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「……長。店長」
店の中から窓の外を眺めていた。朝から雨が、閉店時間の午後6時まで一定の強さで降っていた。一寸の狂いもなく。ひたすら、真っ直ぐに落ちてくる水。
今日は平日だけれど、たくさん本が届く日だったので、店内を大掃除しようと、大学生アルバイトの市川さんを呼んでいたのだった。彼女は昨年からここで働いてくれている。現在2年生ということだった。
「どうしたんです、恵実さん。考え事でもされていたんですか?」
「ごめんなさいね。雨を見ていると、思い出しちゃうの」
「思い出すって、何を?」
「うーん、なんだろう。ほら、子供のころ、遠足の日に雨が降ったり、運動会の日に雨が降ったりしたでしょう。そういう、雨の思い出」
「ええっ。そんなことを今、思い出すんですか。やっぱり恵実さん、変です」
「変だなんて、失礼ねえ」
市川さんは降りしきる雨を見てぼうっとしている店長に呆れながら、またレジ締めの作業に戻った。
本当は、違うのだけれどね。
雨が降って思い出すのはいつも、昴が初めて桜庭書房にやってきた日のことだった。
彼は、雨が好きだと言った。雨の日はいつもと違う風景が見られるからと。私も、彼と同じで雨が好きだった。でも、私は単に、お気に入りの傘を差して雨の中を歩くのが好きなだけだ。彼のように、素敵な理由ではない。
あの記念日旅行の日から、2週間が経った。彼の様子はあの日からずっとおかしい。
普段なら週に2日は仕事終わりに桜庭書房に来てくれていた。彼自身、最近はかなり本を読んでいて、買いたい本がたくさんあると言っていた。それなのに、来ないのだ。お仕事が忙しいのだろうと自分に言い聞かせてはいるが、その反面不安ばかりが大きく膨らんでゆく。この間、彼が戸惑いに満ちた目で私を見ていたのが何度もフラッシュバックした。
家に帰ってからも、彼の笑顔が減ったように見える。「何かあったのか」と聞くと、取り繕ったように頑張って笑ってくれる。私は、そんな彼の姿を見ると余計に苦しかった。
あの日から身体を重ねることもないし、二人の間で会話が減っていた。ご飯を食べるとき、今日は職場でこんなことがあったとか、こんなお客さんと話をしたとか、他愛のない会話をするのが好きだった。昴さんも、同じように私と話をしている瞬間、一番幸せな表情をしていたのに。
「今日はもう休むね」
その日の夜も、午後9時頃に帰ってきた彼は、さっさと夕飯を食べ、お風呂に入って寝床に着く準備をした。繁忙期らしく、会社から帰ってくる時間自体遅くなっていて、疲れているのだろうと思った。
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
それでも彼は、目を細めて私に微笑みかけてくれた。以前のように、心から笑うことは減ったけれど、彼が自分のことを大切にしてくれていることは心で感じていた。
まだ、この時までは。
「行ってきます、恵実」
「行ってらっしゃい」
8月25日水曜日の午前7時。会社員の彼を送り出して、今日も一日が始まった。青い空がカーテンの隙間から覗く。心を晴れやかにしてくれるはずの空。それなのに、胸が疼く。
彼の様子がおかしくなってから、もう4ヶ月が経とうとしている。
初めは、一過性のものだと思っていた。しばらくしたらまた、いつもの彼に戻ってくれると信じていた。
けれど、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎても変わらない彼を見ると、どうしようもなく苦しかった。
晴れた空が、綺麗すぎるから悲しいのだ。
綺麗すぎるから淋しくなるのだ。
私の気持ちだけ、置いてきぼりにしないでよ。
青い空だけでなく、まんまるの月も、道端の花も、川の水面の煌めきも、すべて虚しさを運んでくるだけだった。最近では、彼にどうしたの、と聞けば聞くほど、「大丈夫だよ」と彼は自分の殻に引きこもってゆくのが目に見えて分かった。
こんなにも、心が閉じてゆく日に限って仕事は休みだった。何か、気を紛らわすことができるものはないかと、家の中を見回しても、一通りの家事をこなせば、後には何も残らない。趣味という趣味は読書しかないが、気持ちが塞ぎすぎて、とてもじゃないが集中して本を読めそうになかった。
気がつけば、私は無意識のうちに、友人の菜乃に連絡をとっていた。子育て中の彼女なら、今日も家にいるだろう。
彼女からの返事は実にあっさりとしていた。「今から会おうよ」と、学生時代のようにフットワーク軽めの返信が来て、私はとても安堵した。
彼女とは、隣町の喫茶店で落ち合った。お互いの家からちょうど半分の距離にあり、落ち着いて話せる空間だった。
彼女は、一歳になった下の子の湊くんを抱っこ紐でくくりつけて私の前に現れた。私はコーヒーを頼み、菜乃は「カフェイン控えてるから」とホットミルクを頼んだ。
「今日は突然ごめんね」
「開口一番、謝らなくていいわよ」
困ったように笑う彼女を見て、一層申し訳なさが膨らむ。けれど、「私だって、恵実に会いたかったんだから」という一言に救われた。
「ありがとう。湊くん、大きくなったね」
「最近は重たくて困ってるのよ。まだ言葉は喋れないから、意思疎通できないのが大変よ。まあ、寝てる顔は天使なんだけれどね」
そう言って、目下おやすみ中の湊くんの髪を撫でた。愛しくてたまらないというふうに彼のことを撫でる菜乃は、立派な「お母さん」だった。
「それで、今日はどうしたの。昴さんと何かあった?」
「よく分かったね」
「そりゃそうだよ。伊達にあんたと友達続けてないって」
「そうでした。菜乃さんのことをみくびっていましたわ」
「分かってくれたらよろしい」
ふふ、と二人して笑う。こうしていると、他愛のない話でばかみたいに盛り上がっていた学生時代を思い出す。友達は少なかったけれど、菜乃が一人いてくれるだけで、私には十分だと思えた。幸せだった。
「昴さんとどうなの? 去年うちに遊びに来てくれた時は幸せな夫婦って感じだったけど」
彼女が、話の核心に触れた。今日彼女と会っているのは、外でもない彼のことを相談するためだ。
「彼の様子が、ちょっと前から変なの」
「変?」
「うん。ちょっと前というか、だいぶ前かも。四月に結婚記念日と彼の誕生日で旅行に行ったのだけれど。その日を境に会話が減って、その、行為も減っちゃったというか……」
菜乃以外には恥ずかしくて言えないようなことが、口からするすると出てきた。自分で思っていた以上に、誰かに不安をぶちまけてしまいたいと感じていたらしい。
「なーるほど。で、彼は何て言ってるの?」
牛乳をごくっと一口飲んだ彼女は、両肘をテーブルにつき、手を組んで顎を載せた。




