夕焼けの訪れる前に
皆様こんにちはこんばんは、遊月奈喩多と申すものでございます!
今回は『彼氏が来る前に消さないと』というテーマでお話を書かせていただきました。どういう方向性でいこうか、どういう話にしようか、いろいろと考えているうちに佳純ちゃんというヒロインが生まれて今に至ります。
是非本編をお楽しみください!
子どもの頃から、周りが期待している通りに物事をこなしてきた。そうすれば褒めてもらえるし、すぐ次にするべきことを教えてもらえる。教えてもらったらまた褒めてもらって次の指示を受けて、その繰り返し。
別にそんな自分が嫌いなわけではなかったし、時々自分を省みたときの退屈さに押し潰されそうでも、変なことをして失望されるよりはずっとよかった。
だから、今も――――
* * * * * * *
ここ数日で一気に増した蒸し暑さに支配されたマンションの一室。
わたしは全身を包む倦怠感で起き上がれないまま、浴室に向かう汗まみれの筋肉質な背中を見つめる。昼下がりの柔らかい陽光がカーテンの隙間からわたしたちを照らしつけて、これ以上の先延ばしを許さないと言いたげ。目を逸らさずにいられないわたしは弱いのだろうか、そう目の前に背中に尋ねたところでほしい返事を貰えないことはわかりきっていた。
「来ないの?」
「……ん、行く」
一瞬、何について訊かれているのかわからなくて言葉に詰まる。だけどどこか疲れたようなけだるい表情に含意なんてものは感じなくて、きっとそのままなんだろうと思えた。答えたわたしの手を少し強く引く彼に置いて行かれないように、フローリングの上を歩く。足取りの覚束ないわたしを振り返ることなく進む後頭部からは何も読み取れなくて、自分の部屋だというのに浴室に入るとき妙な緊張感に襲われてしまった。
シャワーから落ちる水が、タイルを叩き続ける。
汗を流さないとなんて言ったくせに、どうして更に汗をかく羽目になっているんだろう? 毎度している自問を掻き消すように、彼のタバコ臭い舌を吸う。ずっとこうしていれば、他のことを忘れられる? 忘れていても許される? 漏れる声をもっと我慢しなければ、触れてくる指をもっと深く受け入れたら、そうしたら……わたしはどうなるのだろう?
そんな悩みを踏みつけるように、「で、決めたの?」と彼が尋ねてくる。
「別に俺はどっちでもいいんだよ。一応家庭もあることだし、それに今日はただ近くを通りかかっただけなんだしさ」
ザラザラとした声が耳に纏わりつく。
「……なんて、そんなの無理か」
笑うような声と共に、空いた方の手でわたしの背中をなぞってくる。濡れているのに乾きを感じる腕に引き寄せられて、わたしの身体は彼の胸板に密着させられてしまった。その拍子に離れた顔には、明らかにわたしを見下したような薄ら笑いが浮かび上がっていて。
「佳純ちゃんは別にやめたいって思ってるわけじゃないもんね、これ」
「別にそういうわけじゃ……! だいたい、わたしあの日は、」
「必死だねぇ」
「え、」
言い返そうとした言葉は、再び身体を這い出した指に繰り回されるうちにどこかへ行ってしまった。わかってるって、と彼がまた嗤った。
「そう、佳純ちゃんはあの日オレに流されてこんなんなったんだもんな。君が強く断りきれない性格なのをいいことに、オレが好き勝手させてもらってるんだ。別に佳純ちゃんが悪いことなんて、何もないんだからね」
思い起こすのは、初めて目の前の彼と肌を重ねた――重ねさせられた日のこと。仕事帰りの居酒屋でたまたま会った、普段話さない他部署の先輩。つい乗せられてこぼした愚痴の数だけお酒も進んで、気付いたら逃げられないような空気になっていて。
あの日もこんな風に嗤いながら、どうしたらいいかわからないままのわたしの中に入ってきた。何か抵抗しなきゃ、このままじゃ駄目だって思っていたのも最後にはどうでもよくなってて。それからも、そのときのことを引き合いに出してこうして関係を続けている。
わたし自身はこんなのやめなきゃって思ってたのに、うやむやにされて関係を続けるうちに本当にやめたいのかわからなくなって……
「ま、オレもこれ以上続けるってなるといろいろ危険伴っちゃってさぁ」
「え?」
「たぶんね、うちの女房気付いてんの。まぁ向こうだってしょっちゅう若いの連れ込んでるからお互い様だろって話なんだけどね?」
けっこうな内容なのに、ずいぶん楽しそうに彼は話していた。
けど、わたしを見下ろしてくる瞳はどこか心細そうにも見えて。
「だからさ、もし佳純ちゃんが終わりにしたいってんなら潮時かなって思うんだよね。もうすぐ留学から戻ってくるんでしょ、彼氏くん?」
「……今日、うちに来る」
「そっかそっか、今日だっけ」
知ってたくせに、とは言わないでおく。おかしそうに笑った彼の手がわたしから離れて、ついでに身体も押し離されて。
「それじゃあ、はい」
「え?」
「どうするのかなって」
「……どうするって、そんなの、」
そんなの決まってる。
こんな関係よくないものだから。
望んで続けたものではないから。
