ハーバリウム
九十九雫です。二作目です。
気づいてしまった。僕の内側が空洞であることに。
ある日の朝、僕は何だか体がとても軽いように感じた。きっと、今日の僕の頭は冴えているのだろう。今日はなんだか活動的に過ごせそうな気がした。朝から街へ繰り出すのも悪くない。お気に入りの服に着替えて出かけよう。僕は恋人がいるでもないのに、さながらデートの準備をするが如く、服を何着かクローゼットから取り出した。どの服が今日の僕に似合うのだろうか、なんて思いながら、鏡の前に立った。透けていた、透けていたのだ、僕の体が。あまりの出来事に僕は腰を抜かしてしまった。
「うっ、うわ、なんだ、なんだよこれ…。」
なぜ、どうして、僕の体はどうしてしまったのだ。皮膚の感覚はある。立つことも、物を掴むこともできる。しかしどうしたことだろう、はっきりと見えるのは僕の頭部と僕の体を支える骨だけだ。それ以外は全て透けてしまっているのだ。朝のあの体の軽い感じは、僕の体が透けたからか。そう考えると、軽いどころか空虚にさえ感じてきてしまう。それにしてもこれはどうしたものか。病院に行けば治るのか、いやそんな症状を訴えても信じてはもらえないだろうし、信じてもらえたとしてどう治療するというのだ。下手したら研究所とかで解剖されるんじゃないか。いや、そもそも解剖ができるのか僕の体は。と、そんなことを考えている場合じゃない。そうだ、ペンキ、ペンキで色を塗ればいいんじゃないか?でも家にはペンキなんて置いていないから買いに行くしかあるまい。あの朝の清々しさはどこにいったというんだ。なんで、僕がこんな目に…。
兎にも角にも、僕は着替えることにした。服を着ないとなんだか自分が空気に溶けて消えてしまうような気がして恐ろしくなったからだ。寒い季節でよかった。長袖の服を着て、コートを羽織り、首元にはマフラーを巻いて、手は手袋で覆った。これで体が透けている事なんてバレないはずだ。恐る恐る僕は外に出た。近所の人が挨拶をしてくれているのに、上手く返せない。透けていることがバレたらどうしようと、そのことで僕の頭はいっぱいだった。
「ねぇ。」
あぁ、これから僕の人生はどうしたらいいんだ。一生ペンキで体を塗ったくって過ごせっていうのか、嫌だ、嫌すぎる。どうしたら僕の体は元に戻るって言うんだ。とにかく人通りの少ない所を選んで歩かないと…。はぁ、もう面倒だなぁ。
「ねぇ、ねぇってば、君だよ、君。」
でも一時しのぎにしろ、隠す方法を揃えておくにこしたことはないし…。でも水性じゃ落ちちゃうよなぁ…。夏になったらどうしたら…。
「ねぇ!」
声と共に勢いよく僕の肩に置かれた手は、僕を少しよろめかすには十分だった。なんてタイミングで声をかけてくるんだ。ただでさえ今は人と会話したくないって言うのに。
「な、なんですか急に…」
「全然急じゃないよ、さっきから何回も声をかけてたっていうのに。」
「い、いや、いやいや、僕は貴方のこと知りませんし、面識ないですし、というか急いでいるので失礼しても良いですか?」
一体なんだっていうんだこの人は。面識もないのに急に声をかけてきて…絶対変な奴に違いない、というか、僕はこの人の話を聞いてる暇なんかないんだ。
「君、体が透けて困っているんでしょう?」
「そうで……え?」
な、何でバレてるんだ、見えないように服装もちゃんとしてきたのに、というか、人の体が透けていたら普通驚くんじゃないか?
