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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第5章 あなたが見た世界
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5-7


カタリ、と。

彼が眠ってしまったのを確認してから、気づかれないようにベッドから起き上がり、寝室の机の上に置かれた腕時計を持ち上げた。

ブラック時計。

きっとこの時計に、秘密がある……。

もう、間違いなかった。

彼の様子がおかしくなったのは、この時計を彼が着けてからだ。きっと何か悪いものを見てしまったのだ。彼の口を数ヶ月間も塞いでしまうほど、恐ろしい何か。それとも、時計が原因というのは見せかけで菜乃が言った冗談の通り、女の人がいたりして。


いいや、私は何を……。

ベッドから、彼の寝息が聞こえてきた。この時計を着ければ、彼が見たものを知ることができるのだろうか。

ううん、ブラック時計を付けても、何が見えるかはその人次第なのだ。たとえ私が時計を付けたとて、彼と同じものを見られるとは限らない。

それに、何よりも、怖い。

長い間、彼の口を閉ざしてしまうほどのことを、この時計は私にも見せるかもしれない。そう考えると、想像だけでも指先が震え、ブラック時計をまた元あった場所に置き直してしまった。


結局私は、臆病なままだ。

変われない。不安と、あの人の抱えているものを知りたいという欲求で眠れない夜。月明かりが、机の上の『ブラック時計』を照らしている。いつも、きっちりとカーテンを閉めているのに気がつかなかった。今日は彼が帰ってきてから怒涛の展開で、寝る前にカーテンを引っ張ることさえ頭から抜け落ちていたんだ。

でも、丁度良いかもしれない。

あの日からずっと、心が独りのままだから。

せめて月の光だけでも、寄り添ってくれたら、淋しさを振り切ってなんとか眠りに落ちてゆくことができるのだから。


「いってらっしゃい」

「いってきます」

という言葉が、ここ二日間夫婦の間で消え去っていた。二人とも、そうしたかったわけじゃない。普段の会話が減って関係がぎこちなくなっても、「おはよう」や「いってらっしゃい」の挨拶くらいはできるものだと思っていた。

しかし、思いの外、先日の件で私たちの心は傷ついていたらしい。らしい、なんて他人事のように聞こえるかもしれないが、ここ数日間の自分の心境の変化に、自分自身追いつけていない節があった。


彼と言い合いになった翌日、つまり昨日だが、私は彼に一言「おはよう」を言えなかった。そうなると、彼の方も私に何も言葉をかけないと決め込んだのか、一日中、私たちは会話をしなかった。嘘みたいな話だけれど、本当のことだ。といっても、私はその日仕事が休みで彼は例によって残業をして帰ってきたため、会話をする機会は朝と夜の限られた時間。それでも、「一言も口を利かない」という状態を私たちが保てるなんて思ってもみなかった。


実際、同じ屋根の下に過ごすもの同士、口を利かないで一日を過ごすのはそれほど難しいことではなかった。生活のリズムが決まっているから、朝ごはんの時間に朝ごはんを食べてもらい、夜ご飯の時間に夜ご飯を食べてもらうだけで良かった。

その後は読書なりテレビを見るなり、好き勝手に過ごしていれば、あとは寝るだけ。

なんて、楽ちんなんだろう。

……なんて、思えれば良かったのだけれど。

正直、とても淋しいと感じた。これなら別々に暮らしたほうがましだと思えるほど、冷え切った食卓、朝を迎えたときの虚しさが堪えた。二日目の今日も、朝からお互い何も言葉を発さないで、今、彼の帰りを待っている。彼は今頃、今日はどうやって寝るまでの時間を無言で過ごそうかと画策しているのかもしれない。


きっと、私だけだ。

私だけが、一人、だだっ広い城の中に閉じ込められたような感覚に陥っているのだ。積み重ねてきた昴さんとの日々が、ジグソーパズルのピースのように一枚ずつ剥がれてゆく気がしている。

こんなことなら、知ろうとしなければ良かった。

その方がまだましだっただろう。彼は彼の秘密を抱えたまま、それでも愛し合って生きていくのだ。以前より会話が減ったって、構わない。だって私たちは夫婦なのだ。夫婦なら、少しずつ会話がなくなっていっても、心の絆は深くなる。と信じている。



