落着
―――ジリリリリリリr………。
朝か……。
仕事だ……。
目覚ましを止め、億劫な気持ちで起き上がる。
だがそんな気持ちも一瞬で、すぐに相野さんの事を思い出す。
そうか……相野さん……今日は、大丈夫かな……。
そんな事を考えながら支度をして、朝食を済ませ、家を出る。
「おはようございまーす。」
職場に到着し、誰にともなく挨拶をする。
「あ、おはようございまーす!」
俺の挨拶に返事を返してきたのは初さんだった。
ふと、倉庫で聞いた話を思い出す。
そんなことを思い出していたせいで、初さんへの返事が疎かになる。
「あ、ああ……おはよう。」
「はい。おはようございます!今日もお願いしまーす!」
少し感じが悪かったかもしれないと心配したが、初さんはニコニコとしていた。
相野さんは見当たらなかった。
もしかすると休みなのかもしれない。
少し心配にはなったが、午前の持ち場へ向かうことにした。
どうやら、今日は一日中初さんと持ち場が同じらしい。
だから出勤早々に声を掛けてきたのかもしれない……。
そんなことを考えていると、初さんがやってくる。
「――瀬濃さん!今日も一緒ですね!」
「……あ、ああ……そうだね。」
色々と気になることもあったせいで、不愛想な返事になる。
初さんは何かを察したのか、それ以上話すことはなかった。
本当は、相野さんのことに関して色々と聞いてみたいが、どう切り出していいのかが分からない。
今日は、店内の商品の並び替えと在庫の整理、接客などを担当する。
仕事はいつもとそう変わらず進んだが、少し違ったのは初さんがやたらと側にいるように感じたことだ。
自意識過剰、考えすぎかもしれないが、監視されているような気さえする……。
気のせいだとありがたい。
そうこうしている間に、休憩の時間になる。
初さんも同じタイミングで休憩に入ることになった。
「――瀬濃さーん!一緒にご飯食べませんかー?」
「ああ、ごめん。今日は一人で休憩したいんだ……。」
嘘はなかった。
ただ、今日は一人でゆっくり考えてみたいと思い、初さんの誘いを断った。
「……そうですか……なにか用事でもあるんですか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど……。」
「……そうなんですか?じゃあ、どうして?」
初さんはやたらと突っ込んでくる。
そんなに俺と一緒に休憩を取る必要でもあるんだろうか?
「――と、とにかくごめん。今日は一人で休憩取りたいんだ。」
「そうですか……。」
初さんは不満そうな顔をしているが、なんとか断り切れたようだ。
初さんは、休憩室に向かって行った。
俺は用を足したあと、飲み物が欲しくなり、自動販売機に向かう。
その途中で、休憩室の様子が見えた。
相野さんがいる。
相野さんは酷く暗い様子で、弁当を口に運んでいる。
あまり美味しそうに食べているようには見えなかった。
それは、弁当が不味いからではなく、相野さん自身の精神的な問題だろう。
俺が行って声を掛けてもいいが、それだけで相野さんは元気になるだろうか。
それに、相野さんのすぐ近くの席で、初さんが数人の男性従業員に囲まれて楽しそうに食事をしていた。
一緒に休憩を取るのを断ってしまった手前、初さんの目の前で相野さんと一緒に休憩を取るというわけにもいかないだろう。
俺は、自販機で買ったコーンスープを持って、外に向かった。
適当な手すりに寄り掛かり、コーンスープを開ける。
倉庫で他の従業員から聞いたことを思い出す……。
相野さんが悪口を言っているという話は、初さんから聞いたという話。
また、全従業員に確認したわけではないが、三人中三人がそう答えたこと。
相野さんが無視され始めたのは突然のことで、相野さんの様子を見るに、相野さん自身に思い当たることはない様子であること。
そして。
今日の初さんの様子。
思い過ごしかもしれないが、唯一相野さんを無視していない俺を監視しているような様子であったこと。
疑いたくはないが、今回の相野さんの件に関しては、やはり初さんが何かしらの形で関わっているであろうことは考えられる……。
相野さんのことに関し、ああでもないこうでもないと色々と考え事をしている間に……休憩時間が終了した。
午後も初さんと同じ持ち場で、午前の続きの仕事となる。
今日はいつもよりも作業量が多いようだった。
持ち場に向かうと、初さんと……相野さんも一緒に仕事をしていた。
どうやら午後は、相野さんも同じ持ち場のようだ。
少し離れた場所に、同じ仕事をしている従業員が二、三人いることからも、やはり今日は作業量が多いらしい。
よく見ると、相野さんと初さんは何か言い合いをしている様子だ。
いや、言い合いというよりは、相野さんも何か話してはいるが、初さんに一方的に言葉をぶつけられているようにも見える……。
ここからでは何を話しているか聞こえなかったため、近付いてみる。
「…………だから、相野さんがいけないんですよ!!」
「で、でも……それは…………。」
ぼんやりと声が聞こえてくる。
そう思っていると、初さんは俺が近付いてくるのに気付く。
「――あ、瀬濃さん!」
俺のことを呼び、困ったような、泣きそうな表情をしながら俺の方へと駆け寄ってきて、右腕にしがみ付く。
「――ちょ、どうした?」
突然のことで、俺はそう聞くしかなかった。
相野さんは、俺の方へ駆け寄る初さんを、表情を変えないまま目で追っていた。
「――ちょっと聞いてくださいよぉ……。相野さんが、怖いんです。」
「……怖い?」
「はい。なんか、私が役に立たないとかいうんです。」
…………相野さんが、そんなことを言うだろうか……?
