大和型戦艦を量産化せざる得なかった世界
大和型戦艦を量産化せざる得なかった世界
「オン・ターゲット、ナウ!」
大和型戦艦3番艦「信濃」の昼戦艦橋に備え付けられたスピィカーは東京芝浦電気製(日本製)であったが、響く言語は英語であった。
それをまんじりともせずに聞く艦長の齋藤大輔海軍大佐の生まれは埼玉県の北春日部で、着弾した3発の18インチ砲弾が吹き飛ばしたのはイタリア半島のアンツィオに布陣したドイツ兵だった。
ドイツ兵は、友邦のイタリア(ムッソリーニ統領が統治する側)を守るべく、大ドイツ帝国から派遣された”義勇軍”で、沿岸防衛のために配置された歩兵大隊の一部だった。
彼らの所属する大ドイツ装甲師団は、パンター2型戦車や強力なドラッヘ重戦車さえ装備する有力な機械化機動兵力だったが、主力はアンツィオから遥か南のカタンツァーロ戦線への攻撃に投入されており、アンツィオに配置されている兵力は哀れみを誘う程度に貧弱だった。
ブーツのように見えるイタリア半島の靴底に近い場所にあるカタンツァーロは、民主主義に目覚めてムッソリーニを追放したイタリア人(実際にはイタリア軍の反ドイツ・グループ)とそれを支援する国連軍20万人が立てこもっていた。
国連軍を指揮する西竹一陸軍中将は、
「イタリアにダンケルクはない」
として、独義勇軍の強力な攻勢に対して頑強な抵抗を続けていた。
日英同盟軍は戦局打開のために、イタリア首都のローマ近郊への乾坤一擲の上陸作戦を計画し、1950年9月10日にアンツィオに侵攻していた。
信濃はその上陸支援作戦に参加し、1944年の”停戦”以来、久しぶりの主砲射撃を行おうとしていた。
39mの高さがある大和型戦艦の前檣楼であっても、28km離れた着弾地点は水平線の彼方にあってみることはできない。
着弾を確認しているのは、信濃から発艦した回転翼機で、萱場製作所が納入する二重反転ローター式のカ号18型観測機(Ka-18)だった。
また、前鐘楼のトップに備え付けられた311号電探が、砲弾の底部に充填されたアルミ箔(砲弾が炸裂すると空中に舞い上がる)の反射波を捉えており、砲撃が事前に意図された通りの場所に行われていることを確認していた。
どちらにしろ、斎藤大佐の精神に与えた影響は大差ないものだった。
「戦争はずいぶんと妙なことになったもんだ」
真面目に仕事をこなす部下に聞こえない程度にボリュームが下げれたぼやきが、現状説明のすべてだった。
日本人が国連の旗のもとで、イタリア半島でドイツと戦争をする羽目になったのは、1902年に結ばれた日英同盟に根本的な原因を求めることができる。
まだ皇帝がいたころのロシアが不凍港を求めてアジアで南下したため、中国権益を侵害されることを恐れた大英帝国とロシアの南下を国家存亡の危機と捉えた大日本帝国が結んだこの同盟は、半世紀後の1950年であっても未だに有効だった。
これほどまでの長期間の同盟は、当然のことながら同盟締結時に意図したものではなかった。
しかし、日英同盟は両国の様々な必要性によって半世紀の時を生きながらえていた。
もちろん、1950年の同盟は1902年に結ばれたものとは随分と違うものになっている。
最初の変化は日露戦争後におきた。
戦争に勝利した日本はロシアの南下阻止どころか、南満州における大陸利権の獲得など、望外の勝利を手に入れた。
賠償金を得ることはできなかったものの、日本が手に入れた南満州鉄道は日本経済を支配したすべて財閥を合計しても及ばないほどの巨大な企業であり、その租税収入は莫大なものだった。
残念なことに、南満州鉄道の所有権は戦時債務圧縮のために、日英米の共同となっていたが、それは止む得ないものだった。
日露戦争で疲弊しきった日本に、満州を開発する資金力は無かったからである。
無かったのは資金力だけではなく、植民地経営のノウハウも、開発に必要な技術力も無かった。
満鉄の経営は、イギリス人の支配人とアメリカ人の資本、日本人の従業員(+関東軍)というすみ分けによって成り立っていた。
結果として、これは大成功を収めた。
満鉄の始発駅となった大連は、短期間に極東のニューヨークと呼ばれるほどの大都会に成長し、満州経済の発展に引きずられる形で日露戦争後の日本経済は飛躍的に拡大した。
