没落華族令嬢は、公爵家の若き当主に求婚される
あやかしが夜な夜な思うままに勢力をふるう――帝都。
血なまぐさい事件は起きていたものの、それでも世の中は華やいでいた。
異国文化がもてはやされ、流行の最先端を歩く。
政府も欧化政策と称し、異国の文化や風俗を取り入れて国の近代化を図っていた。
特権階級とされている華族は孔雀宮と呼ばれる絢爛豪華な洋館に招待され、これまで着ていた着物ではなく、ドレスや燕尾服を纏って社交を行う。
最大の目的は、結婚相手を探すこと。
男女ともに、よりよい未来の伴侶を求めて目を光らせていた。
招待客の中で、猛禽類のように鋭い目で周囲を観察する女性がひとり。
長く美しい金の髪はゆるやかに巻かれ、品よく流している。髪を結っていないのは、未婚女性の証であった。
猫のようにぱっちりとした目は、キリリとつり上がっていた。青い瞳は、異国人である母親譲りである。
長い手足に、すらりと高い背は、時に威圧感を与える。男性の平均よりも、上背があるのだ。
何よりも圧倒的な美貌が、周囲の男性を尻込みさせる。
そんな彼女の名は、久我まりあ。
春に学習院を卒院したばかりの、うら若き十八の乙女である。
名家久我家のお嬢様であったが、彼女に突然の不幸が襲った。
それは、久我家当主であり、御上の側近でもあった父親の突然の失脚であった。
巨額の横領とあったが、真面目を絵に描いたような父親がそんなことをするわけがない。まりあはそう信じていた。
だが、火のないところに煙は立たぬと人々は囁く。
久我家の名誉は地に落ち、証拠不十分であるにもかかわらず、久我家の伯爵位と財産のすべてが取り上げられてしまった。
立派な屋敷を追い出され、まりあは幼少時からの婚約者である波田野雄一に婚約破棄を言い渡された。
子どものときからの付き合いで、好きでも嫌いでもなかった。それでも、将来の夫として意識をしていたのに、関係の終焉は実にあっけないものだったのだ。
現在は下町のボロ家に一家で移り住み、みすぼらしい生活をしている。
父親はしばらく気落ちしていたようだが、落ち込んでばかりもいられない。一家を養うため、働きに出た。
だがしかし、生粋の上流階級の生まれであるため、職場に馴染めず、今日も七社目の解雇を言い渡されて帰ってきた。
本人がそこまで気にせずに、あっけらかんとしている点だけが救いか。
異国出身の母親も海を渡った先にある国に嫁いだだけあって、逆境に負けていない。
そんなふたりの娘であるまりあも、決して希望を失ってはいなかった。
目指すは、玉の輿。
大金持ちの男と結婚して、両親に不自由のない暮らしをさせてあげたい。
それだけが、まりあの夢である。
見た目こそ気が強そうで、我が儘放題に育ったように見えるものの、まりあは心優しい娘であったのだ。
今宵が、最後の機会である。
以前より、この孔雀宮で行われる夜会には招待されていた。
ドレスや宝飾品の数々が取り上げられる中、招待状だけは死守していたのだ。
今、まりあが纏うドレスは、学習院時代の友人小林花乃香に借りた一着である。
花乃香はまりあを心配し、家に居候すればいいと申し出てくれたが、両親を置いていけるわけがないと断った。
図々しいとはわかりつつも、心優しい友人からドレスを借りて最後の勝負に出たというわけである。
まりあは、内心漁師のような気分で夜会に参加していた。
マグロのような男を、一本釣りしなければならないからだ。
鯉のように滝登りをして最終的に龍になるような男でもいい。
両親に裕福な暮らしをさせてあげられる者ならば、誰でもよかった。
けれど、思うように事は進まない。
かつては、引く手あまただったまりあも、一家凋落の目に遭った今は誰にも相手にされなかった。
美貌に引き寄せられてやってくる男達も、名乗れば愛想笑いを浮かべて去って行った。
やはり、結婚は難しいのか。
学習院時代の友人達は、大勢の男性に取り囲まれていた。
以前のまりあも同じ場所にいたのに、ただ家が没落しただけで状況は天と地ほどもかわってしまうのだ。
いいや違う。元から、取り巻く男達はまりあ本人を見ていなかったのだろう。
彼らが瞳を輝かせ、賞賛していたのは歴史ある久我家だった。
それに気づいた瞬間、どうしようもなく腹立たしくなる。
もう、帰ろう。ここは、自分がいるべき場所ではない。そう想い、大広間をあとにした。
玄関まで続く廊下が、果てしなく長いように感じてしまう。
どうしてか息苦しく感じて、立ち止まった。
