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「間違い……?」
加奈が少し冷めたお茶を啜りながら、恵実に訊いた。
「ええ。間違いだったの。私は、彼に『ブラック時計』を貸しちゃいけなかった」
「でも……、私たちだって『ブラック時計』を着けていましたよ。私は動物が見えるようになって、このお姉さんは」
「他人の恋愛感情を見たわ」
「そうなんだ。それで、私たちが見たものは、何かいけないことだったんですか? 私は、その時計で大好きな動物たちの声が聞こえるようになった。楽しかったし、嬉しかった。だから、『ブラック時計』に感謝してるくらいなのに」
「わたしは……先輩の、気持ちが見えるようになって。それで、傷つきもしたし、友達のことをもっと大切に思いもしました」
加奈ははっとして彩夏の方を見た。
彩夏は両手をきゅっと膝の上で握っていた。加奈の目には、彩夏が『ブラック時計』を着けることで自分とは違う思いをしたのだということを悟る。
「加奈ちゃん。『ブラック時計』は、加奈ちゃんのように、平和なものが見えるだけじゃないの。彩夏さんのように、見たくないものを見てしまうことだって、あるわ」
「見たくないもの……」
今度は、彩夏が潤んだ瞳を恵実に向ける。少しずつ、閉じていた唇が開き、震える声で尋ねた。
「じゃあ恵実さんは、昴さんが“見たくないもの”を見てしまったのだと思っているんですね……」
「そうよ」
『ブラック時計』のことを考えると、恵実の胸は今も張り裂けそうなほど音を立てて暴れ出す。目を背けたいと何度も思った。何も考えず、昴はただ交通事故で逝ったのだという事実のみを受け入れたかった。
けれど、どうしても離れなかったのだ。
昴が、最期に一緒に車に乗っていたのが女の人だということ。
彼が見たものと、その女の人が何か関係しているのではないか。
神様は、自分から大切な人を奪うだけでなく、こんな難題を突きつけて。
彼の真実を知りたい。
真実を知らずに、恵実はこの先生きていくことができないと、思い始めていた。
雨音が、次第に強く激しくなってゆくのを、お店の中から眺めていた。雨は割りかし好きな方なのに、なぜだか今日は不安に感じる。胸がざわつく。
昴の誕生日兼結婚記念日に、彼に『ブラック時計』を渡した。彼は、出会ってからずっとその時計を付けてみたかったらしく、心の底から喜んでくれていた。感激してその場で付けてしまうほどに、時計に酔いしれていた。
私はその時、ただ彼が欲しいと言ったものをプレゼントできて良かったと思った。もちろん、祖父の大事な時計だから彼にあげたわけではない。貸したということになっているのだが、彼が望んでいたことだ。
時計を渡した時の昴さんの嬉しそうな顔が、私は忘れられない。
二人でそっくりの時計を交換した私たち。何もかも幸せだった。この小旅行も、きっと素敵な思い出になるだろう。
夜、彼と私は旅館の部屋で身体を重ねた。
「ねえ、それ外さないの?」
「ああ。大事なものだから、今日ばかりはずっと身につけておきたい」
上半身から下半身まで裸になったのに、『ブラック時計』だけ着けたままの彼がおかしくて、私は笑いを堪えきれなかった。
「じゃあ、私も」
外しかけていた彼のお義父さんの時計のベルトをもう一度きつく締めた。
二人とも、身につけているものが腕時計だけだなんて、側から見ればとても滑稽な映像。それなのに、私たちは真剣に互いの瞳を見つめ合い、その日も一つになった。彼の身体の熱が自分の身体に絡み合って、溶けてゆく。痛みはどこにもなく、あるのは快楽だけだった。
ああ、もうすぐ。
もうすぐ終わってしまう。
ピタリと、彼が身体の動きを止めた。
彼が、果ててしまったのだと思ったが、なぜか、いつもと違う。普段ならその瞬間に、彼は私の身体に覆いかぶさって、荒れる心臓の動きを抑えようと深呼吸を始めるのだ。
でも、今日はそうしなかった。
彼は、布団に手をついて私を凝視し、固まっていた。
「なんだ……これは」
疑いの目。先行きの分からない不安に、どうすれば良いものかと思案しているような目。
彼の目は、いつも私に向けている柔らかなまなざしとは違っていた。この世のものではない何かを見てしまったかのように訝しげな瞳を私に向けて。
「どうしたの……?」
たまらなくなって、私は彼に訊いた。こんなに愛し合っている最中に、彼が動きを止めて不安そうな表情を浮かべていることが、気がかりで。
「あ、いや……なんでもない。続けるよ」
一度止まってしまった時間を巻き戻すかのように、一定のリズムで身体を動かし始める彼。すぐにまた、快楽が襲ってきた。私は目を瞑ってその時を待った。
彼が絶頂に達したあと、私は脈打つ心臓を気にせず、彼の目をじっと見た。彼は、肩で息をしながらも私のことを見て、怯えたような顔をしていた。どうしていいか分からなかった私は、そんな彼の表情を見ないフリをして、静かに息を、吐いた。
「はあ……はあ」
彼が息切れしているのはいつものことだけれど、今日は、その息遣いが何か別の原因からきているのではないかと思った。
「本当に、どうしたの。大丈夫?」
何かが変だと思いながらも、彼がぎこちない笑顔で「大丈夫。今日も良かった」と言うから。
「そっか。それならいいのだけれど」
と私も気にしないように努めた。彼には彼の事情があるのだ。私にだって、彼に言えない事情の一つや二つくらいある。あまり深く詮索して彼を傷つけないようにした。
そう、心に深く刻んだ。
けれども、その日を境に、私たちの関係は少しずつ変わってしまった。




