······」


 たどたどしく、フェフェは言葉を紡ぐ。愛おしい日常との別れをまだ受け入れられていないように、声には熱が籠っていて。三角に畳んだ膝に顔を埋める彼女がどんな表情をしているのか見えることはないが、わたくしもできればいまのフェフェの顔は見たくなかった。


「でもあの日、朝起きたら私はこの世界にいた」


 だってフェフェはいま、きっととても、辛い顔をしている。


「··················誰も、望んでないじゃないですか」


 絞り出すような声だった。罪を告白するような声。幸せを閉じ込めた熱はどこかに消えて、「高梨莉愛」の剥き出しの痛みがそこにある。それがあまりに痛々しくて、わたくしは目を伏せた。


「私がここにいることなんて、誰ひとり望んでない。私がここにいなければ王子さまたちはちゃんと幸せになれたかもしれない。私も今頃元の世界で生きてて、お父さんもお母さんも、瑠々もみずちゃんも悲しい気持ちにさせずに済んだかもしれない。それに、フェフェだって!」


「────」


「フェフェだって、私のせいで消えなくてよかった············ッ!」


 諦めが悪いことはフェフェの美徳だけれど、他人に迷惑をかけてまで、ましてや命を奪いかけてまで自分の望みを押し通すような人ではない。


 すこしだけ、考えていたことがある。どうして人の不幸を望まず自分の罪を認められるフェフェが、何度王子たちを殺しかけても話しかけるのをやめなかったのか。


 今なら分かる気がする。彼女はずっと、怖かったのだ。


「このゲームの逆ハーレムルートでは、最後に願いが叶うアイテムが手に入れられるんです。本当のフェフェは『みんなが幸せになれるように』って願ったんですけど、私は、」


 諦めることで、元の世界に帰る術を手放すことが。王子たちに有り得た幸せの形を失わせてしまうことが。肉体を外れたフェフェ・フェルターンの魂が本当に取り戻せないどこかに行ってしまうことが、怖かった。だから、


「私はずっと、ここから消えてしまいたかった」


 もう話すことはなくなったとでも言うように、彼女は膝に埋めた顔をもっと深く沈める。それが拒絶を示す姿である気がして、わたくしにはだんだんムカムカとした気持ちが湧いてきた。


 恐怖も罪悪感も消えてしまいたくなる思いも、きっと彼女の心臓にこびりついて決して消えないものだ。消してしまってはいけないものだということも、わかる。


 でも。わたくしは、目の前の彼女に、目の前の彼女だから、救われたのだ。


 だから、誰にも望まれないなんて、寂しいことを言わないで。


「わたくしは、あなたのことを望みます」


「!」


 彼女が膝に埋めていた顔を勢いよくあげる。何を、と驚愕に染まった瞳を、わたくしはキッと睨んだ。


「フェフェ・フェルターンじゃないあなたを、わたくしは望みます! 消えてしまいたい!? ふざけたことを言わないでくださいませ! ぜったい幸せになってと、そう言ったのはあなた! フェフェ・フェルターンじゃない、ただのあなたでしょう!」


「それとこれと、なんの関係が······」


「あなたを失ったわたくしが、幸せに暮らせると本気で思っておりますの!?」


 驚愕に震える瞳が、ついには信じられないという色に変わる。心外だ。彼女はわたくしの愛情深さを嘗めているのだ。睨みを続けていると、あちらもだんだんと頭が熱くなってきたのか、顔を赤くしてわたくしを睨み返してきた。


「はあ!? 知らないよ、そんなの! 暮らせるでしょ! なんで暮らせないの! 私のことなんかほっといて勝手に幸せになりなよ!」


「放っておけるわけないでしょう! 知らないなら今知ってくださいませ! あなたのことが好きだからですわよ! 初めてできたともだちですのよ、大事にしたいに決まってるでしょう!」


「それ! 逃げてる時も思ったけど、私とリリリリリー様って別に友達でもなんでもないでしょ! いつの間にそうなったの! そんなこと、私は知らない!」


「わたくしがともだちだと思ったらもうともだちですわ! 悪役令嬢の図々しさを嘗めないでくださいませ!」


「横暴だ!」


 顔を突き合わせて、睨み合い、唾を飛ばし、わたくしたちは令嬢にあるまじき荒げた声で言い争う。人生で初めてのともだちとの喧嘩は、どこかわたくしの胸に高揚感をもたらして、とめどなく文句の言葉が溢れてくる。