満鉄の奇跡的な成功をプロデュースしたのは、「神が近代日本を創らせるために遣わした男」とさえ称される大久保利通だった。
戊辰戦争や廃藩置県、国会開設、憲法制定、日清・日露戦争の勝利など、近代日本の歩みのすべてに足跡を残した男は、満鉄の日英米共同経営と韓国の保護国化を最後に政界から引退した。
もっとも、引退後もその影響力は絶大なものがあり、第一次世界大戦において参戦を渋った軍部を叱り飛ばし、金剛型巡洋戦艦4隻の欧州派遣や、陸軍5個師団の西部戦線投入を実現させる程度の力はあった。
ユトランド沖海戦においては、巡洋戦艦「金剛」がドイツ大洋艦隊の集中砲火を浴びて爆沈するという悲劇や、西部戦線に送られた陸軍5個師団はヴェルダン攻防戦で全滅(文字通り本当に地上から消滅した)という悲劇が発生したが、
「無益な平和より、有益な戦争が望ましい」
と大久保利通は一蹴したという。
たしかに、膨大な犠牲の結果として日本の国際的な立場は大幅に強化された。
第一次世界大戦の講和会議で、日本はドイツ太平洋利権(パプアニューギニアやラバウル・ビスマルク諸島やカロリン諸島、山東省権益)をもらい受けることができた。
僅かばかりだったが賠償金も手に入り(実際には支払われず工作機械などの現物支給だった)、帝国海軍はイギリス海軍から金剛の代償としてタイガー級巡洋戦艦(和名:「千早」)を手に入れ、帝国陸軍は平時の10年分に匹敵する武器弾薬や航空機、戦車などを英仏軍から無償で譲られた。
日本は国際連盟の常任理事国となり、ついに列強国の列に並ぶことができた。
さらに講和会議の続きとして開催されたワシントン海軍軍縮会議では、イギリスの擁護もあって主力艦の保有量は対英米7割という帝国海軍にとってはほぼ満額回答の結果を得た。
軍縮会議では、日英同盟は軍縮の理念にふさわしくないとされたが、第一次世界大戦で疲弊したイギリスは崩壊しかかった帝国を維持するために日本との同盟継続を望んだ。
帝国の存続には忠実な番犬が必要だと考えられたのだ。
日本がヨーロッパで流した血は、それを証明するには十分な量だった。
また、日英米で共同経営する満鉄は収支が悪化しつつあったイギリス植民地経営の中でも、望外の成功例として認知されつつあり、同盟継続に強いインセンティブを与えた。
辛亥革命で清が崩壊するとイギリスは満鉄利権防衛のために、愛新覚羅溥儀を元首とする満州王国(傀儡政権)を作ってやったほどだった。
既に半世紀近く自国の10倍の人口を抱えるインド帝国を支配してきたイギリスにとって、この程度は造作もないことだった。
また、英米関係の悪化が、同盟継続を後押しした。
1924年のドーズ案は英米関係の悪化で折り合いがつかず、空中分解した。
ドーズ案崩壊を端的に表現してしまえば、イギリスとアメリカの金銭トラブルとなる。
イギリスは第一次世界大戦中に起債した膨大な戦時国債をアメリカに引き受けてもらっていたが、その返済に猶予を求めていた。
返済の原資はドイツからの賠償金の取り立てであり、戦後ドイツ経済の崩壊でそれが不可能になった以上は何らかのモラトリアムが必要だった。
しかし、アメリカの態度は非常に高圧的なものだった。
最終的にイギリスは債務の返済には同意したものの、返済のために緊縮財政(王室費さえ削減の対象になった)になったことから経済が低迷した。
債務問題は戦後英米関係を緊張させ、日英同盟はロシア南下対策からアメリカ包囲網へと変質していくことになる。
齋藤が江田島の門を叩いたころは、日英同盟艦隊がハワイ沖で米艦隊と史上最大の艦隊決戦をして雌雄を決するという空想戦記小説が流行った時期だった。
それが影響したというわけではないが、斎藤が埼玉の田舎から江田島に進むにあたって、まず志したことは、戦艦の艦長になり、その戦いに参加することだった。
本当に戦艦の艦長になった今でも、心のどこかにそうした情景は残っていた。
軍隊という退屈なルーチンワークに耐えていられるのは(齋藤自身は決して認めようとはしなかったが)、その幼児的な夢想が心の支えになっていたからだ。