休憩するために用意された部屋の扉が、僅かに開いているのに気づく。灯りが、一筋の糸のように漏れていた。
「――最低!!」
女性の声が聞こえたあと、何かを叩くような音が続けて聞こえた。
扉が、勢いよく開く。
紅藤色の、落ち着いた色合いのドレスを着た女性が部屋から飛び出してきた。学習院に入る前の、十四から五歳くらいの年若い娘だ。社交界デビューをするにはいささか若い。おそらく、名家の生まれで早めに結婚相手を決めたいのだろう。
鉢合わせとなったまりあの存在に気づくと、優雅に会釈する。
まりあが返すと、そのまま何も言わずに去って行った。
痴情のもつれか。部屋の中を見ないように通り過ぎよう。
そう思っていたのに、男がぬっと廊下に顔を出す。
今の時代に珍しい、着物に袴を合わせた姿でいた。男性はほぼ燕尾服だった。和装で参加したのは、彼くらいだろう。
年頃は二十代半ばくらいか。気だるげな雰囲気のまま、まりあの前に現れる。
眠たいのか、垂れた目は今にも閉まりそうだった。ただ、その奥にある黒い瞳は、じっとまりあを見つめて離さない。
端整な顔立ちをしており、和装がよく似合う青年であった。
当然ながら、彼に見覚えはない。それなのに、ジロジロと不躾な視線を向けられていた。
「な、なんですの?」
「あまりにもきれいなものだから、見とれてしまって――ああ、失礼。名乗る前にべらべらと喋るものではないね」
一歩、二歩とまりあに近づく。ふわりと、白檀の匂いが鼻先をかすめる。
人の、死の匂いだと、まりあは思った。
「僕は、山上装二郎」
「やま、がみ……や、山上ですって!?」
山上家。それは、国内でも五本の指に入るほどの名家である。
公爵の爵位を賜り、帝都に大きな屋敷を持つ名門一族だ。
ただの名門一族の子息であれば、まりあは笑顔で自己紹介をしていただろう。
けれども、山上一族とは関わる気はいっさいなかった。
なぜならば、彼らは帝都にはびこるあやかしのお頭と言われているから。
おまけに、ここ最近不穏な噂話が流れていた。
それは、山上家の当主が花嫁候補を連れ帰り、血肉を啜っているというもの。
ただの噂話ではない。実際に、結婚適齢期の娘達が行方不明になって見つかっていないのだ。
山上家の大きな屋敷の中に連れ込まれ、広大な所有地の中に死体を隠したら見つけるのは困難だろう。
また、あの帝都警察でさえも、証拠がない状況では立ち入ることは難しいと聞いていた。
山上装二郎――彼は現在の、山上家の当主だという。
何か引っかかる点があったのか、名乗ったあと「あ!」と言って口を塞いだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。それよりも、君の名前を、聞かせてくれるかい?」
そう問いかけられた瞬間、まりあは反射的に駆け出す。
運動部に入らないかと、勧誘されるほどまりあの足は速かった。
逃げきる自信はあったのに、装二郎はつかず離れずの距離で追いかけてくる。
玄関から庭のほうへと駆け抜けていく。外は肌寒かったが、気にしている場合ではなかった。
ドレスだと走るのに不利だ。まりあは奥歯を噛みしめる。
一方で、装二郎のほうは袴姿であることをものともせず、どんどん迫ってくる。
もう体力は限界。誰もいない噴水広場に、膝をついた。
肩で息をしながら、まりあは問いかける。
「ど、どうして、追いかけてきましたの?」
「なんていうか、狩猟本能?」
逃げるものは追いかけたくなる。犬かと言いそうになったものの、相手が山上家の当主であるのを思いだす。喉まで出かかっていた言葉は、ごくんと呑み込んだ。
「まだ、名前も聞いていなかったし」
「名乗るほどの者ではありませんわ!」
皆、久我家の者だと口にすれば、去って行った。あのような屈辱を、味わうつもりは毛頭なかった。
「君――」
ドレス姿で蹲るまりあの前に、装二郎は膝をつく。いったい何を言うつもりなのか。身構えてしまった。
「とってもいいね! 足が速いし、健康そうだし、何より僕に物怖じしない。最高だ!」
「は?」
ひゅう、と北風が吹く。
いったい何を言っているのか。まりあは疑心たっぷりの視線を装二郎にぶつける。
彼はまりあの手を勝手に握り、キラキラした瞳でのたまった。
「僕の、花嫁になってほしい!」
「なんですって?」
「結婚してほしい」
社交界という大海へ、マグロを狙ってやってきたまりあであったが、うっかりクジラを釣り上げてしまった。
どうしてこうなったのだと、まんまるの月を見上げて嘆いた。