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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第6章 いのち繋いで
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6-5



彩夏は考えていた。

里穂から『ブラック時計』の話を聞いたその日の夜、寝付けずに目を瞑ったまま、恵実のことを思う。鎮まり返った部屋の外で、ポツポツと雨音が地面を跳ねる音が聞こえた。雨は、ようやく小ぶりになっているようだ。


里穂も加奈も恵実のために協力してくれている。でも、自分が一番頑張らないといけないという自負があった。『ブラック時計』を着けた三人の中で、彩夏は一番恵実の近くにいる気がした。他の二人は自分より年少で、さらに時計の一件の前から恵実や昴と面識があったのだ。

「昴さん」

その人の名前を、彼女は久しぶりに呼んだ。

何度か会っただけの間柄なのに、あの穏やかな人柄と話し方が特徴的でよく覚えていた。赤の他人からしても、不思議なほど親しみやすい人。それでいて他人との距離感がしっかりと保たれていおり、初対面の時から臆せず会話ができた。

何より、昴がお店で恵実と話しているのを見たとき。

二人ともあまりに幸せそうで、見ている彩夏の頬が緩んでしまうほどだった。

「だめだ」

恵実や昴のことを思い出しているうちに、余計に眠れなくなる彩夏。何でもいいから、何をしてでも、恵実の気持ちを前に向かせられることはないか———。

半ば強引に、彼女と自分との間の思い出から彼女を元気づけられそうなことを探す。

思い出せ、思い出せ。

何か、あるはずだ。

根拠はないけれど、何かを忘れているような気がした。



『彩夏さん、今日お店に来てもらえませんか』

桜庭書房のアルバイト店員、市川真奈から連絡が来たのは、彩夏が悶々と芦田夫妻のことを考えた翌日だった。

市川とは秋葉里穂の一件で連絡先を交換していた。同年代なので、店員と客というよりは友達のようだ。


2月28日日曜日。今年は閏年ではないため、2月は今日で最後。朝、9時に目を覚ました彩夏がスマホの電源を入れ、最初に目にしたメッセージがそれだった。

『分かりました。支度して向かいます』

市川からお店に来てなんていう連絡が来たのは初めてだったため、彩夏は少し戸惑った。けれど、真面目そうな彼女のことだから何か訳があるに違いない。

ベッドの上で大きく伸びをしてカーテンを開ける。寝不足のせいか、目の下が腫れぼったい。

今日は、晴れ。昨日の雨が嘘のように窓から差し込む朝の光が暖かい。

「市川さん、どうしたんだろう」

彼女とは連絡先を交換したが、朝急に来てくれなんて言われるのは珍しい。市川からすれば、彩夏はお客。お客さんを店員が呼び出すのだ。急な用がなければ絶対にない。

彩夏はとにかく急いで支度をし、家を飛び出した。




「市川さん」

日曜日の午前中。桜庭書房は珍しく、といえば失礼かもしれないが、お客さんがちらほら見えた。

「彩夏さん! 来てくれてありがとうございますっ」

レジでお金を計算していた市川が彩夏に向かってお辞儀をする。いつになく慌ただしそうな店内。ざっと見回したところ、店内で恵実がお客さんに最近発売されたらしい文芸書の説明をしていた。本好きの恵実がお客さんに本の説明をするのは全く違和感がない。しかし、彩夏は恵実の声に、歯切れのなさを感じた。


「いえ。それより、どうかしましたか?」

「それが、店長のことで少しお話が……」


市川がそっとお客さんと話をしている恵実を見遣る。彩夏と同じく、市川も恵実の様子がおかしいと感じていたのだ。

市川は「こちらへ」と言い、ほうきを手に店の外に出た。店前の掃除をするフリをしてここで話すつもりなのだ。

「あら、ニケ」

にゃお。

と、桜庭書房の看板猫が足下で鳴いた。彩夏が来たときにはいなかったから、つい今しがたやってきたらしい。

「ニケちゃん、確か恵実さんの話に出てきてたね」

「あ、この子男の子なんです」

「そっか。じゃあ、ニケくんだ」

ニケはそばに立っている二人の人間が自分のことを話しているなんてつゆ知らず、ファアアとあくびをして眠り始めた。

「君は、自由でいいねえ」

「店長が餌をやってから、ここが自分の縄張りだと思ってるんです。きっと」

市川はニケに「おやすみ」と声をかけてから、いよいよ本題に入る。

「先程もお伝えした通り、今日お呼び立てしたのは、店長のことなのですが」

「はい」

彩夏は、恵実のことで何を言われるのだろうときゅっと身を固くした。

「単刀直入に言います。店長の様子が、ここ数日間おかしいんです」

「様子が、おかしい?」

「そうです。以前より考え込んだりぼうっとしたりしていることが多くて。お客さんと話している時、レジに立っている時も、接客しながら明らかに何か別のことを考えているように見えて。本にカバーをかけようとして落としてしまうこともあります。新しい本を並べる際に、文芸書をビジネス書コーナーに置いたり。今まで、そんな初歩的なミスは一度もしていなかったんです。少なくとも、私がここで働くようになってからは。だから、きっとこの数日の間で、店長に何かあったんだって、思って」


市川はそこまで話し終わると、潤んだ瞳で彩夏に訴えた。

「彩夏さん、恵実さんは絶対に何か、抱えています。それって彩夏さんが探している、昴さんの『ブラック時計』のことと関係があると思うんです。だって、あれだけ本を愛してこの店を大事に守ってきた店長が、その大好きな本の置き場所を間違えて、目の前のお客さんより自分の考え事を優先するなんて、考えられません」


必死に最近の恵実のおかしさを伝える市川。市川からすれば恵実は上司。尊敬する人物が危機に陥っているのなら助けたいと思っているのだろう。

「店長がもし、何かに悩んでいるのなら、解決したいです。おこがましいと思われるかもしれませんが、店長にはここで幸せに生きて欲しいから」

彩夏ももちろん、同じ気持ちだった。

市川が言うことは、今日久しぶりにお店で恵実を見た彼女にもよく分かった。そして、できるなら恵実の様子がなぜ変なのか突き止めて、市川の不安も止めたい。店員と客という立場を忘れて目の前で懇願する市川が、自分の心の鏡だと思った。

「市川さん。わたし、諦めませんよ。今日、恵実さんに何があったか聞いてみます。わたしにできることがあれば何でもします。だから、そんなにきつく握っちゃ、ダメです」

彩夏が市川の右手に手を添える。彼女の右手は、ほうきをきつく握り締めており真っ赤になっていた。

「ありがとうございます……」

市川は、いつの間にかほうきを持つ手に必要以上に力が入りすぎていることに気づいた。 

恵実のことになると、つい頭が熱くなってしまっていた。

「わたし、閉店時間までここにいます。恵実さんの様子をもう少し見ていたいので。あ、大丈夫です。お仕事の邪魔はしませんから。何なら、お店を手伝わせてください」


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