「観測機より入電、二次爆発の発生を認める」
前線の回転翼機から入った報告に、無言で頷いた砲術長はちらりと齋藤を見た。
齋藤もまた無言で頷き返す。
二次爆発とは、信濃が発射した砲弾が何らかの誘爆(おそらく地下の弾薬庫を直撃した)を引き起こしたということであり、艦砲射撃が有効に行われたことを意味する。
初弾からそうした戦果を得られることは滅多にないことであり、仕事としては上々の出だしだったのが、砲術長の顔には何の表情もなかった。
彼もまた齋藤と似たような心理状態だったからだ。
立場上、彼も公言はしなかったが、
「6万頓の巨大戦艦を使って、やる仕事ではない」
と内心では思っていた。
しかしながら理性としては、
「こんな仕事でもないよりはマシ」
ということも理解していた。
帝国海軍において、戦艦は既に過去のものになっていた。
それでも信濃がスクラップになることを免れているのは、まことに奇妙なことながら米独の同業者が未だに戦艦を艦隊の主力として位置付けているからだった。
嘗ては、1930年代はそうではなかった。
戦艦は本当に海軍の全てといっても過言ではなかった。
大和型戦艦はそうした時代に計画、建造された船だった。
日英同盟によるアメリカ包囲網という被害妄想を募らせたアメリカ合衆国が第二次ロンドン条約を蹴った結果、海軍休日は終わりをつげ、無条約時代に突入した。
帝国海軍は、アメリカ海軍が条約明けに建造する戦艦はパナマ運河の通航制限によって、最大でも45,000t級と見積もっていた。
そのサイズの船体に技術的に搭載可能な火砲は16インチ砲が限界と判断され、16インチ砲戦艦を撃破できるだけの火力(18インチ砲)と対応防御を搭載した船として計画されたのが大和型戦艦だった。
実際には、被害妄想が強くなっていたアメリカ海軍が実際に建造していたのは、パナマ運河の通航制限を無視することで想定よりも10,000t以上も大きくなったモンタナ級戦艦で、大和型戦艦の優位は微妙なところだった。
モンタナ級戦艦の建造が明らかになると帝国海軍は慌てふためき超大和型戦艦の建造を計画したが、ペーパープランの域を出なかった。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、イギリスが対ドイツ宣戦布告したため、帝国海軍は再び日英同盟の定めによって、再び欧州の戦争に参加することになり、超大和型戦艦どころではなくなってしまったからだ。
帝国海軍は、欧州において先の大戦とは比較にならないほどの大きな犠牲を経験した。
まず潜水艦対策の未熟から戦艦陸奥と伊勢を失い、地中海戦線では防空システムの不備から航空攻撃で戦艦霧島と比叡を失った。
戦艦の半数を短期間に失った帝国海軍は顔面蒼白になったが、悪い話はさらに続いた。
欧州の戦火拡大を恐れたアメリカ合衆国が武装中立宣言を発表したのだ。
武装中立を守るためにアメリカは野放図な海軍拡張に走った。
アメリカ海軍の発表した両洋艦隊法案は、日英同盟海軍の合計を超える海軍力を整備するもので、海の上に鋼の要塞を築くという壮大な計画だった。
戦時の急速な戦力の消耗とアメリカ海軍の空気の読めない挑戦に直面した帝国海軍は、既存の設備で作れる船をとにかく量産して急場をしのぐという場当たり的な対応に終始し、大和型戦艦は8番艦まで建造されることになった。
本当に大量建造すべきだったのは、戦争の主役となっていた航空機を運用する航空母艦だったのだが、アメリカ海軍がモンタナ級戦艦を量産化(最終的に10隻も建造)してきた以上、何もしないわけにはいかなかった。
アインシュタイン博士を持ち出すまでもなく、軍備は相対的なものであるからだ。
幸いなことに、日本経済は満州開発の成功や1930年代の高橋財政の奇跡、ナチス党と同盟した中華民国とソ連の支援を受けた中国共産党による中華内戦による特需もあって、年率10%近い高度経済成長を経て拡大を続けており、大和型戦艦の量産化は不可能ではなかった。
戦後に発足した帝国空軍の初代参謀総長に就任した井上成美海軍大将から、
「思考停止の産物」
とこき下ろされたものの、少なくとも帝国海軍は大和型戦艦を量産化しつつ、2度目の世界大戦を乗り切ることには成功した。
