6-9
泣いたら負けだと思った。
気を抜けば、目の淵に溜まる、雨だかしょっぱいものだか分からない水滴が、こぼれ落ちそうだった。でも、自分はそうすべきじゃない。今からこの人に、大事な事実を告げなければならないのだから。
「昴」という響きに、恵実の顔が瞬時に強張るのが見て取れた。恵実は今まさに、昴の眠る墓の前で祈りを捧げていた。もう二度と聞こえない、その人の声を探して。
「何を……?」
突然、前も後ろも分からなくなった子供みたいにいたいけな表情で、恵実は彩夏に問う。
「『大切な人を守るために、別の女性と何度もこっそり会っている』——昴さんが、わたしに教えてくれたことです。8月の終わりでした。わたし、今朝そのことを思い出したんです。本当はもっと早くに、思い出して恵実さんに伝えていたら良かったのに」
「大切な人を守るために……?」
恵実はとっさに、自分のお腹に視線を落とした。
我が身に宿る小さな命。
私はこの命を守りたい。
でも、自分の命はもう。
左胸の前に浮かび上がる灯火のような数値を、上から読んだ。
600
600秒。あと、10分。
それだけの時間で、消えてしまうかもしれない。
「恵実さん、昴さんにとって大事な人というのは、紛れもなくあなたです。ここから先は推測になりますが」
そこで彩夏は恵実の左腕から自分の手を離した。少しずつ、雨が弱くなっている。
「昴さんが『ブラック時計』で見たものは、今恵実さんが見ているものを同じ———つまり、恵実さんの命の灯火ではないでしょうか」
「私の命……」
「そうです。お二人は、結婚記念日兼昴さんの誕生日に旅館に泊まりに行き、そこで恵実さんは昴さんに『ブラック時計』を貸しました。その日の夜、昴さんは恵実さんを見て黙り込んでしまった。きっとその時、昴さんが見たものはとても衝撃的だったはずです。何しろ、大切な人の命の時間を、見てしまったのですから。そこからお二人の生活は、ギクシャクしたものになったと言っていましたよね」
「ええ」
「昴さんはずっと考えていたんです。『ブラック時計』が見せるものが本当なら、恵実さんの命が危ない。でも、どうしてそうなってしまうか分からない。事故かもしれないし、考えたくはないけれど病気かもしれない。だから信頼できる人に相談することにしたのだと。昴さんが車の事故でお亡くなりになった際に、同乗していた女性は、会社の同僚だったらしいですね。その方は、元々医療関係のお仕事に就いていたのではないでしょうか。もちろん、『ブラック時計』のことは話さなかったと思います。もしも恵実さんが何かの病気に罹っていたとして、自分はどうしたら良いか。何か症状があれば病院に行くけれど、今のところそんな気配もない。でも心配すぎて仕方がない。こんなことを他の友達に言っても、過保護だと思われて終わるだけだ。何か、命に関わるような病気があるとすれば、何があるのか。こんなふうに、相談していたんだと考えます」
彩夏が昴についての推測を話していくにつれ、恵実の表情がみるみるうちに強張り、瞳は身開かれてゆく。
「昴さんは、恵実さんのことがただただ心配でした。だから、何も言えなかった。恵実さんに余計な心配をさせたくなかったからです。誰だって、自分の余命なんて知りたくありません。恵実さん、昴さんがたった一つ願ったことは、恵実さんが幸せでいることだったのではないでしょうか。恵実さんが思っている以上に、昴さんは恵実さんのことを考えてくれていたんです。わたしはどうしてもそれを伝えてたくてっ」
だから、熱が出て頭がふらふらでも、雨に打たれてみっともない姿になっても、彩夏は恵実に会いたいと思った。今しか伝えられない。それに、彩夏には恵実の「寿命」の原因がなんとなく分かっていた。
止められるのは、自分しかいない。
「恵実さん、現実から目をそらさないでください。逃げないでください。恵実さんが生きてくれないと、わたしは悲しいです。わたしだけじゃなくて、市川さんも、恵実さんのお母さんも、里穂ちゃんや加奈ちゃんも。桜庭書房に来てくれるお客さんもみんな」
恵実の目からとうとう大粒の涙が溢れ出す。頬を拭うこともせず、母親に置いていかれた子供のように瞳をうるませている。
「恵実さんがいなくなったら、誰がわたしに本を勧めてくれますか。誰がわたしの悩みを聞いてくれますか。その人に合った本を、選んでくれるのはあなただけです。優しく包んでくれるのは、恵実さんの言葉だけです。昴さんだって、恵実さんが今までどおり元気に生きてくることを望んでいます」