「あの契約書を渡されたとき、泣きそうだったんですのよ、わたくし! 初めてのともだちにこれから関わらないでと言われたわたくしの気持ちがあなたにわかりまして!?」


「それは確かに悪かったよ! なんか妙にサインするの渋ってたし! 薄情だった! ごめんなさい! でもその場で言ってくれてよくない!?」


「わたくし、ともだちの頼みは断らない女ですわ!」


「面倒なひとだなあ、もう!」


「ヒールをかけたときもそう! 何が神様女神様ですの! わたくしの隠密が完璧なのは認めますが、ちょっとは気付いてくれてもいいのではなくて!?」


「気付いてたに決まってるでしょ! 急に黒くてデカい箱みたいなやつが出てきたらバカだってわかるよ! シークレットとか意味わかんない魔法使ってるのリリリリリー様だけだし! ずっと気付かないふりしてたの、契約があるから!」


「気付いてたんですの!?」


 彼女がわたくしの完璧な隠密に気付いていたと聞いて愕然とする。言葉を失ったわたくしを見て「なんでそんなにびっくりしてるの······」と呆れた様子の彼女は、頭が冷えてきたのかひとつ深く息をついて、ばつの悪そうに顔を背けた。わたくしも急に声を荒げたことに恥ずかしさが募り、額に手のひらを当てて熱くなっていた頭を冷やす。


「············元の世界に帰るの、諦めたわけじゃないからね」


 ぶっきらぼうに崩れた言葉は、たぶん彼女の素の一面なのだろう。なしくずしとはいえ、それをわたくしに見せてくれたことがなんともこそばゆい。胸が怒りとは別の感情で温まるのを感じた。


「ええ、それでいいと思いますわ」


 その言葉に彼女はつんと横に逸らした顔を少し安堵に緩める。しかし「わたくしも手伝うつもりですし」と続けると、彼女はまた驚きを目に宿し、「え」と首ごとこちらに向き直った。


「なんですの」


「いいの?」


「勿論ですわよ」


 当たり前だ、と少し不満げに声を漏らす。わたくしはともだちの頼みを断らない女であると同時に、ともだちの願いを叶えるために協力を惜しまない女なのだ。


「ただし、その代わりにふたつ頼みがありますの」


 それはそれとして対価はもらうのだが。悪役令嬢だから。


「頼み?」


 驚き一色だった瞳に疑問とかすかな安心感がよぎる。受け取った厚意は返さなければ気が済まないといった気質はいくつもある彼女の好ましい部分のひとつだ。わたくしは頬を緩ませる。


「ええ。ひとつめですが、あなたが言うにはこの世界の人たちはみんな名前がおかしいのでしょう? ですから、あなたがわたくしに新しい名前をつけてくださいませ。この世界の理から外れた、素敵な名前を。きっと、あなたにしかできないことですわ」


 彼女は「どういうこと?」と言いたげにぱちぱちと目を瞬かせた。まるで頭上に「?」のマークが見えるよう。頼みそのものと言うより、その目的がわからないという態度だ。だからわたくしは何も言わず、ふたつめの頼みを口にする。


「ふたつめ。願いが叶うその時は、どうかわたくしもあなたの世界に連れていって」


 疑問にも答えられないまま続けて放たれたふたつめに彼女はもっと疑問を深めたようで、あからさまにきょとんとした顔をする。わかってくれると思ったのに、と唇を尖らせていると、数秒してようやくわたくしの意図がわかったのか、彼女はお腹を抱えて笑い始めた。わかってくれてもその反応はないだろう。


「ふふ、ふ、はは、あはははは!」


「ちょっと、失礼じゃありませんこと?」


「あはははは! あはは、はは、はあ。ごめんね、笑っちゃって。そういうことかあ。ふふ! ねえ、ちょっと私のこと好きすぎない?」


 彼女はなかなか調子に乗りやすい。そこも可愛いところだと思うが、いまは初めて彼女のことを少し鬱陶しいと思った。その感情すらもともだちに含まれるものだと思うと、感じるものとはべつに心の奥がぽかぽかと温かくなるのだが。


 意趣返しをするように、わたくしはにこりと微笑む。


「ええ。実はわたくしは、あなたのことがそれはもう、とってもとっても大好きなんですのよ。──リア」


「────」


 おもむろに「前世」の名前を呼んだわたくしに、からかうようにニヤけた顔をしていた彼女は──リアは、目を見開いた。


 彼女と喧嘩をして、決めたのだ。もう彼女をフェフェと呼ばないことを。その名前よりもふさわしいものを、わたくしは教えてもらったから。


 リアは見開いたままの目をそっと伏せ、ゆっくりと手のひらで覆った。隠しきれない小さな嗚咽が耳を打ったけれど、わたくしの心は温かなもので満たされたままだ。


 思い上がりでなければ、いまリアの胸の中は同じもので満ちていると思うから。


 穏やかな気持ちで、わたくしはリアの頭を撫でる。リアはぴくりと身体を震わせたが、それは一瞬のことで、手は振り払われなかった。


「ありがとう。ありがとう──リリー」


 嗚咽の混じる震えた声で告げられた言葉に、今度はわたくしが目を見開く番だった。リリー。わたくしの新しい名前。なるほど、多すぎるリの数を削ったその名前は、確かに一度与えられてみれば元の名前が塵芥に思える素敵な名前だ。