「やっぱり!そうだと思った、マフラーの隙間から首が透明になってるのが見えたからさ!」
「な、な…そん、そんな体が透明になるわけないじゃないですか、急に何を…」
「いや、君みたいな人を見たことがあるからさ、皆困っていたから君もかなって。」
見たことがある?僕みたいな人を知ってるのか?いや、詐欺かもしれない。いやでも話は聞いた方がいいのか、病院に行ったって解決するわけでもない、それなら一か八か、この人の話を聞いてみようじゃないか。
「…僕みたいな人が他にもいるんですか?」
「そうだよ、最初に見た時はびっくりしたなぁ。まぁそうして重装備で外に出てるってことは、もれなく君もその透明な体を隠そうと思って何か買いに出かけたんでしょう?」
「そ、そうです…。」
「じゃあ、そんな必要はないよ、何故なら周りの人には君は透明には見えてないからね。」
「えっ、そ、そうなんですか?」
「そうだよ、試しにマフラーを外して歩いてみたらどうかな?」
そう言われて、僕は恐る恐るマフラーに手を伸ばした。この人の言葉が嘘かとも思わなかったわけではなかったけれど、僕は何だか無性にこの人の言葉にすがりたくなったのだ。
マフラーを外す、少し、歩いてみる。周囲にはちらほらと人がいる。どうだろう、僕は普通の人間のように周りからはみられているのだろうか。今のところ悲鳴も聞こえてこないし、大した視線も感じていない。…本当に周りの人達の目には普通の人間に映っているのか。
「ほら、だから言ったでしょう?大丈夫だって。」
「は、はは、本当ですね。でも、なんだか落ち着きません。自分の体が透けているだなんて。このままだと、周りの空気に溶けて消えてしまいそうで怖いんです。」
「うーん、確かに、それは怖いかもしれないね。それならいっその事、自分の体の中を好きなものとか、綺麗なもので飾り付けるのはどうだい?」
「体の中を飾り付ける…ですか。」
「そう、例えば…花とか!」
「花、ですか…。」
花を体の中に、ね…さながら人型花瓶ってところか。想像したらなんか嫌だな。でも、変なものを入れるよりかはましなのか?あんまり重たいものとかを入れたら体がどんどん重たくなっていきそうで嫌だし…。
「ちょっと、考えてみます。」
「うんうん、それがいいよ。君の好きなようにやるのが一番だからね。」
「は、はい…あの、ありがとうございます。貴方のおかげで体にペンキを塗りたくらなくて済みました。」
「ふっ、ははっ、それは本当に良かったよ。」
「あの、また会いませんか、色々話も聞きたいですし…。」
「きっと、会えるよ。そしたらさ、また色々お話しよう。じゃあもう行かないといけないから、またね。」
「あ、い、いや連絡先…を…」
行ってしまった。なんだか変な人だったけれど、色々教えてくれたし、悪い人ではないんだろうな。でも、連絡先は聞けなかったかぁ…。というかペンキも買う必要がなくなったしこれからどこへ行こうか。その時、僕の背中を押すように風が吹いた。風は薔薇の匂いを纏って僕を追い越していった。
周りの人に奇異な目で見られる心配のなくなった僕は、せっかく外に出たのだからと、日用品やら食料品やらを買って帰ることにした。大好きな作家の本の新刊が出ていたし、ティッシュペーパーが安かった。なんだか甘いものを食べたくなったからコンビニでエクレアまで買った。両手にそれなりの荷物を持った僕は、そろそろ家に帰ってゆっくりしようかと、帰り道の方へ目を向けた。そうするといつもはなんてことない通り道だったはずの場所なのに、なんだかそこにある花屋が気になってしょうがない。
「そう、例えば…花とか!」
あの人は花を薦めてきたな…。ちょっと覗いていこうかな。
「いらっしゃいませ!何をお探しですか?」
「あ、あの…えっと、花を、見に来て…。」
僕は何を言ってるんだ。花屋なんだから花があるに決まってるじゃないか。でも花とは言っても何を…。そういえば、あの時薔薇の香りがしたな。薔薇、いいかもしれない。何色がいいんだろう…。あの人はなんだか…。
