契約花嫁は、家出をする
小林邸に身を寄せるまりあは、装二郎に手紙を出す。
正直に、山上家に対して悪い噂話を耳にした。本当かどうか確かめるまでの間、屋敷には帰らないと書き綴る。
もちろん、小林邸にいるとは書かない。花乃香や、花乃香の両親に迷惑をかけてしまうからだ。
「コハル、清白、ごめんなさいね。しばらく、ここに身を寄せます」
『は、はい』
『うん、わかった』
コハルや清白は、まりあ以外の人には見えない。共にいても、問題はないだろう。
手紙は小林家の使用人を通し、郵便役所の官吏に託される。
差出人のみの手紙だったが、問題なく引き受けてくれたようだ。
戻らないまりあを、装二郎は心配しているだろうか。
暗い部屋でひとり、寂しがっているのでは? などと考えると、胸がじくりと痛む。
まりあは装二郎の正式な妻ではない。雄一が指摘していたとおり、山上家の戸籍にない他人なのだ。
帰らなくても、大きな問題はないのに……。
まりあの感情が伝わってしまったのか、コハルが傍にやってきて見上げてくる。窓際でぼんやりしていた清白も、腕に巻きついてきた。
「わたくしは、大丈夫」
それは、自分に言い聞かせる言葉であった。
きちんと調査して、安心した状態で装二郎の傍に立ちたい。
まだ、信頼できるほど長い期間、一緒に過ごしたわけではなかった。だから、屋敷に帰らずに調査しようと思い立った。
仮に、山上家の本家が悪事に手を染めていたとしても、装二郎は深く関与していないだろう。そう、信じたい。
装二郎はまりあを見つけ、妻にと選んでくれた。
憂いなく、胸を張って妻だと名乗りたい。
そのために、まりあは屋敷へ帰らないと決意する。
今日はゆっくり休むように言われた。
花乃香の言葉に甘え、まりあは早めに眠った。
コハルを胸に抱き、清白を枕元に添えて目を閉じる。
普段、寝付きはいいほうだったが、今日は心がソワソワしていて眠れない。
罪悪感がじわじわと喉元までせり上がってきて、なんともいえない気持ちになる。
突然、家を出るなんて不誠実ではないのか。
不審に思うことがあれば、直接装二郎に聞けばいいのに。
けれど一度、まりあは裏切られている。
装二郎と結婚するつもりだったのに、彼にそのつもりはなかった。
まりあが問い詰めにいっても、彼は真実を語らないのではないか。
そんな疑念があったのだ。
それでも、普段の装二郎は誠実だったように思える。
まりあが多少きつい言葉を口にしても、柔らかな笑顔で受け止めてくれた。
そんな装二郎を思い出すと、胸が痛むのだ。
早く、眠りたい。
自らの意思とは関係のない、眠りの中にいたい。
思えば思うほど、眠気というものは遠ざかっていくものだ。
ため息をひとつ零す。
水でも飲もうか。そう思って起き上がろうとしたが、体が動かないことに気づいた。
キーンという耳をつんざくような音が聞こえ、ゾワゾワと悪寒が全身を走った。
――これは、金縛り!?
声もでなかった。
唯一、自由だったのは目――否、鼻も。
白檀の香りが、ふわりと鼻先にかすめる。
瞼を広げると、まりあの上に跨ぐようにして大きな獣が見下ろしていた。
全身の毛並みは黒。
ピンと立った耳に、突き出た口、覗く牙、がっしりとした立派な体躯。それから、九本の尻尾。
九尾の黒狐である。
以前見かけたのと同じ黒狐だろう。
ただ一点、まりあを見下ろしていた。
どうしてここにいるのかと、咎めるような厳しい目である。
襲撃ならば、無防備な首筋に噛みついていただろう。
黒狐はまりあを睨むだけで、何かしようという気はないらしい。
――あなたは、どうしてここに?
口は動かないので、当然声もでない。それでも、まりあは黒狐に問いかける。
当然、答えてくれるわけがない。
猛烈に睨むだけだったが、ぱち、ぱちと瞬くと、涙がホロリと落ちてきた。
ぽた、ぽたと、雨のようにまりあに降り注ぐ。
頬に触れた涙は、温かかった。
――悲しいの? それとも、寂しいの?
まりあの問いかけに、黒狐はハッとなる。そのままくるりと踵を返し、窓から外へ飛び出していった。
ぶるりと震え、我に返る。
先ほどの出来事は夢だったのか?
窓掛けが、ゆらゆら揺れている。冷たい風が、部屋に流れ込んでいた。
いつの間にか、窓が開いている。
頬に触れると、濡れていた。
夢ではない。
確かに、黒狐はここにきていたのだ。
なんのために?
わからない。
けれど、黒狐が今、泣きたい気持ちになっているのは確かだった。
どうして涙を流し、まりあを見下ろしていたのか。
考えても、わからないだろう。
まりあが起き上がったので、コハルは目を覚ましてしまったようだ。
『まりあ様、どうかなさいましたか?』
「なんでもありませんわ」
窓を閉め、再び布団に潜り込む。
目を閉じると、すぐに眠りの世界へ呑み込まれた。
◇◇◇
翌日――まりあは花乃香に相談を持ちかける。
「実は、お父様の横領の罪を押しつけたのは、山上家ではないか、という疑惑が出ているようで」
「まあ! そうでしたの。久我のおじさまが、そんなことをするとは思っておりませんでしたが」
花乃香は首を傾げ、可愛らしい顔で思い悩むような表情を浮かべた。
「ですが、山上家は国内でも三本指に入るほどの財を持っていると噂されています。国家予算なんかに手を出さずとも、不自由はしていないと思うのですが」
「目的は、わたくしだったとおっしゃっていたのですが……」
「わかります!」
花乃香はまりあの手をぎゅっと握り、頬を染めながら捲し立てる。
「まりあ様を一族に招き入れられるのならば、なんだってしたくなりますもの! 私だって、お兄様がいたら、まりあ様と結婚するように、奔走しておりました」
「そ、そうでしたか」
彼女は学習院時代から、まりあに最大限の好意を抱いている。
その愛は、今も変わらないようだ。
最初、花乃香はまりあの親衛隊の隊長だった。毎日木陰からこっそり覗いていたので、友達にならないかとまりあのほうから話を持ちかけたのだ。
「ひとまず、証拠がないとなんとも言えないでしょう」
「問題は、どこをどうやって調査すればいいのか」
「帝国警察の情報部に、話を聞きに行ってみましょう」
政府から独立した組織、帝国警察――正式名称は『帝国特例警察部警備局』。
市民の平和を守るための公安局として創設された。
花乃香の父親は、帝国警察の局長なのだ。