乗り切ったというのは、文字通りの意味で2度目の世界大戦は誰にとっても勝利とは言えない結末に終わったからだった。
”電撃戦”でフランスを下したドイツは、フランス降伏から僅かに3日後に階段からの転落事故によって指導者のアドルフ・ヒトラーを失うことになった。
ヒトラーは、階段に敷かれたカーペットの固定が不十分だったため足を踏み外し、脊髄を骨折して死亡したのだった。
欧州を制覇した男の死としては、あまりにもあっけないものだった。
ヒトラーの不慮の死によって、ドイツ国内ではナチス党と軍部による内紛が発生し、その隙をつく形でソ連軍がポーランドになだれ込んだ。
しかし、ソ連軍も大粛清によって屋台骨が腐りきっており、オーデル川に迫るころには戦力を消耗しつくし、ドイツ軍の反撃が始まると信じられないほどあっけなく組織崩壊を起こした。
ドイツ軍の反撃は続き、1942年7月までにモスクワが陥落。
保身のためにドイツとの講和を図ったスターリンは軍部のクーデタによって抹殺された。
ソ連は崩壊し、ロシア軍はウラル山脈より東に撤退し、独ソ戦は1年程度で終わってしまった。
この間にドイツ軍部はナチス党を排除して集団指導体制を確立し、オランダに亡命していたヴィルヘルム皇帝一家がドイツ本国に復帰して、帝政が復活した。
ヒトラーとスターリンという二人の独裁者の死の結果が、ドイツ帝政の復活というのは意味不明という他なかったが、ドイツ軍部はヒトラーに代わって仕えるべき主を欲していたのだった。
その後も日英同盟と復活したドイツ帝国との戦争は続いたが、同盟軍の戦力では北アフリカから独伊軍を排除するのが限界だった。
1944年に発動した日英同盟軍によるノルマンディー上陸作戦は、ドイツ軍の反撃によって破滅的な失敗に終わった。
同盟軍にアメリカ合衆国が参加していれば、また違った結末もあったかもしれないが、日英に対して過剰な被害者意識を募らせた合衆国が参戦することは国内世論的にあり得なかった。
大陸反攻に失敗した日英は長引く戦争に疲弊しきっており、同じく疲弊したドイツの一方的な停戦宣言を条件付きで受け入れ、仮初の平和を続けていた。
1950年6月25日にイタリアで政変が発生し、ムッソリーニが失脚するまでは。
「ツーロンの艦隊は動かないかな・・・?」
46センチ砲の大音声が響く中で、齋藤が口にした言葉は殆ど願望に近いものだった。
南フランスのツーロンにはフランス海軍の軍港があり、今はドイツ帝国海軍地中海艦隊の一大拠点になっている。
そこには、戦後になって建造が再開されたヒトラーの忘れ形見とも言えるH級戦艦フリードリヒ・デァ・グロッセと同型艦のグロース・ドイッチュラントが錨を下ろしていた。
60,000t級の船体に17インチ砲連装砲4基8門を搭載したフリードリヒ・デァ・グロッセは戦後復興が進むカイザーの海軍における象徴とも呼べる船だった。
新皇帝ヴィルヘルム3世は、新生ドイツ帝国海軍に大和型戦艦やモンタナ級戦艦に対抗できる戦艦がないことを大いに嘆き悲しみ、停戦直後から戦艦の建造を再開させていた。
大ドイツ帝国の自治領よりも少しマシな立ち位置を求めて戦後フランスやイタリアもドイツ帝国海軍の再建に協力しており、フリードリヒ・デァ・グロッセ級は欧州標準戦艦という位置づけで欧州各地の造船所で建造が進められていた。
既に就役した分を含めて、帝国海軍は10隻前後のフリードリヒ・デァ・グロッセ級が建造中だと推計していた。
常識的な判断ができる日英の海軍関係者は、
「なんで今更?」
と首を傾げたが、ドイツ帝国海軍の立場からすれば、
「大和級戦艦が強すぎて倒せない」
という実体験に基づく対応だった。
大戦後半になると対潜、対空能力が向上した日英艦隊への攻撃は、ドイツ帝国空海軍にとってほぼ自殺行為と同義語になっていた。
通常の航空攻撃などはレーダー誘導された迎撃機に撃ち落されるか、迎撃を潜り抜けても膨大な数の対空砲火によって攻撃位置に辿り着くことさえ困難だった。
ドイツ帝国空軍の切り札とされたゲーリングの置き土産(誘導爆弾フリッツX)の直撃でさえ、大和型戦艦は耐えてしまっていた。