だから、迷う理由なんてない。
今まで、ずっと思ってたんだ。
終わりにしなきゃって。
迷ってちゃ駄目だって。
震える呼吸を落ち着かせて、もう一度彼を見上げる。じっと黙って、わたしの答えを待っているその顔からは、ほんの少しだけ嘲りの気配が滲んでいるように見えた。
そして。
「今度はうまく息できるといいね」
「――――――、」
シャワーの音が、雨みたいに激しく聞こえた。
言葉が、うまく出てこない。
ずっと用意していて、言う練習までしていた『もう終わりにしたい』という言葉が、どうしても喉の奥につかえて出てこない。
それでも、今は普通に息ができる。
きっと、この人は最低だってわかってるのに。
最低なのに、彼氏――吉野くんといるときよりずっと息がしやすい。
吉野くんの方がかっこよくて、優しくて、楽しくて、いろんなこと教えてくれて、わたしなんかよりずっと先のことも考えてくれてて、一緒にいて幸せになれるなって間違いなく思う人なのに。
それなのに、彼のことを考えると息苦しくなる。
少しずつ胸の中が、溶けた金属を流し込まれたみたいに重く詰まっていく。
でもそんなこと、目の前でわたしを嗤っている人には知られたくないから。大丈夫ですと言おうとした口は、うまく動かなかった。
もう、消してしまうつもりだったのに。
ずっと彼に対して感じている気持ちは、全部わたしの「気の迷い」だってわかってたから。吉野くんは、ちゃんとわたしのことを見てくれているから。
吉野くんがまた来てくれるときまでに、こんな迷ったままのわたしなんて消してしまわなきゃいけないと思っていたのに。迷って始めたこの関係と一緒に。
吉野くんはいつも会うたびに裏表のない顔でわたしを好きだって言ってくれるから、その言葉が嬉しいから、わたしたちの関係はそれでいいはずなのに。
足下が不安定になったような気がして。
掴まる場所がほしくて伸ばした手は、押し止められて。
「ほら、もう終わりにするんでしょ?」
そう笑う瞳に全て見透かされている気がして、つい顔を背けてしまう。へぇ、と笑う声が聞こえた気がした。
「ま、決められないならいいや。俺が勝手にしちゃうから。どうせ……」
吉野くんと比べたら、この人は何なんだろう。
身近な人を幸せにする気もなくて、全部自分の気紛れで生きてて、自堕落で、そのくせ外面だけはよくて、開き直りきったエゴイスト。
そう思うのに、そのぎらつく瞳と囁かれる声を前に、わたしはまた抵抗できなかった。
* * * * * * *
夕方ちょっと過ぎに部屋に来た吉野くんは、留学先で見聞きしたことをたくさん教えてくれた。とても楽しそうに、遠い場所での、わたしもしたことのないような経験をたくさん。
今はまだ学生だけど、きっとこれからどんどん大人になっていくのだろう彼の瞳はとてもキラキラしていて、直視するには眩しくて。
「ねぇ佳純さん。佳純さんって卒業旅行どこにした? 友達からそろそろ決めようって言われてて」
ぼんやり考え込んでいる間に話が変わっていたらしい。卒業旅行か……誘われもしなかった旅行の記憶なんてどこにもないけど、できる限りのアドバイスはしてあげよう――そう思って少し考えた。
きっと、あっという間にわたしなんて追い越して大人になっていくんだろうな。そして自覚なんて一切しないまま、わたしを置いていってしまうに違いない。
そういうところに息が詰まるんだよ――不意に口に出そうになった言葉を慌てて噤みながら、吉野くんの旅行計画の話を聞き続けた。だってこんなの、吉野くん本人の問題じゃない。きっとそう感じてしまうわたしの問題に違いない。
わたしは、ちゃんとわかってる。
だから昼に言われたあの言葉はデタラメだ。
『どうせ、被害者でいるのが気持ちよくてやめらんないでしょ? 楽だもんね、誰かにいろいろ委ねて、後から相手が悪いってしてるの』
嗤いながら、ラストスパートとばかりに揺さぶられる視界のなかで彼はそう言った。ぐにゃぐにゃに茹だったわたしには何も言い返すことができなくて、ただされるがままで。
何も気にすることはない、ただのデタラメなんだ。
そうわかっていても、吉野くんの笑顔から目を逸らすたびに、その言葉が愛撫に似た痛みで胸を刺した。
たぶんまだ、この「気の迷い」は消せない。
前書きに引き続き、遊月です。本作もお付き合いいただきありがとうございます!!
作中では『自分では何も決めようとしないくせに流されてからの被害者面だけはいっちょ前だよね』みたいに言われている佳純ちゃんですが……いやいやアナタそれ言える立場じゃなくない!?とツッコミを入れつつ筆を執っておりました。
個人的に寝取られとは少し違うかなと思ったのでキーワードには寝取られと入れなかったのですが、これに関してはあくまで個人的な感触でしかないので要検討なのかも知れない……?
そして執筆中にもうひとつ『彼氏が来る前に消さないと』なお話を思い付いたので、間に合えばそちらも公開させていただく所存です!!
また次の作品でお会いしましょう。
ではではっ!!