恵実はふと先ほどまで両手を合わせていた昴の墓に視線を落とした。昴がここにいる。聡明で自分のことを何よりも心配し、愛してくれた人が。
「私は、彩夏さんの言う通り、今日自分の手で終わらせようと思っていたの……。命の終わり。私の命は、どうして終わってしまうのか、分からなくて。事故なのか、病気なのか、この子が間違えて産まれようとするのか。何も分からなくて。ただ、あの日——あの時、昴さんが私の前から他の女の人と一緒にいなくなってしまった現実から逃げたくて」
『ブラック時計』を着けてから、言いようもない不安に駆られた。
寝ても覚めても、左胸の前に浮かび上がる数値に、心を奪われてしまっていたこと。
恵実は包み隠さず、彩夏に吐露する。
「得体のしれない何かに怯えるくらいなら、自分で終わりにしてしまう方が、楽だと思って。ここで、昴さんの隣で、命を終える。この子と一緒に。そのための準備もしていたの」
恵実はそこで、カバンの中に手を忍ばせる。言われなくても、そこに何が入っているのか、彩夏には想像できた。命を終えるための道具。刃物か薬か。たぶん、そんなところだろうと。
「でも、これは準備できていなかったわ。彩夏さん、あなたがここへ来ること。私の前に現れて、あの人の言葉を伝えてくれること。そんなの、聞いてなかったわ」
潤んだ瞳から溢れる涙と、半開きの唇から漏れる彼女の本音。穏やかで物静かな店長は、心の底に、燃えるような想いをたくさん抱えていた。
「……もう、時間みたいね」
恵実のブラック時計の数値が、「60」に変化した。彩夏にはその数字が見えない。しかし、彼女に時間がないことは理解できた。
彩夏にはもう、伝える言葉が残っていなかった。本気で恵実に生きて欲しいということ、昴も同じ想いだったことは、きちんと伝えたはずだ。でも、あとひと押し、彼女の決意を崩す言葉が欲しい。誰か。昴さん! 思わず、彩夏は両目をぎゅっと瞑った。
「私はこの子と——」
「いかないでください恵実さん!」
「あたしたちも店長に生きて欲しいです」
恵実と彩夏の後ろから、二つの声が聞こえて振り返る。彩夏は閉じていた瞳を少しずつ開いて。
そこには傘を差し、肩で息をしている秋葉里穂と吉川加奈が立っていた。
「里穂さん、加奈ちゃん……」
恵実の声が震える。予想だにしなかった人物の登場に、心がざわめいている。
「里穂さんが、学校から帰るときに恵実さんが歩いて行くのを見たって。私に連絡が来て、二人で待ち合わせしてここまで来ました」
加奈がここに来た経緯を語る。彩夏から連絡をもらって、二人も必死になって恵実を探してくれたとが、彩夏の胸を熱くした。
「さっきのお二人会話、少しだけ聞きました。恵実さん、どうか産まれてくるお子さんと一緒に生きてください。それだけなんです。それだけで、あたしたち嬉しいんです!」
「みんな、待ってます。恵実さんと新しい命。生きるのって、退屈じゃないし幸せなことなんだって、『ブラック時計』に教えてもらいました。友達なんかいなかった私の人生、すっかり変えてくれました。好きな人ができました。今は、明日がくるのが毎日楽しみです」
恵実さん。
三人が彼女の名前を呼ぶ。恵実が一人ひとりの目を見つめて、カバンの中に忍ばせていた右手をすっと出し、静かに左腕の『ブラック時計』を外す。
「昴さん……」
それが、合図だった。
紡がれた名が、逆に「大丈夫だよ」と語りかけているように恵実には聞こえた。
彼女は思う。昴の心の端っこでも良いから、花のように咲いていたかった。
それが叶わないかもしれないと怯えて、疑って。自分を傷つけようとしていた。
でももう、自分のことで苦しまなくていい。
もしも、昴が生きていたら自分にそう言うだろう。
昴が見ていた世界の端っこで光る、恵みの雨。
恵実の閉じていた世界が、一気に広がってゆく。
視界の中に、三人の若い娘たちの姿。隅っこに、花柄の傘。
———いいんですよ。僕は雨が好きなんです。
———じゃあ、私だって良いです。雨、好きですから。
雨の日はアンニュイな気分になる。それが好きなんだと彼は言った。
雨の日はお気に入りの傘を差せる。恵実が雨を好きな理由はただそれだけだった。
(でも)
今は、このほとんど弱まっている雨の感触に浸っていたい。
きっともうすぐ、晴れが来る。雲の切れ間から、夕焼け空が覗いているのが見えた。
「あ、虹だ」
加奈が歓喜の声を上げると、全員が彼女の声の方を見た。
そこには、ほんのりと七色の橋が架かっていた。