不思議に思ったが、まずは相野さんにも話を聞いた方がいいだろう。
「……えっと……相野さん?初さんが言ってることは……本当なのか?」
相野さんが話しやすいように、極力気を付けて聞き返してみる。
「――そんなこと言ってません!」
だろうな。
「そうか……。初さん、相野さんは言ってないみたいだけど……どうなんだ?」
「――そんな!嘘つかないでください!相野さんは、私が悪いように言うんです!それにすごく怖くて、私はそういう風に言われたように感じたんです!」
確かに、強い言い方をされると、実際の言葉以上に強い言葉に感じることはよくあることだ。
それに、相野さんは伏し目がちで、自信のない様子にも見える……。
普通なら、相野さんが疑われるだろう。
だが、俺は相野さんを信じていた。
…………ちょうどいい。
色々と初さんに聞いてみるか……。
「そうか……。それは大変だったね……。ところで初さん。相野さんが、みんなの悪口を言ってるって話は……知ってる?」
まぁ、知らないわけはないのだが……。
「――え?……あ、はい……知ってますよ……?」
俺が唐突に話題を変えたため、初さんは驚いたようだ。
相野さんは一向に表情を変えず、その様子を見ている。
「……そうか。それって、初さんが自分で相野さんが悪口を言ってるのを見たの?それとも、誰かから聞いたの?」
「……え?えっとぉ……そ、そう!聞いたんです!相野さんが悪口を言ってるって、皆さんと同じように、私も聞いた話です!」
そう返答をする。
初さんは、俺にしがみ付いてきた時の困った表情も、少し泣きそうに見えた表情も、作り物であったかのように話しているように見える。
「そうか……。それって……誰から聞いたの?」
「――え、えっと……そ、そう!店長!店長から聞きました!」
「……店長から?店長はそういう従業員の話はしないと思うけど……本当に店長?」
そう、するわけがない。
いや、仮に店長であれば、それはそれで大問題すぎるわけだが……。
「……え?えーっと……あ、もしかしたら違うかもしれないです……。」
初さんの声が小さくなっていく。
「……じゃあ、誰から聞いたんだろう?」
「――え、えっとぉ……あ、そうだ。もしかしたら、主婦の方の雑談だったかも?」
倉庫で聞いた話では、年配の女性従業員は、初さんに聞いたと言っており、おそらくはすべてを鵜吞みにはしていない様子だった。
発信源とは思えない。
「……本当に?確認してもいい?」
「……え……えーと……えーと…………。あ、もしかしたら、いつもチャラチャラしてるあのお二人!あのお二人から聞いたような気もします!!」
名前も覚えていない相手に聞いたというのも変な話だ。
いや、まぁ俺もあの二人の名前は覚えていないわけだが……。
だがつまり、あの二人と俺が話しをすることなどはないと、普通ならそう思うだろう。
初さんは、慌てているような素振りをしているが、変にどこか冷静で、次々と身代わりを用意してくるのを逆におかしく感じる。
確かに、自分が疑われていると思えば、慌ててしまい、記憶が混濁することはあるだろう。
人と話すのが苦手な人間が、やってもいない罪をなすり付けられることがあるのはこれが原因だ。
だが、初さんの場合は、一件慌てているように見える反面、明らかにあり得そうな誰かを身代わりに、話の中に出してくる。
まるで、初さんにとっては、本当にそうであったかのような冷静さすらも感じさせる。
「……そうか……あの二人か……。」
「――は、はい!!そうです!!間違いありません!!」
初さんは、俺の返答が僅かに遅れたことを見逃さなかった。
「……実はね、初さん……。あの二人は……初さんから聞いたって言ってたんだ……。二人ともね……。」
