6-8
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「っ……」
ずきん、と頭部に軽い痛みを覚えて彩夏は目を覚ました。
時計を見ると、午後4時を回っていた。朝起きてからずっと眠っていたようだ。
「さっきの、夢……?」
桜庭書房で昴に会う夢。最近ずっと恵実さんのことを考えていたから、夢で彼らが出てきてもおかしくはない。
でも、あれは夢ではない気がした。
夢ではなくて、実際に彩夏自身が経験したことではなかったか。
先程よりもだいぶすっきりとした頭が、忘れてしまっていた記憶を呼び起こすのには丁度良かった。
「確かあれは……」
昨年の8月の終わり。
彩夏がいつものようになんとなく読みたい本を探して桜庭書房を訪れると、店長の恵実がおらず、お店にはアルバイトらしき男の子がいた。最近は見ないから、多分もう辞めてしまったのだろう。
店内で様々なジャンルの本棚を見ていると男の人の声がして、彩夏は振り返る。そこにいたのが昴だった。
恵実と昴は一時期喧嘩をしていたのか、昴をお店で見かけることもほとんどなくなっていた。それが、その日に限っては顔を合わせることができた。
昴は彩夏に、「別の女の人と会う」と言っていた。それは、「大切な人を守るために」だとも。
恵実の余命。
昴が『ブラック時計』で見ていたもの。
その二つを掛け合わせることで見えてくる真実。
時間がない。
恵実があと23時間しかないと言っていたのが、昨日の午後6時。ということは、今日の午後5時に何かが起こる。あと、1時間もない。恵実さんの言う通り、彼女の命の灯火が消えるかもしれない———。
彩夏は、完全には回復していない身体を動かして着替えを済まし、財布とスマホだけを手にして家を飛び出した。外は雨が降っていたのだが、傘をさす余裕がなかった。
「恵実さん!」
時間がない。
早く恵実を見つけなければ。
「もしもし、市川さん!?」
雨に打たれながら彩夏は市川に電話をかける。
『彩夏さんですか? 良かった、先程LINEしたのですが、つながらなかったみたいなので』
「ごめんなさい。体調が悪くて寝込んでいました」
『あら、大丈夫ですか?』
「もう大丈夫です。ありがとうございます。それより」
『はい、恵実さんのことですよね。実は店長、今日はシフトが休みでお店に来ていないんです。おうちの人にも訊いてみましたが、買い物に行くと言って出かけたそうです。だから、私にも居場所が分からなくて……。昨日の話、私は正直全てを信じたわけではないのですが、万が一のこともあります。でも今日は一日お店にいなくちゃいけないので、どうしようかと』
「そっか……。分かりました。恵実さんのことはわたしが探します。もし恵実さんがお店に来ることがあれば、また連絡ください」
『はい。店長のこと、どうかよろしくお願いします』
彩夏は市川との通話を切り、それから秋葉里穂と吉原加奈にも連絡を入れた。中高生の彼女らをあまり危険な目に遭わせるわけにはいかないため、「もし街中で見かけたら連絡してほしい」とだけ伝えて。二人ともすぐに了解の返信が来た。
これで、自分にできることは一通りやった。あとは、恵実のことを探すだけだった。
「恵実さんが行きそうなところって……?」
思えば桜庭書房以外で、彼女を見かけたことがほとんどない上に、彼女が行きそうな場所にも検討がつかなかった。
とにかく、走るしかない。
彩夏は土砂降りの中、街中を走り回った。加奈が通う美山中学、里穂が通う朋藤高校、自分が通っている三葉大学の前。
駅前、アーケード街、近所のスーパー、小さな喫茶店。
こんなふうに夢中で走ったのに、既視感を覚える。
みっともない自分を見せたくなくて、親友の目から逃れるようにして走った。ほんの3ヶ月前の話だ。あの日も今日と同じように土砂降りの雨。彩夏の身体に突き刺さる容赦のない、凍える刃。
3月。暦の上ではずいぶんと前から春なのに、どうしてこんなに冷たい。
