没落華族令嬢は、結婚だけでなく、○○○○を決める
「あ、もしかして君、婚約者がいるの?」
婚約なんて、疾うの昔に破棄された。まりあは当日についての記憶を思い出し、遠い目となる。
元婚約者雄一は、名家波田野家の次男。
親から引き継ぐ財産や爵位はないため、久我家に婿入りすることとなった。
長子相続制度は、三十年ほど前から女性にも適応される。戦争で男の数がぐっと減り、凋落していく華族が増えたからだ。
父親の爵位を継ぎ、まりあは女伯爵、雄一はその伴侶となる予定だったのである。
雄一はまりあを喫茶店に呼び出し、軽い口調で言った。君とは結婚できない、と。
まりあが頷くと、笑顔で去って行ったのだ。
昔から、調子のいい男だった。まりあの機嫌を損ねないように、上手く立ち回っていたのである。
婚約破棄した場でも、言い訳をしたらまりあを激昂させるとわかっていたのだろう。
だからあえて、必要最低限の言葉しか口にしなかったのだ。
「どれくらいお金を出したら、婚約の取り消しに応じてくれるかな?」
信じがたい発言を耳にし、まりあは瞠目した。
婚約を、お金で解消させる。装二郎ははっきりそう言った。
なんて下品な男なの――と思ったところで、ふと我に返る。
まりあ自身も、両親のために財産を持つ男をあさりに夜会へ参加していたのだ。
彼とまりあは、同じ穴の狢というわけである。
装二郎は手を差し出したが、まりあは無視して自ら立ち上がった。それを見た装二郎は手を引き、愉快だとばかりに目を細める。
「わたくし、婚約者はおりませんの」
「だったら、僕の花嫁に――」
「ひとつ、条件がございます」
「なんだい?」
「両親の、援助をしてほしいのです」
「ご両親、何か商売をしているの?」
「いえ……」
自分達の力では、とても生活なんてできない。それを自ら口にするのは、とてつもなく恥ずかしいこと。
けれど、あばら屋に住む両親なんて、見ていられない。まりあは自尊心をかなぐり捨てて、装二郎に告げる。
「わたくしの名は、久我まりあ」
「ああ、久我家の。なるほど、なるほど……」
名家である久我家の没落を、知らない華族はいないのだろう。多くを説明せずとも、装二郎は理解したようだ。
「我が家に、財産はなく――」
「うん、わかった。君が僕の妻となってくれるのであれば、ご両親を支援しよう」
「本当に?」
「ああ、嘘は言わないよ。その代わり、我が家のしきたりのすべてに、従ってもらうけれど、いい?」
あやかしを匿う変わり者の一族、山上家。
年若い娘を拐かし、血肉をすする当主――なんて噂が流れているものの、目の前にいる装二郎からおぞましい気配は感じない。
おそらく、裕福な山上家を妬んで広まったただの噂話なのだろう。
ただ、この世においしいばかりの話なんてない。
山上家には、何かがあるのだ。
装二郎は一見しておっとりぼんやりしているが、まりあを見つめる瞳に隙はなかった。
あの山上家の当主を務めるだけあるのだろう。
「しきたりというのは、噂にあるような、あやかしを家に匿っている、というものですの?」
「うーん、まあ、そうだけれど」
あやかしは人々を襲う悪しき存在である。昔から、そう言われていた。
学習院時代も、あやかしの悪行の数々を習い、ゾッとしたのを覚えている。
今の時代、退魔の術式のひとつでも覚えていないと、生きてはいけない。そんな思念から、学習院では陰陽師が扱うような呪術を習った。
まりあは陰陽術の授業で才を発揮し、学習院始まって以来の呪術の使い手とまで言われていた。
「わたくし、陰陽術を少しだけ使えますの。もしも、襲ってきたら、祓ってしまうやもしれません」
「ああ、それは大丈夫。うちにいるのは、傷ついたあやかしばかりだから」
「傷ついた、あやかし?」
「そう。人と同じようにね、あやかしにも善い奴と悪い奴がいるんだ」
人々はあやかしを、まとめて悪い存在とする。そのため、問答無用で祓われてしまうのだ。
山上家では、傷つき、息も絶え絶えとなった善きあやかしを保護しているのだという。
「なぜ、そのようなことを?」
「ご先祖様が、善いあやかしに救われたことがあるんだって。それで、我が家では代々、善いあやかしを保護しているんだよ」
「そういうわけでしたのね。でも、どうしてそれを周囲に説明していないのです?」
山上家の噂は、おどろおどろしく、残忍なものとして広がっている。
社交界にも滅多に顔を出さないため、広がった噂話はいつまで経っても払拭されない。
「それは、わざとなんだよ。財や歴史、爵位のある家には、下心を持って近づいてくる奴らがいる。しかし、やばいことに手を出していたら、怖がって距離を置くだろう?」
「なるほど」
理にかなったやり方だと、まりあは思う。
下心を持って近づく輩には、覚えがあった。それは、元婚約者である。
雄一と長年をかけて信頼を築いてきたつもりであったが、その関係はあっさりとなくなった。まりあと雄一を繋いでいたのは、久我家の持つ財と歴史、爵位だったのだ。
「もしも、あやかしが襲いかかってきたら、自慢の呪術で祓えばいい。その点は、許可しよう。結婚の際に、結納金も必要ない。身一つで、嫁いできてほしい」
だから、僕の花嫁になってくれ。
装二郎はやわらかく微笑みながら言った。
彼は、まりあの家柄を見て結婚を決めたわけではない。
健康と、足の速さを評価したのだ。
没落してから、まりあ自身を見てくれたはじめての男性である。
悪い気はしない。
それに、彼は大金持ち。両親を支援してくれるという。
これ以上ない、結婚の条件である。
まりあは差し出された手に、指先を重ねた。
その瞬間、手を引いて抱きしめられる。
驚いたまりあは、五十もある握力を使って装二郎を押し返す。
そして、見事な平手打ちを決めてしまった。
パン! という乾いた音が庭に響き渡った。
装二郎は目を丸くする。
まりあはハッと我に返ると、ジンジン痛む自らの手を握りながら、言い訳を口にした。
「結婚前に、このように接触するのは、はしたない、ですわ……!」
学習院で習ったのだ。未婚女性は、男性に触れてはいけないと。
抱擁はもちろんのこと、手を繋いだり、肩が触れたりするほど密着して歩くのも禁じられている。
だが、平手打ちはやりすぎたかもしれない。
謝ろうとしたら、先に装二郎のほうが頭を下げた。
「その、すまなかった。君に触れたいから、早く結婚しよう」
「……」
もしかしたら結婚を断られるかもしれないと思ったが、心配はいらないようだった。