「白い、白い薔薇はありますか…?」
「白い薔薇ですか、申し訳ございません、今日は既に売り切れてしまっていて…。」
「そうですか…そしたら、これは、なんですか?」
僕の目に留まったのはガラス瓶に詰められた花だった。美しくて、とても美しくて、こんな風に僕の体を彩ることが出来たなら、そう、思った。
「これはハーバリウムといって、ドライフラワー等を瓶に詰めて、オイルを注いでその美しさを長持ちさせる、インテリアとして最近人気のものです。あっ、これはどうですか?このハーバリウムでしたら白い薔薇が入っていますよ。」
「…じゃあ、それをください。」
「お買い上げ、ありがとうございます!」
会計を済ませて店を出た僕は、早足で帰り道を辿った。なんだか無性にこのハーバリウムを体内に入れたいのだ。
家に着き、買って来たものをしまうと、いよいよ僕はハーバリウムを手に取った。さて、ここで困ったことがある。どうやってこれを体内に入れればいいんだ。飲み込む?…いや、これを飲み込める気がしない。うーん、なんだか押し込めば入るような気もするけど…。とりあえず僕はハーバリウムを自分の胸のあたりに押し付けてみた。すると簡単に僕の体はハーバリウムを飲み込んでいった。このハーバリウムがものすごく大事なもののように思えた僕は、肋骨を避けながらハーバリウムを心臓のあたりまで移動させた。落ちないだろうか、そんな少しの不安を覚えた僕はゆっくりと、ゆっくりとハーバリウムを持つ手を離した。すると不思議なことに、ハーバリウムはもとからそこにあったかのように少しも動くことはなかった。僕がどれだけ動こうとも。
それからの僕は、毎日帰る時に花屋に立ち寄った。少しずつ、少しずつ僕の体を花で埋め尽くすために。僕の体が花で埋まっていくごとに、僕は何だか自分のことが好きになっていくような気がした。白百合、カスミソウ、カーネーション、後、薔薇も買った。白い薔薇は何故か相変わらず買えないのだけれど、赤い、赤い薔薇を買った。まるで血みたいだ、そんな風に思って、なんとなく僕はその薔薇をハーバリウムの横に押し込んだ。
そんなある日のことだった。いつも寄る花屋の店員さんが綺麗に花をラッピングしてくれているのを見ていた時、僕はその指先が透けて、花びらで彩られているのが見えた。
「えっ…。」
「お客様?何かありましたか?」
「い、いえ…何でもないです。」
店員さんも僕と同じ…?い、いやだって今日になって突然透けていたら店員さんも驚いて出勤できないだろうし…。一体どういうことなんだ?
僕は店員さんには何も聞けないまま、悶々とした気持ちで花屋を後にした。あれは一体どういうことなのだろう、そう考えながら帰り道を歩いていると、ふと薔薇の香りが後ろから僕を追いかけてきた。
「やぁ、久しぶりだね。」
「この前の!連絡先を聞こうと思ったらいなくなっちゃったから困ったんですよ!」
「ごめんごめん、携帯とか持ってなくてさ。」
「この時代に珍しいですね…。」
「なんか、常時色んな人とつながってる感じがして面倒じゃない?」
常時色んな人とつながってる感じ、かぁ…何となく、分からないでもないような。ここ最近自分でも少し、そう思うことが多くなったような気がして僕は何とも歯切れの悪い返事をした。
「そう、ですかね…。」
「と、そんなことよりさ!君、凄く綺麗に飾ったね!」
「そ、そうですか…?いや、これがやってみたら意外と楽しくて…。あ、そうだ、一つ聞きたいことがあるんですけど…。」
「ん?何かな?」
「実は、この体に入れる花を買っているお店の店員さんが、僕と同じように透けているみたいなんです、でもなんだか僕の時とは違って既に体の中に花が…。」
「そっか、君の体が透けてからそれなりに日が経っているもんね。」
「…どういうことですか?」