潜水艦による攻撃も、イギリス製の電子兵装や対潜兵器を装備し、豊富な運用経験を積んだ日本駆逐隊のバリアを突破することができなかった。
幸運にも警戒網を突破したU571が、1944年3月11日に戦艦武蔵を雷撃して右舷に4発の魚雷を命中させたが、ダメージコントロールによって武蔵は作戦行動を継続することができた。
実戦において、大和型戦艦が示した防御力は、ドイツ軍を絶望させるには十分だった。
また、その火力も骨身にしみていた。
最終的に失敗に終わったもののノルマンディー上陸作戦における大和型戦艦の艦砲射撃はドイツ軍にとって悪夢の記憶だった。
何しろ橋頭保へ突撃した5個装甲師団が、大和型戦艦2隻(武蔵、信濃)の砲撃によって壊滅したのだ。
作戦を指揮したモントゴメリー元帥が途中で腰砕けにならなければ、上陸作戦は成功していたと言われている。
ある意味、大和型戦艦が活躍しすぎてしまったため、ドイツ帝国海軍は戦後にフリードリヒ・デァ・グロッセ級戦艦を量産化するという暴挙に出たといえる。
また、高性能・大型化する航空機を空母運用するのに不可欠なカタパルト技術がドイツにないことも、戦艦重視の方針となって現れた。
ナチ時代のZ計画に沿って建造された空母グラーフ・ツェッペリンは、戦後に工事が再開され1947年に就役にこぎつけていたが、カタパルトがものにできず、戦力化には至っていない。
カタパルト技術がないのは、仏伊海軍も同様だった。
実は帝国海軍もカタパルト技術がなく、イギリス海軍から技術提供がなければ大変なことになっていたのだが、それは脇に置いておく。
大戦後期において、帝国海軍の主力艦載機となった烈風や流星といった機体は発艦重量が6.5tまで拡大しており、カタパルトなしでの運用は考えられなかった。
ましてや、1950年時点の主力艦載機となっている閃風(デ・ハビランド バンパイアの独自改良型)などは、カタパルトなしの発艦は絶対不可能だった。
「・・・」
砲術長は、上司のつぶやきを聞いて、瞳に若干の感情を現したが、すぐにそれを打ち消した。
それが希望的観測の類であることに気が付いたからだ。
砲術長もそうした希望的観測を抱いていないわけではなかったが、それに対して一切期待しないことを常としていた。
独海軍が出撃してくることなど、決してありえないからだ。
戦場をイタリア半島に限定したこの戦争において、彼らが自分たちの聖域から出てくることはこれまで一度もなかった。
地中海には、日英同盟軍の空母や潜水艦が手ぐすねを引いて待ち構えており、戦艦2隻ばかりで出来ることなど無いに等しかった。
政治的な都合による聖域の設定は、現場の将兵にとっては、大きなフラストレーションだった。
しかし、逆にいえば日英同盟陣営の聖域になっているクレタ島やマルタ島、アレキサンドリア、ジブラルタに手を出してくることはないのだから、条件は同じだった。
1948年に日独がそれぞれ核実験に成功してから、戦争というものは極めて抑制的でなければならなくなった。
核兵器でパイ投げ競争をしたい人間は一人もいないからだ。
最後まで二度目の世界大戦に参加しなかったがアメリカ人だけは、少しだけ趣旨が異なる信条をモットーにしているのが関係者にとって不安の種だったが、彼らは北米大陸にちょっかいをかけない限りは引きこもったままなので大きな問題にはならない。
齋藤は、正直なところあまりそのことについては心配していなかった。
もう齋藤は海軍という世界に見切りをつけていたからだ。
既に海軍は齋藤のような人間を必要としなくなっていた。
1944年の停戦時に人余りになった海軍が彼の肩を叩かなかったのは幾ばくか上司に恵まれたことと、戦艦の艦長になりたがる人間(出世コースから外れたがる人間)がそんなにいなかったためだ。
既に上役から、この戦争が終わったあとの身の振り方について考えておくようにはっきりと言われていた。
先に海軍での出世に見切りをつけた同期からは、日本郵船への再就職の話が来ている。
「左八点、回頭」
規定数の砲撃を終えた戦艦信濃を戦場からの離脱コースに乗せた齋藤は、信濃と共に彼自身の最後の戦場から遠ざかっていった。