けれど、今日の彩夏は誰かから逃げるために走っているのではない。
誰かを救うために、走っている。
だから、冷たい雨も平気だった。
「恵実さん」
名前を呼べば返事をしてくれる——恵実は決してそういう人ではない。気がつけば隣で静かに見守ってくれている。きっと、昴にとっての恵実もそんな優しい妻だったのだ。
「恵実さん、恵実さん、恵実さん」
走って、息が切れて、すれ違う人から稀有な目で見られて、そろそろ体力も限界に近かった。
闇雲に走り回るのはやめよう。彼女が行きそうな場所をもっとよく考えるのだ。午後4時35分。あと少ししか、ない。
彩夏は朋藤高校前の交差点で立ち止まり、ふと周囲を見回した。小さな洋菓子店、花屋、クリーニング屋。いや、もっと遠く。坂道、マンション、分厚い雲の向こうに連なる山。
「……あ」
朋藤高校前の坂道を登っていった先の道に、人影を見つけた。
女の人。黒髪を後ろでゆるく括っている。ふっくらとした腰回り。あれは、間違いなく。
「恵実さん!」
ふと、全身から力が抜けてゆくのが分かった。ようやく見つけた。彼女は今もなお、膨らんだお腹を抱えて坂道を登り続けている。遠くてあまりはっきりとは見えないが、左手にはめられた『ブラック時計』が黒光りしていた。
彩夏は迷わなかった。
点滅しかけていた横断歩道を全速力で駆け、彼女のもとへと急ぐ。上り坂に差し掛かると恵実はすでに坂の上にある墓地に入ってゆくのが見えた。
そこでようやく彩夏には恵実が何をしようとしていたのかが分かった。彼女が目指しているのは間違いなく、昴が眠る場所なのだ。自分の命が危ういかもしれないという時に、まっすぐに目指していた場所。もし、彩夏が恵実の立場だったら、彼女と同じことをしただろう。よく考えれば自然な行動だったはずなのに、街中を走り回った自分が恨めしかった。
全身びしょ濡れ。アルバイトで稼いだお金で買った服が台無しだ。
雨脚は一向に弱まる気配を見せなかったが、一度濡れてしまえばもう失うものはなにもない。
彩夏は最後の力を振り絞り、上り坂を一気に駆け上がった。
恵実は、あの墓の前にいる。
墓地の中へと足を踏み入れると、足下からジャリ、という音がした。
顔に張り付いた雨水を腕で拭いながら、彩夏は恵実の姿を探した。黒いワンピースに、白地にピンクの花柄の傘を指している。黒い服に、傘の模様は大変によく映えていた。場違いなくらい、明るく鮮やかな傘を目指して、彩夏は彼女のところまで歩み寄る。
芦田昴の名が刻まれたお墓の前で、彼女は傘を差して立っていた。目を瞑っているわけではないらしい。そっと、彩夏が彼女の左腕を掴む。恵実は、突然腕を掴まれてもさほど驚きもせず、ゆっくりと後ろを振り返った。
「やっぱり、彩夏さんなのね」
優しい、天からの声のような響きだと思った。この人を追いかける自分がどれほどみすぼらしい姿で目の前に立っているかと思うと、彩夏は今すぐ顔面を覆いたくなる。
「追いかけてくる人がね、彩夏さんなら良いなって、思っていたのよ」
恵実が微笑み、彩夏は戸惑う。
「どうして……」
知っていたんですか、と彩夏は聞きたかった。けれど、何かを覚悟した顔つきの恵実には、何をどれくらい予想できていたとしても不思議ではないと感じる。
「それより、こんなにびしょ濡れになって」
聖母のように、彩夏の方にあの美しい傘を差し出して、頬を撫でる恵実。
彩夏はそのまま、顔をくしゃりと歪め、溢れ出る涙を止められなかった。
「わたしっ……恵実さんに謝らなくちゃいけなくて……。探していたんです。どうしても、あなたに話さなくちゃいけないって、思って」
「謝ることなんて何もないわ。彩夏さんは私に、何も悪いことをしていないじゃないの」
優しい瞳をしたまま、恵実が彩夏をなだめるように答える。しかし、彩夏には伝えなければならないことがあった。どうしても、今この瞬間に、最大の真実を。
「いや、違うんです。わたし、昴さんから、聞いてたんです」