「どうやら、自分の体が透けて、それに順応すると自分以外の人達も透けて見えるようになるみたいなんだ。だから、その店員さんが透けて見えるようになったってことは君がその体に順応したということだね。」
「な、なるほど…。」
確かに、あの日自分の体が透けていることに気づいた時から大分日が経っている。慣れてきた、ってことなのだろうけど、自分の体が透けている事に慣れてくるっていうのはなんだか複雑な気持ちだなぁ。
「まぁ、別に悪いことじゃないと思うし、自分以外の人も透けてるって思えば、なんだか仲間みたいでいいんじゃない?」
「…どうでしょうか。」
その後、二、三言交わしてあの人とは別れた。相変わらず薔薇の匂いを纏っていたあの人は一体何者なのだろうか。
晴れて自分の体に慣れてきた僕は、あれからあの店員さんだけではなく、街中の人々が透けて見えるようになった。人それぞれ個性が出ていて、ついつい見てしまう。でも、やっぱり綺麗だなと思うのは、花屋の店員さんだった。そして、いつか見てみたいと思うのは、薔薇の匂いを纏ったあの人だった。
ある日のこと、僕は後輩と歩いていた。
「先輩、なんだか最近生き生きしてるっていうか、変わりました?」
「そうかなぁ?」
「そうですよ!いいなぁ、自分にも教えてくださいよ、その秘訣!なんか自分だけの個性っていうか、自分もそういうの欲しいなぁって!」
言えない、体の中に花を入れてますなんて言えない。言えるわけがない。言ったが最後、後輩のみならず周囲の人から「あいつは頭がおかしい」という評価が下されること間違いなしだ。
「まぁ、好きなこと見つけたりとか…何か一つのことを頑張ったりとか、すればいいんじゃないかな?」
「えー、自分磨きってことですか?面倒じゃないですか、そんなの。」
「そう?」
「だって、自分の思い通りに全部上手くいくわけじゃないし、そんな不確定なもののために頑張るのとか無駄だと思いません?もっと楽にこう、褒められたりとか、自分が気持ちよくなれたらいいのにって思うんですよ。だから先輩みたいに頑張れるのって凄いなぁっていうか、自分にはできないなぁって思って。あ、褒めてるんですよ?」
…その時の後輩のへらりとした顔がイヤに目についた。自分のしてきていることが無駄だと言われているようで。何もしないで褒められる、何もしないで自分の思い通りになる、そんな方法あるわけがないのに。自分を綺麗に飾る努力もしないで、何が自分の個性だ。
「でも、個性が欲しいなら、やっぱり少しは頑張るべきなんじゃないかな…。」
「いや、まぁ個性っていうか、人並みに、楽しく、楽して生きていければそれでいいっていうか。」
そう話す後輩の首元を見た。後輩の体は透けて、何もなかった。
「まぁ、そう考えるのは人それぞれだから…。無理に薦めたりはしないよ。」
はらり、と花びらが落ちるような心地がした。
帰り道、なんだかもやもやとした気持ちで、花屋に立ち寄る気分にもならなくて、家に帰った。なんとなく鏡と向かい合った僕は、手の先や足の先に、先の方が少し茶色く変色している花びらを見つけた。
「どうして…今まで枯れるなんてなかったのに。」
少し考えた僕は、きっとストレスを感じたりすると花びらが落ちて枯れていってしまうのだろうと結論づけた。そしてなんだか、枯れた花びらが体の中にあるのがイヤで、僕は丁寧にその花びらを取り出した。少し前に分かったことだが、体内に入れることが出来たものは取り出すこともできるらしい。枯れた花びらを取り出した僕は先程よりも幾分か心が軽くなったような感じがした。
次の日、帰り道を歩いていた僕は花屋に立ち寄った。
「いらっしゃいませ!昨日はいらっしゃらなかったですね、どうされたんですか?」
「少し、体調が悪くて…あ、でももう大丈夫です!元気になったのでまた花を買いに来ました。」
「そうだったんですね!いつも来てくださるから…心配してたんです。」