「ええ、ええ、リア。わたくしの愛しいおともだち。これからたくさんわたくしを、リリーと呼んでくださいね」


 こくんと頷くリアの頭を、優しく優しく撫で続ける。しばらくしてリアの嗚咽が聞こえなくなる最後まで、わたくしがその手を止めることはなかった。


      *     *     *


 リアの嗚咽が止まって静かになってからしばらく、ちょっと所在がなくなってきた腕をゆっくりと降ろそうとする。時間にすると数十分くらい、体力おばけのリアならともかく、平凡な身体能力のわたくしはそろそろ二の腕あたりが疲れてきたのだ。だが、完全に指先が髪の毛を離れる直前、「ねえ、リリー」という声と共にリアの右手がガシとわたくしの腕を掴んだ。リアが伏せていた顔をあげると、わたくしははっと息を呑む。


 リアは笑っていた。これまでわたくしが知っているふわりと花の咲くようなものではなく、わたくしの見た事のない、ニヤリと悪巧みをするような顔で。


 目元を赤くしたままで口角を釣り上げたリアの笑顔は、わたくしが見たこれまでの彼女のどんな表情よりも可憐で、格好よくて。


 そしてなにより、うつくしいと思った。


「実は私も、友達の頼みは断らない女なんだ」


      *     *     *


──この日を最後に、リリリリリー・リンドリリーとフェフェ・フェルターンの名前はこの世界のありとあらゆる記録から確認されなくなる。


 エン王国の卒業パーティから逃亡し、突如世界から消えたふたりの令嬢について、彼女たちが存在していたころに残された文献からいくつかの説が立てられた。


 曰く、ふたりは恋人同士で、同性で結婚できないかつての国の在り方を嘆いて人知れず心中した、とか。曰く、ふたりは王政の潰えた現代の民主主義をつくった革命の先駆者である、とか。曰く、同時期に遠い異国で頭角を現し始めた「リリー」という魔術師と「リア」という戦士の二人組の冒険者の正体が彼女たちである、とか。


 リリリリリーは生涯にわたって無性愛者であったし、革命が起きた理由は彼女たちとは特に関係がなく、ただのこじつけの域を出ないものだった。ふたりの足跡を追うものたちには知る由もないが、実際に合っているのは三つ目だけだ。


 だが、冒険者として名を馳せる「リリー」と「リア」の記録すらも、ある時を境にぱったりと途切れることになる。


 ふたりの行方は誰も知らない。


 この世界の誰も、知ることはできないのだ。

登場人物


リリー/リリリリリー・リンドリリー

ゲームで「悪役令嬢」として登場する公爵令嬢。転生者ではない。

莉愛は読んでいない「キャラクターブック」によると、「当人に自覚はないものの無性愛者であり、王子や兄のことを好いていたわけではないが、彼らに近づく人たちを追い払うことで彼らを好く誰かと友達になろうとしていた」という裏設定があるらしい。シナリオに沿わず話しかけてきたフェフェを友達認定して大暴れする。


リア/高梨莉愛

日本に住んでいた高校生の女の子。仲のいい両親とかわいい妹の瑠々、大好きな親友の瑞葉と一緒に幸せに暮らしていたが、ある日突然昔にすこしプレイしただけの乙女ゲームの世界のヒロイン「フェフェ・フェルターン」に魂が宿る。元の世界に帰るためにネタバレサイトで見た願いを叶えるアイテムを求め、唯一入手出来る逆ハーレムルートを突き進む······予定だったが、攻略対象のセンシティブなところをあまり知らなかったことと悪役令嬢の破滅を見過ごせずリリリリリーに話しかけてしまったことがすべての運命を狂わせた。


フェフェ・フェルターン

原作乙女ゲームのヒロイン。貧しい男爵家で実の娘を政治の道具だと思っているような両親に育てられていたが、生来の化け物じみた身体能力が見初められ乙女ゲームの舞台になる学園に入学することになる。

高梨莉愛が乙女ゲームの世界に来ることになったのは彼女の「どこか遠い場所に逃げたい」という強い願いが原因であり、当人の魂は日本の高梨莉愛のもとに宿って罪悪感を抱えながら高梨家で気まずい居候生活をしている······という設定があるので、機会があればフェフェ視点の話も書きたい。

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