ただいま。

という声もないままに、彼は家に帰ってきた。午後10時を回っている。よっぽど疲れたのか、スーツを脱ぐとすぐにお風呂に入ってしまった。私は、こんな時でも彼が帰ってくるまで自分も夜ご飯を食べずにいた。たとえ一緒に食卓を囲んだとしても会話がないことは分かっている。それでも、二人でご飯を食べる習慣が抜けないのだから仕方がない。


彼がお風呂から上がると、二人で黙々とご飯を食べる。こういうの、なんて言うんだっけ。そうだ、家庭内別居。結婚する前まで、自分がこんなことになるなんて思ってもみなかった。


さんは、ここ数週間の仕事の疲れがピークに達しているらしく、ご飯を食べる手がだいぶゆっくりになっていた。二人、口を利けなくなった今も、私は彼のことが心配だった。私には、自分たちが喧嘩をしているという認識がなかった。彼が何かを抱えていて、それをいつ言うのか言わないのか、どう聞き出すのかを二人で我慢比べしているようなものだと。彼は私が先日声を荒げたことを怒っているのかもしれないけれど。


何も会話のないままに二人でご飯を食べたので、夕食の時間はあっという間に終わってしまった。私は、二人分の食器を洗い、お風呂に入った。お風呂から上がると昴さんは難しい顔をして会社から支給されたスマホを眺めていた。


永遠に続くかと思われる時間の海。

20歳がそこらの頃は、子供時代よりも何倍も早く過ぎ去ってゆくように感じられていた時間が、今は再び莫大なものに思えた。


深夜12時。私は彼よりも早くベッドに入った。目を瞑って、このまま自然と夢の中へと沈んでゆきたい。何も考えず、何も思わず、心を乱されないままに。

目を閉じて、彼との未来を考えた。私たちはこのままなのだろうか。このまま二人で、一人きりの生活を送るのだろうか。何か突破口が欲しいのに、彼が重たい口を開く以外に何も対処法が考えられない。私は、無力だ。

途方もない孤独感に、気がつけば目尻から涙が伝っていた。声を上げずに、私は泣いた。子供みたいに涙を垂れ流し、この激情の波が引いてくれるのを静かに待った。

 

すうっと、私の頬に何かが触れる。

震えているけれど温かい。自分の涙ではなく、体温の温もり。

 

「……どうして」

 

そっと、濡れたままの目を開けると、私がいちばん求めていた人の顔がそこにあった。

昴さんは、肩を震わせながら、私に「ごめん」と呟いた。


「ごめん、恵実」

苦悩に満ちた表情で私の上半身を抱き起こし、私の肩から首の部分を抱きしめた。

久しぶりの感覚だった。

彼に自分という存在を認めてもらい、愛情を確かめることが。その時の彼は、まだとても苦しそうで、私のことを抱きしめる腕に、異様な力が込もっていた。

少し痛かったけれど、強張っていた心が溶けてゆく感覚が愛しかった。

「ううん、私の方こそごめんね」

口にしてしまえば簡単だった。

なぜ、子供でもできるような仲直りの言葉を、私たちは今の今まで発することができなかったのだろう。けれど、簡単に謝罪をして片付くような想いなら、私はこの人と一緒になってはないなかっただろう。

「いや、僕が悪いんだ。不安にさせて、本当に申し訳ない」

「じゃあ」

彼の抱えているものを、彼の口から溢れ出ることを今か今かと待った。

けれど、彼はそれ以上込み入ったことは何も言わず、ただ私を抱きしめたまま、

「でも、言えないんだ」

とはっきりと口にした。もっと、絶望するかと思った。私は、彼のことを知ることができない。それなのに、「そっか」とどこからともなく湧き上がってくる諦めのような感情が意外と丸みを帯びて胸のうちに収まった。


その夜、私たちは久しぶりに交わった。悲しみのオーラに満ちた私たちを、月が明るく照らしてくれた。また今日も、私はカーテンをきちんと閉められなかったんだと、彼の下に埋もれながら思った。


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