常連だから心配してくれているというだけのことなのに、僕の耳は勝手に赤く染まっていて、店員さんに見られていないかがとても心配になったけれど、それ以上に僕のことをちゃんと覚えてくれていて、心配をしてくれていたのが嬉しかった。少しでも、店員さんに近づきたいと思った。
「あの、今日はその…店員さんの好きな花を頂けませんか?」
「好きな…花、ですか?」
「あっ、えっ、と…好き、というかおすすめというか…なんというか…。」
「分かりました!綺麗な花、選んできますね!」
そう言って、花を選ぶ店員さんの姿は輝いて見えて、本当に花が好きなんだろうと思ったし、僕もこの人のようにより一生懸命になれたら、と思った。
あれこれ考えているうちに店員さんが差し出して来たのは、桃色でまとめられた可愛らしい小さなブーケだった。
「お客様がいつも同じ種類の花を数本だけ買っているのを見ていたので、最初そうしようかと思ったんですけど、どうにも選びきれなくて…。」
「…いえ、とても素敵です。可愛らしくて…この色が好きなんですか?」
「そうなんです、どの花を見ても勿論癒されるんですけど、その色になると尚更というか…。」
「そうなんですね、有難うございます、とても気に入りました。」
「本当ですか!嬉しいです、もしまた迷うことがあればいつでも頼んでくださいね!」
「勿論です、またお願いします。」
気持ちが浮足立つ。店員さんが選んでくれたブーケを大切に抱えて、僕は急いで家に帰った。
家に着いた僕は、一刻も早くこのブーケを体内に入れようと自室に飛び込んだ。入れる場所は、あのハーバリウムの傍だ。いつの間にかたくさんの花で埋め尽くされた僕の体だけれど、今日のこのブーケは特別で、自分の体が愛おしいと、そう思わせてくれた。ハーバリウムは赤い薔薇と桃色のブーケに覆われていた。
月日が経って、僕はあの店員さんと親密な仲になっていた。今週末はデートをする予定だ。楽しみで思わず顔がにやけてしまう。そんな時だった。あの人はいつも突然、薔薇の香りを運んでくる。
「やぁ。」
「うわっ、もう、いつもそうやって突然現れて…。驚かされる僕の身にもなってくださいよ!」
「ごめんごめん、つい驚かしたくなっちゃって…。」
「勘弁してくださいよ、もう…。」
「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ、なにか良いことがあったんでしょう?」
「えっ、なんで分かるんですか!」
「君、ずーっとにやにやしてたから。」
「えっ」
そんなにずっとにやにやしていたのか?周りからみたらめちゃくちゃ気持ち悪いじゃないか…いや、でもデートが楽しみすぎてどうにも…。
「で、なんでそんなにやにやしてたのさ、教えておくれよ。」
「べ、別に教えるほどのことでは…」
「好きな人でもできた?」
「うっ…」
「というかもう付き合ってる?」
「ぐっ…」
「図星かぁ。」
「い、いいじゃないですか、別に!」
「やだなぁ、悪いなんて一言も言ってないけど?」
「た、確かに…。」
「まぁ、君が幸せそうで何よりだ!もう少し話したいんだけど、今日は生憎時間がなくってさ。またね。」
「あ、はい、また…。」
あの人はいつも突然だ。突然現れて…それで、なんだか突然いなくなるような気がするんだ。
店員さんとは何回もデートを重ねて、同棲することになった。同棲したら上手くいかなくなることもあるみたいだけど、今のところ僕達にその心配はない。順調だ。そろそろ結婚も少しずつ視野に入れてもいいのかもしれない。ただ、この透けている体のことは説明しないといけないかな…。でもどうやったら信じてもらえるんだろう。…やっぱり秘密にして、墓まで持っていくべきかな。そんなことを悩んでいた日のことだった。
鮮烈な夕陽が空を焼いていた。目を突き刺すような夕陽が。かさり、と僕の中の赤い薔薇が音を立てた。夕陽に呼応するかのように。僕は何だかゾッとするような感覚に襲われて、早く帰ろうと、愛しい人の待つ家に帰ろうと、そう思った。その時だった。
「やぁ。」
あの人はいつも突然薔薇の香りを運んでくる。