「――え?……あ……あの……。」
初さんの声はどんどん小さくなっていく。
「――ねぇ、初さん……。何でそんなことをしたの……?」
あえて何をと聞かずに、自分から自白するように促してみる。
やったことは酷いことではあるが、自白できるのであれば反省の意思があるということだ。
あるいは、俺の考えに間違いがある可能性も、まだ僅かに残っている。
「……えっと……その……ごめんなさい…………。」
反省の余地がないというわけではないようだ。
理由は話したくなさそうな様子だが……反省しているのであれば、俺が聞き出すようなことでもない。
「……じゃあ、初さんが相野さんのことを悪く言ってたんだね?」
「……は、はい……ごめんなさい……。」
「……分かった。でも、俺じゃなくて相野さんに謝ってあげてもらえるかな……?」
俺は、相野さんと目を合わせて、小さく手招きをする。
「……えっと……相野さん……その、ごめんなさい…………。」
相野さんが近付いてきたのを確認して、初さんは口を開く。
「……い、いえ……その……。」
相野さんは沈黙し、少し間をおいてようやく口を開く。
だが、どう答えを返していいか分からないようだ。
当然だろう。
謝られたところでどうしようもないし、無視をされること自体が解決したわけではないのだから……。
そこに関しては、俺が解決する方法を考える。
「……それじゃあ、初さん。みんなに、相野さんは悪口なんか言ってなかった。あれは間違いだったって、説明できるかな?」
「……あ……えっと……はい。」
声は小さいが、肯定の返事だった。
「そうか。じゃあ初さん、頼んだからね?えっと……相野さんも……それでいいかな……?」
「…………はい。」
間はあったが、確かに相野さんは肯定の返事をしてくれた。
「それじゃあ、相野さん、初さん、仕事に戻ろうか。」
「はい……。」
「……はい……。」
お互い、まだ納得しきれていない部分もあるかもしれないが、とりあえず仕事に戻る。
初さんは、その場にいづらくなったのか、そこを離れ、すぐに見えなくなってしまった。
これできっと、近い内に相野さんの誤解は解け、数日もすれば相野さんにも笑顔が戻るだろう。
「――あ、あの……瀬濃さん……?」
相野さんが小さな声で話し掛けてくる。
「――ど、どうした?」
仕事に戻ったと思っていたので、声を掛けられて驚いてしまう。
「……あの……ありがとうございます。本当に……そ、それじゃあ!」
相野さんは、お礼を言うだけ言って、特に返答を聞くでもなく、どこかへ行ってしまった。
仕事の時間が終わり、帰りの支度をする。
「お疲れ様でーす。」
適当に挨拶をして帰ろうとすると、相野さんの姿が見える。
まだ元気いっぱいという様子ではないが、従業員同士で挨拶をしているのが見える。
返事をしない人もいる様子だったが、おそらく初さんがあのあとすぐに何人かには誤解を解くために話したのだろう。
あとは時間の問題だ。
相野さんに反して、初さんはいつもよりも少しだけ元気がないようにも見えたが、いつも通りに男性従業員に声を掛けて帰宅をするようだった。
もしかすると、かなり図太い性格をしているのかもしれない。
まぁなんであれ、相野さんが無視をされるような状態が続かなくてよかった。
胸を撫で下ろし、いつも通りの帰路に就く。
家に着けば、あとはいつも通りだ。
風呂に入り、食事を済ませ、歯を磨いて寝る支度を整え、布団を被る。
相野さんの件に関して、改めて無事に解決できたことを安心する。
きっと今日はゆっくり眠れるだろう。
明日からもまた、こうして平和な日常が続いていくのだと思う。
そんなことを思いながら、俺は眠りに就く。