「また、会えたね。」
でも今日は何だか、その香りが、弱々しいような気がした。僕はゆっくりと振り向いた。
「今日は何だか、君に会える気がしてたんだ。」
そう言って夕陽と向かい合って笑うあの人の顔は赤く照らされて、否が応でも綺麗だった。
「それでね、多分今日が君と会えるのが最後だと思うんだ。」
「…何でですか。」
「なんでだろうね、そんな気がするんだ。」
「そんな、そんなこと言わないでくださいよ、いつも突然現れて、それで今度は突然消えるんですか?」
「いつも君を驚かせてごめんね。だから最後に、君が聞きたかったことに答えようと思って。」
不思議と、僕の中で聞きたいことが一つだけ、浮かんできた。
「…貴方の体も、透けているんですか。」
「うん、透けているよ。」
「…やっぱり。僕に教えてくれたことは貴方が経験したことだったんですね。」
「そうだよ、透けてる人を自分以外に見つけたのは君が初めてだったからさ、つい声をかけちゃったんだ。」
「…貴方も、花を体の中に?」
「うん、見てみる?」
そう言って上着を脱いだあの人は中に着ていたYシャツの袖をまくって腕を見せてくれた。その腕は僕の中にあるハーバリウムのように、いや、それ以上に美しくて、こんな状況だっていうのに目を離せなかった。
「白い薔薇だけ…売ってなかったんです。」
「うん。」
「貴方が買ってたんですか。」
「うん。」
「白い薔薇、僕も欲しかったんです。」
「ごめん、それは悪いことをしたね。」
「だから、代わりにハーバリウムを買いました。白い薔薇の入ってるやつ。」
「そっか。」
「なんで居なくなるんですか。」
「…何でだろうね。」
「教えてくださいよッ!」
「……ごめんね。」
申し訳なさそうに目を伏せたあの人を見て、きっともういなくなることは確定事項なのだ、自分がどれほど声を上げようと、覆りはしないのだと悟った。
「…じゃあ、交換しましょう。」
「えっ、いや携帯は持ってないから…。」
「そうじゃなくて!僕のハーバリウムと、貴方の白い薔薇、交換してください。」
「…君はそれでいいの?」
「はい、だって、僕は白い薔薇が欲しくて、無かったからハーバリウムを買ったんですから。」
「…そっか、じゃあ交換しよう。」
僕は胸元に手を当てた。当てた手が体に沈み込むような感覚がして、月日が経って飾り付けた花を避けるようにして、ハーバリウムを手に取った。あの人も、僕と同じように胸元から白い薔薇を取り出した。取り出されたハーバリウムと白い薔薇はそれぞれお互いの手に渡った。あの人の指先に枯れた花びらが溜まっていたように見えた。でも、僕はその後すぐに渡された白い薔薇に釘付けになった。美しくていつまでも見ていられそうだった。
「…君の持っていたハーバリウム綺麗だね。」
「…貴方の白い薔薇も綺麗です。」
「そう言ってもらえると渡した甲斐があるね。」
「本当にもう会えないんですか。」
「…うん、ごめんね。」
「…じゃあ、貴方の代わりにこの白い薔薇、大切にします。」
「そうしてくれると嬉しいよ。…それじゃあ、もう行かないと。」
「…色々、教えてくれてありがとうございました。」
「こちらこそ、楽しかったよ。…さようなら。」
「…さようなら。」
そう言って去って行ったあの人は最後にむせ返るような薔薇の香りを残していった。きっとあの人の体の中にある大量の白い薔薇が、その香りを生みだしていたのだろうと思う。手にした白い薔薇を見つめて、なんだかすぐに自分の体の中に入れないと枯れそうな気がした。小心者の僕はこんな時まで人の目を気にして、そっと自分の体に白い薔薇を押し込んだ。ハーバリウムのあったあの場所に。
それからどれくらい経った頃だったか。もうそろそろ結婚をという仲になってきている店員さんとテレビで夕方のニュースを観ている時だった。
「本日未明、○○町で変死体が発見されました。現場近くには大量の白い薔薇と何か液体の入った瓶が発見された模様です。警察関係者からの話によりますと、目撃者の情報提供等から、この遺体は飛び降り自殺を図ったとみられ、事件性は薄いとのことです。続いては…」
あの人だ。あの人が、死んだんだ。
「○○町って、ここから近いところだよね。大量の白い薔薇なんて…関係性があると思ってうちの店に事情聴取とか来るのかな…。」
「……うーん、でも最近は白い薔薇を買うお客さんが来なくなったんでしょ?」
「そうなんだよね、急にぱったり来なくなっちゃって…。…どうしようそのお客さんだったら。」
枯れた花びらは見間違いじゃなかったんだ。…あの人は何に苦しめられていたんだ。
「まさか、そんな偶然あるわけないよ。大丈夫だって。」
「…そうだよね、そんなわけないよね。」
嘘をついた。あの人に決まっている。だってあの瓶は…。
翌日、少々興奮したような口ぶりで後輩が話しかけてきた。
「自分、見たんですよ!あの変死体事件の人が飛び降りるとこ!いや、遠目だったんですけど、飛び降りて、地面にぶつかってうわ、絶対グロいなって思ってたんです、でもぶつかる瞬間に花がぶわぁって、血の代わりみたいに?広がったんです!いや、めっちゃ凄くないですか!で、もう周りも騒然っていうか…。」
「…ごめん、ちょっと、気分が…」
「あ、すいません、こういう話苦手でしたか?」
「うん、そうなんだ…ごめんね。」
これ以上、あの人が汚されるような気持ちになりたくなかった。人とつながる感覚が苦手だと言っていたあの人の気持ちが今ならよく分かる。こういう人間とつながらざるを得ない状況は僕にとって前よりも苦痛だった。
それでも時は過ぎていった。あの人が死んだ場所を通るたびに思い出す。あの夕暮れの日のことを。…あの人は最後まで僕の渡したハーバリウムを大切に持っていてくれた。現場の写真を撮っていた人がいたらしい。その画像には大量の白い薔薇と、ハーバリウムが写り込んでいた。不謹慎かもしれないけれど、そうして死ぬまで大切に持ってくれていたことが嬉しくて、そしてあの人がもう手の届かないところへいってしまったことがとてつもなく悲しかった。けれど、僕にはもう一緒に過ごしてくれる人がいる。これからの人生を一緒に歩んでくれる人がいる。僕が一人だったら、今頃どうしていいかわからなかったけれど、その人を置いていくわけにはいかないから。
「あのさ…。」
「どうしたの?」
「実は、マジックを練習してきたんだ。」
「何、急に。見たい、見せて。」
そうやって笑う店員さん、いや、君の顔は相変わらず可愛らしかった。
「今から、君に花をプレゼントしようと思うんだ。」
「本当に?でも花なんてどこにも持ってなさそうだけど…。」
そう言って、僕の周りをぐるぐるとまわって、体をぺたぺたと触って確認する君。今から君はどんな顔をするんだろうね。
「じゃあ、ほら、座って。」
「はーい。」
僕は上に着ている服の中に手を入れて、そっと胸元に手を当てた。そうしてゆっくりと手を体に沈めた。そうして取り出したのは…
「わぁ、綺麗!赤い薔薇ね、凄い!どこにしまってたの!」
「それは企業秘密かなぁ。」
そういってはしゃぐ君の足元に跪いた僕は、
「僕と、結婚してくれませんか?」
そう言った。差し出した赤い薔薇があの夕陽を思い出させてなんだか泣きそうになった。僕が選んだハーバリウムは、あの人が天国へと持って行ってしまって、僕が選んだ赤い薔薇は君の手に渡るけれど、君がくれた桃色のブーケと、あの人がくれた白い薔薇が、きっとこれから僕の心臓になるだろう。君の花が、あの人の花が、僕が死ぬまで永遠に僕の中で咲き誇って、僕の体はあの日手にしたハーバリウムよりも美しく、あの日君が作ってくれたブーケと同じくらい愛おしく、最後は、あの人が残した白い薔薇と同じように散っていくのだろう。
その時の僕は、どんな顔をしているんだろうね。
二作目です、が、初投稿の作品よりも前に書いたものです。改めて見るとなかなか展開が強引ですね。もっと精進していきたい所存です。